家族
夕刻。
かるい鍛練の汗を清めおえ、いったん割りあてられた寮に戻ったのち、ザイカはそっと部屋を抜けだした。
陽が地面に面妖な影をいくつも伸ばすなか、夕食時の買い出し客でごった返す市場でいくばくかの食料を買いこみ、むかう先は難民居留地だ。
市都アザスミルは賭博で成り上がった街である。隣国ケシュカガとドーヴァーリにも程近いこの街は、どちらかというと貧富の差がおおきなカドヴァリスでも、より顕著にその特色をあらわしていた。
中心部から離れるほどに人出は少なくなり、たまにいきちがう人の身形も貧しくなっていく。それが難民の居留地ともなると、ザイカのまとっている服でさえ上等にみえるほどだ。
街のなかを北へとすすんだところに、その居留地はあった。
入り口にはまるで動物の檻にあるような粗野な鉄製ゲートがしつらえられている。そしてそのそばには、おなじく鉄の骨組みでもちあげられた屋根つきの監視台が、頭ひとつぶんたかい位置にあった。
シートのうえから馴染みの守り番が、ザイカに声をかけてきた。
「よう、ザイカ。まえの試合も勝ったか?」
「勝ってなきゃ、ここには来やしないぜ」
そう応えて、持っていた紙袋の中身をガサゴソいわせ、薄黄色の果物をひとつとり出すと、ゲート越しに放ってよこした。
「さっさとこいつを届けたいんだ。開けてくれ」
手土産をもらった番人はそれを懐にしまいこむと、待ってろ、といってゲートを開けてくれた。
この門は国がこしらえたものではなく、ここの住人がみずから設置した、いわば自衛のためのものだ。
カドヴァリスも他の国同様、難民によい顔をみせる人ばかりではない。そういった排他的な人間の侵入を防ぐとともに、こちらからも不届き者を街に近づけないようにして、無用な摩擦を極力減らそうとする、難民側の精一杯の自制のあらわれでもあった。
掘っ建てのバラックやテントのならぶ、砂地の雑然とした道をいきながら、ザイカはここにいた頃のことを思い出していた。
──はやくここを出たい。どんなことをしてもこの砂漠から抜け出して、この国に自分たちの居場所を作るんだ。そんなことばかり考えていた······。
大通りとよべる道から六つ目の角を右に曲がったところに、ザイカの家族が暮らす区域があった。
辻のむこうに彼の姿がみえると、まだ幼い妹と、鍋を洗っていた弟が気づき、パッと顔を輝かせて駆けよってきた。
「お帰り、兄上──じゃない、兄ちゃん!」
「おう、ただいま。これ、頼む」
抱えてきた紙袋の一方を弟に手渡すと、ザイカは物欲しそうな顔で見上げてくる下の妹の頭にまとわりつく砂埃をはらってやった。
「母さんの具合、どうだ?」
「うん······相変わらずだよ。やっぱりここの空気はよくないみたい」
乾きすぎだよ、といって弟は忌々しげに、沸きたつ砂塵を睨んだあと、先にたってテントの中へ入っていった。
強すぎる西日をさえぎるテントのなかは暗く、すこし蒸していた。弟に続いてザイカがその入り口をくぐると、奥で家事をしていた上の妹が、すこしだけほっとしたような表情でザイカを見上げた。
「お帰り、兄さん」
「ああ、ただいま。変わったことはないよな」
「ええ、私達はとくに。でも······」妹は前掛けの裾で手を拭いながらうなずいた。「母さんの具合が、少し、よくないの。ねぇ、兄さん、何とかならないの? 兄さんが頑張ってくれてるのわかってるけど······このままじゃ」
ザイカは想いに詰まって黙りこんだ。
この妹とて、故国にいればここまでの重荷を背負うこともなく、今頃は嫁ぎ先でもさがしている歳だ。
それがこんな異郷の地で、ただ弱っていく母を看ることしかできないのは、どんなにか心がすり減ることだろう。
ザイカは感情をこらえて、妹の肩に手をおいた。
「もうすぐだ。俺があともうひとつ勝ちさえすれば──そうすればこことオサラバして、みんなそろって街で暮らせるようになる。もうちょっとの辛抱だ」
強い決意に燃える兄の瞳を見上げ、妹はうっすらと微笑んだ。
そう。Ⅰ級に昇格さえすればすべてが変わるのだ。
あとはうまく観客の人気を保ちながらコンスタントに勝っていく。そうすれば、みじかい現役時代を終えたのちも顔がきくし、なにをやるにしても良い印象を持ってもらえる。その頃には、しばらく生活には困らないだけの金も貯まっていることだろう。
ザイカはもういちど妹の肩をたたいて、のこっていた紙袋を手渡すと、病に伏せる母の枕元へと参じた。
この頃はいつも寝ていることのおおい母だが、今日は目を覚ましていた。ザイカが顔をのぞかせると、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、お帰りザイカ」
「ただいま帰りました、母上。具合はどうですか?」
「ええ、だいぶんいいよ。このまえお前がもってきてくれた薬がよかったみたいだ」
「それは何よりです」
ザイカは静かに、傍らに腰を降ろした。
「もうすぐⅠ級に上がれそうです。もうすこしだけ辛抱してください」
「──あの見世物かい。あんな······我々の神聖な儀式を汚すようなものに」
「母上·····」
ザイカが優しくなだめるようにいうと、母は諦めたように息を吐いた。
「ええ、解っていますとも。あれのお陰で、私も、お前たちもなんとか飢えずにやっていけているのだからね」
それでも情けなくてしょうがないのよ、と母はこぼした。
「あれはお前の誇り、一族の誇りだもの。ケシュカガの戦士にとって、なによりも得難いものだ。それがこの国ではたんなる賭けの余興だなんて······しかも誰あろう、お前がそれに出てるだなんて」
ザイカは目を見開いて、それからぐっと口をかたく結んだ。
そのとおりだ。そのとおりなのだが、いまさらいっても詮無いことだ。
荒々しい大自然と風土に、特色のある文化が根づいた国、ケシュカガ。その第十一氏族長正妃。それが母の本来の肩書きである。もとは側室の身であったが、先の正妃が若くして亡くなった後、正式に妃となった。
その息子であるザイカは、いうなれば、次代の族長候補筆頭である。
もっとも自分としては、妾腹の身であるからと、幼い頃からさんざん言われてきたこともあり、もっぱら戦士として己を高めることに心血を注いできたし、そちらのほうが性にあっていると思っている。
だからこそ、あの偉大なる戦士の儀式にも挑み、そして見事勝ち抜いた。
こちらでは鶏闘とよばれる競技の正式な名称は、虎層という。
本来は、自分たちの故国ケシュカガで、最強の戦士を育成するための聖なる儀式だ。これを目にした何世代も前の将軍が自国へ持ちかえり、命懸けの娯楽にしてしまったのが、あの忌まわしい競技のはじまりとされている。
虎層では、けっして相手の生命を奪ったりなどしない。
それぞれの氏族から選ばれた若き戦士が、逃げ場のない柵のなかに一対一で向き合い、もっともおおく勝ち抜いた者ひとりが、偉大なる誉れを得るのである。
その威光たるや、たとえ別氏族の長であろうとも、軽々に扱うことはできぬほどだ。国をでる直前、ザイカはみごと、その試練の覇者となった。
そんな偉大なる儀式を、この国はオモチャにしている······
じくじたる思いがないわけでは、決してない。だが、これも俺達が生き残るための闘いであることには違いないのだ。そう思ってやってきた。
「······あの娘。今頃はどうしているだろうかねぇ。お前をずいぶん慕っていた。ほら······ツガロワの家の、ちょっと変わった名前の···」
マイシャ・ツガロワ。ずいぶん懐かしい名だ。国を出ざるをえなかった時は、ちょうどいまの弟とおなじくらいの歳だったか。
一族から謀反人がでて父を殺されていなかったなら、いまも親しく語りあえる関係でいられただろう。
だが、それももう過ぎたことだ。彼女の家は先進的な家風だったから、今頃はとっくに他国の貴族にでも嫁いでいるはずだ。
「マイシャなら立派にやっていますよ、きっと。そういえば、彼女は母上のお気に入りでしたね」
母はなにも応えず、黙ってザイカをみつめた後、寂しそうに笑った。
それからザイカは、つとめて話を明るいほうへと振っていった。
用事をすませた妹弟たちも集まってきて、彼の話す「外の世界」の話しに聴き入った。ザイカはひさしぶりに家族と食卓を囲み、ほんのひとときの安らぎを得た。
片付けなどひと段落ついて、彼が気分を変えようとテントを出たのは、そろそろ月も昇ろうかという頃だった。
じきにゲートの閉門時間がくる。だが、今夜はここに泊まるときめているので、それに追いたてられる心配もない。心持ちのんぴりと足を進めながら、彼は細々とした灯りの点いた通りに目をやった。
うら寂しい光景だった。すくなくともまえに帰った時はまだこうではなかった。こんなにも人であふれているのに、誰ひとりとして表情を和らげることもなく、会話らしい会話もない。
道端で焚き火を囲んでいた若者たちが、彼に気づいて忌々しげに舌打ちをしてみせた。
おなじ難民といっても、全員がザイカ一家のようにケシュカガからやってきたということではない。それぞれに止むに止まれぬ事情によって、大陸中央のドーヴァーリ地方や、遠くはウェラヌスキアから流れてきて人たちだ。
そういった多民族の人々が、なんの配慮もされずに一箇所にこうして閉じ込められているのだ。とうぜん若者たちは活力を持てあまし燻っているし、みなが皆ここをでる手段を見出せるはずもない。
まったくの少数派であるケシュカガ人の自分が自由に出入りしている様を、面白くは思っていまい。
口にこそ出さないが、妹たちも、さぞ周りに気を遣っていることだろう。
国をでてまで息を潜めるように暮らさなければならない妹弟たちが、ザイカには不憫でならなかった。
まことにありがとうございました。
また読んでやってくださいませ。
都合により、キャラクターの名を一部変更しました。