霜の袖
だが、本当に、これは───
あらためて見ると、なんという雄々しくも禍々しい姿だろうか。
相手を戦士として──かりにまともな神経をもった戦士としてみるならば、これほどの逸物にはあったことはない。もはや鎧とも呼べるようなその筋肉。いったいこの地上の何者が、傷をつけられるというのか。
ザイカは国にあった頃、戦獣たちとも幾度か拳を交えてきた。そのなかでも大物に出逢った際、たとえ相手が凶悪な獣だとしても、一族の戦士が皆、その強さに敬意を表したものだった。
どんなに身を貶めようとも、その心だけは忘れない。
ザイカは隙を生じるのを承知で、その獣にむかって深々と一礼した。
「我はザイカ・ヤピトー。故あって貴君を狩る者。貴君に猛者の矜持あらば、我が挑戦をうけられよ!」
とうに理性などないはずだ。「それ」がケヴァンの人格を残しているのかも怪しい。にもかかわらず、「それ」は、真一文字に進んでくるかに思えた脚を止めたまま、静かにザイカと向きあっている。
不可思議なほど静かに、荘厳ともいえるような時が流れた。
「ヴォォォォォ─────ッ!」
怪物は拳を振りあげて気炎を上げる。その両拳で厳のような胸をドンと叩くと、そのまま足元の邪魔な客席をなぎ倒し、ズドンと地面に叩きつけた。ザイカも折れたシートの手置きを二本ひろって身構える。
「行くぞ!」
挑戦者の礼儀として、ザイカはみずから先に打ちにかかった。
上り坂になっている床を駆け、怪物がくり出した左拳をかわすと、のこっていた座席の背を蹴って跳び上がり、その顔に即席の棍こんで一撃をくわえた。予想どおりダメージはほぼない。
怪物は張りとばされた左頬を撫でると、喉の奥でひくい唸り声を転がして、彼を睨みつける。
すこしだけ期待してしまったんだがな。だがとりあえずはこれでいい。自分に注意を向けさせることはできた。
いまだこの会場内には、おおくの観客がとり残されている。ホール側の関係者は怪物の逃走をおそれ、なかなか扉を開けようとず、そのため扉前に群衆が殺到し、収拾がつかなくなる寸前となっていた。ここでやっと賓客の避難がすみ、今ようやく扉が開かれたところだった。
「そう、お前の相手は俺だ···俺だけをみろ」
ザイカは冷笑いを浮かべながら、ゆっくりと後退した。さらに怪物の注意をひき、よりホールの奥へと誘い込むためだ。
この挑発はあたった。しぶとく追いすがる障害を除くための判断か、あるいは自我の暴走か。
怪物は、おそらくは刷り込まれていたであろう標的を無視するように、自分との決着を望む挑戦者へと応えるかのごとく、勢いをつけて走り出した。大きく跳躍し、舞台のうえで待ちかまえるザイカめがけ、全力の拳を振るった。
その巨岩の落下にもひとしい一撃は、ザイカをしても血の気を引かせるには充分だった。
おもわず後にさがったとたん、鉄檻に阻まれる形となり、慌てて体を右にかわす。おそろしい重さをともなった一撃のせいで砕けた床の破片が、鉄の檻を容赦なく直撃した。
それを確認する間もなく、次の一撃は左の腕からくり出された掌底。あろうことか床に据えられた檻──いったいどれだけの重さがあるのだろうか──をひっぺがし、ザイカを菱餅のようにのすのに十分な弾へと変えた。
「っ······なんという!」
たまらずまた左に避ける。だが、
「!」
目の前にあったのは、予期していたとばかりに完璧なタイミングで待ちかまえていた怪物の右拳だった。
とっさに両腕を盾のようにならべ、身の内へとひき絞るようにかまえて急所への直撃を阻止しようとした。
まるで熊に渾身の体当たりでもくったような衝撃と激しい痛みがあり、ザイカの身体は宙を舞って後方へと吹っ飛ばされた。
ガードをこじ開けられて内臓が破裂しなかったのは幸運だったとしかいいようがない。それだけの一撃であり、それを受け止めた両の腕の痛みはさらに深刻だった。どうやら骨までは折れなかったようだが、ひどい打ち身のために、瞬く間に赤く腫れ上がってきた。
早鐘のようにうつ鼓動と激しい呼吸のなか彼は悟った。
なるほど、相手はもはや怪物。躊躇ちゅうちょする必要はもうないのだな······
ザイカは立ち上がった。呼吸を落ち着かせ、諦めの吐息をもらす。
──いまでも目を閉じると思い出す。故郷に厳しい冬の到来をつげる、あの光景のことを。
そう、天から雪が零れおちる前触れのように。まるで地面から氷の華が芽をだしたかのように広がっていく、あの光景のことを。
白き霜は静かに、ただ静かに積もり、麦も枯れ草も区別なくおおいつくす。払っても払っても毎日のように積もり、いつしか大地を凍てつかせるのだ。
そして冬がやってくる······
我ながら情けないものだ。あれほど疎うとんじた故郷への想いに、気づけば何度すがってきたことだろう。
だが、まったくどうしようもないものだ。
不可思議な静けさを漂わせ、ザイカは怪物と化した男のまえに立つ。まるで時を止めたとでもいうように、とても静かで、とても穏やかに間が詰まった。
怪物も、いままで燃え盛るように感じていた、眼前の男からの戦意が忽然と消え失せたことをいぶかしみ、その剛腕を振りかざすでもなく、ただ相手の接近を目で追うのみにとどまっている。
両者の間合いは近かった。
近すぎる。
もし怪物が拳をひと振りすれば、その打点はちょうどザイカの身体と重なる。本来はその一歩そとへ出て間合いをずらすのが常道であるだろうに、彼はわざわざその一歩を踏み越え、内に入ったのだ。
「ヴォンガァァォァ────ッ!」
怪物は一転、猛り狂ったような雄叫びをあげる。それはまるで、彼のなかに残った闘士としてのわずかな矜持が、まるで諦めたかのようにたつ己を責めているようだとザイカは感じた。
「······安心しろ。諦めたわけじゃない」
ぽつりとそう漏らして、ゆらりと半身の体勢をとる。ほんのわずかに両膝をまげ、心もち両腕で構えをつくる。
まったくの無造作に、怪物が拳を振り下ろした。
「キャァァァ────ッッ!」
逃げ遅れ、固唾をのみながら事態を見守っていた観客の誰かがあげた悲鳴がホール内にこだました。
──瞬間。怪物にはなにが起きたのか解らなかった。
どこにも痛みはない。ただ、目の前の景色が逆さに映ってみえた。とたん鈍い音とともに背中に遅れて痛みがやってくる。
地面に落ちたのだ。
それも背中から。いまの痛みは、みずからが押し潰したいくつかの客席によるものだ。
怪物は目をぱちくりとし、むくりと上半身だけ起こして、ザイカをみた。彼は何事もなかったかのように、先ほどの体勢のまま立ち尽くしている。そう、まったく同じで。
まったく同じで?
怪物の頭にわずかにくすぶる知性が、この現象の違和をうったえた。否、それはおかしい。実におかしなことだ、と。
投げ飛ばされたのだ。どうやったかは知らないが、自分は確かにあの細身の男に投げ飛ばされて、こうして尻餅をついている。
だが、ならばあの男は、もっと離れたところにいるべきなのではないか。しかし間合いは相も変わらずらほんの腕をひと伸ばしすれば潰せる範囲にいる。こちらの間合いのギリギリ一歩内側に。
「ウガゥァッ!」
起きあがり様、力任せに捕まえようと左腕をくり出す。
つぎに意識した瞬間、またしても全身を身慣れぬ浮遊感が包んだ。
もうどれだけの時がたったのだろう。
さすがに半刻ほどは過ぎただろうか。にもかかわらず、誰ひとりとして声をたてる者はいなかった。まるで厳粛な儀式でも見守るかのように、ただ黙ってふたりの男のやりとりを見つめていた。
ホールに響くのは、投げ飛ばされ、もう潰すかもという心配もなくなった椅子の残骸のうえに叩きつけられ続ける巨体のたてる音と、その苦痛をあらわす声のみだった。
目の前の男はたしかに素手だ。すこし腕を伸ばせば届く距離におり、じっさい届かなかったためしはない。しかも先に動いているのは自分だ。
だのに、気がつくといつも自分の方が宙を舞っている────
いつの頃からか、怪物はザイカを殴りつけようとするのではなく、その捕まえられぬ実体の存在をたしかめようとするのように、ただ手だけを伸ばす行為を繰り返すようになっていた。
奴はいつも決まって自分の間合いぎりぎり一歩内におり、そこから近づこうとも、離れようともしない。
こちらが歩を詰めてもその分だけ退り、退けば捕まえるより早く間合いに入ってくる。その瞬間を何度となく狙うが、なぜか決まって、それを意識するよりもはやく、しかも恐ろしく静かに間合いに入られてしまうのだ。
怪物はもはや、目の前の幻をとり除くことしか頭になかった。だがその怪物をしても、自らのこの行動は、その単純な、尽きせぬ血の猛りをすらすり減らし、萎えさせるしかないものだということを悟らされるしかなかった。
一方のザイカも、けっして万全だったわけではない。怪物の攻撃で全身が痛むし、両腕だってまともには動かない。それでも、彼は怪物を圧倒し続けた。
──霜袖。一族の間ではそう伝わっている。
彼の故郷、ケシュカガのニバムル高原地方では、みじかい秋も終わりとなる頃から、うっすらと霜が積もりはじめる。それは払っても払っても飽くことなく、毎日静かに積もっては、大切な作物や牧草を枯らせてしまうのだ。
そして気づけば、その霜はいつしか雪を呼び、厳しい冬がやって来る。
この奥義は、まさにその霜そのものを体現していた。
払おうと思えばなんのことはなく払える。
だが毎日毎日、霜は止むことなく積もり続ける。
雪ほどには目にも映えず、だがそれゆえに着実に相手の戦意を立ち枯れにしてしまう。そこには彼我の体格差も実力差も、一切の不公平はない。
ザイカは鶏人として生きると決めた時、この奥義を自ら封じ手とした。この技にはまったく派手さがない。すなわち客受けが悪く、親方筋もいい顔をしないと思ったからだ。
だがいちばんの理由は、用いられた側にとって、それは絶望と同義だったからである。
もし手もなく屈せば、それは、敗け、即、死を強要される鶏人にとって、あまりにも無慈悲、あまりにも残酷といえるではないか。そこまでの大差がついてしまえば、たとえⅠ級の鶏人といえども命を獲られかねない。それがあの町、アザスミルでの鶏闘だった。
ゆえにザイカは、自らなにをしてでも生き残るという決意とは裏腹に、この型だけは何があっても使うまいという決意とともに歩んできた。そのせいで何度か危ない綱渡りもあったが、それでもいままでそれを守り通してきたのだ。
だが最後に立ちふさがったこの相手だけは、その彼をもってしても、封じ手の禁を破らざるをえないまでに追い込まれた、決死の相手だったのである。
やがて、永遠にもおもえる我慢比べの幕が下りるときがやってきた。
いままで機械的にでも立ち上がってきていた怪物が、とうとうその動きをとめた。
天井を仰いだまま指先ひとつ動かさない。汗だくとなったザイカは構えを解くと、磨耗した精神を奮い起たせ、用心しながら怪物に歩みよった。観衆は沈黙してこの光景を見守った。
顔を見おろせるような位置にきても、怪物は動こうとはしなかった。
ザイカがその眼をのぞきこむと、ジロリと目玉だけが動いて彼をとらえたが、その瞳の色に叛意は感じられない。
ザイカは舞台まで戻ると、そのうえに飛散した檻の残骸のなかから、太く真っ直ぐな、先が鋭利に尖ったものを選って、また怪物のもとへ歩んだ。
ふたたび視界にはいった敵が、自らに最期をもたらせる武器を手にしているのをみても、やはり怪物はなんの意思も示さなかった。いや、違う、ひとつだけあった。
それは受け入れるということ。おのれの敗北と、その結末を──
怪物は応じるように、ゆっくりと瞼を閉じた。
ザイカは故郷の祈りの言霊を唱えながら、ただ静かに、その怪物の額に鉄の楔を打ちこんだ。
怪物の呼吸が止まるのを確認してザイカがやっとその手から破片を離した。
しばらくの間は物音をたてるのをはばかっていた群衆から、ひとりの洩らした吐息をきっかけに、一気に歓声と拍手の波が沸きおこった。
事の成り行きを見守っていた乱入者ふたりも、うなずきあうと、静かに会場を歩みさった。
自分に向けられている嵐のような喝采のなかにあっても、ザイカはこの胸を満たしていく虚しさをとめられない。
これはいったい、誰のための勝利か。誰のための敗北か。
なぜ目の前に眠るこの偉大な戦士は、鶏人どころか、人であることさえむしり取られて死なねばならなかったのだ。
考えても考えても、答えなど出てはこなかった。
ああ、うるさい。黙れ···やめろ。俺をいらつかせるな! 考えさせろ!
突如はちきれたように。天に向かって、かれは息の続くかぎり咆哮を上げつづけた。
お読みいただいて、ありがとうございました。




