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私のあの日~3.11からのできごと~

作者: 幻ノ月音

2011年3月11日(金)以降、私が経験したできごと。

直接的な津波の描写はありません。

 


< 2011年3月11日(金) >


 私の住む宮城県南部は海と山の両方に隣接しており、中腹には平地が広がっています。人口は約4万弱、海側に近い4号線にはチェーン店や個人レストラン、スーパーマーケットに混じってマンションや住宅が点在しています。山がある西側は小学校、中学校、高校と学生や一軒家などの住宅地が広がっていて、それなりに人の行き来が頻繁にされている、豊かなところという言葉が似合うくらい穏やかで平和な地域。私はやや西より勾配のある山の麓の住宅地に住んでいます。山は歩いて2、3分のところ、海までは車で10分ほどでしょうか。住地宅の切れ間には、畑や田園が広がっています。といっても3月はまだ田植えもされていないので、むき出しの土がそのまま広がっていました。

 3月11日当日、私は仕事をしていました。自宅兼店舗の(うち)は理容店を営んでいます。いわゆる典型的な田舎の床屋です。

 その日は母と二人で仕事をしていました。平日の午後、お客様が一人来店中。母は自宅の台所で(何やっていたのか定かじゃないけれど)、店には私一人とそのお客様(70代のおじいさん)だけでした。そしてたまたまシフトが休みだった双子の姉が自分の部屋でくつろいでいました。今思うとこの姉が休みで本当に良かったです。

「いつも通りでよろしいですか?」

「うん、よろしく」

 お客様とそういった当たり前の会話から始まり、そのまま天気の話、2日前に起きた三陸沖を震源とする地震(最大震度5)の話へと続く。

「地震大丈夫でしたか?」

「うん、大丈夫だったよ」

「久しぶりに大きな地震でしたね」

「いんや、30年前の地震に比べたら全然だっちゃ。あのときはブロック塀の下敷きになって亡くなる人もいてね……」

 約30年前(現在は40年前)に宮城県沖で大きな地震がありました。そのときに瓦礫(がれき)やブロック塀の下敷きになって多くの人が亡くなったそうです。30年周期で起きるため、そろそろ大きな地震が来るのではないかと、地震が来るたびに話題になっていました。宮城に住む人達は、けして地震が他人事だとは思っていなかったはずです。お客様はそのときの貴重な体験談を話していました。

 店内はBGM代わりのラジオを流しています。穏やかな世間話に従事しつつカット、シャンプー、顔剃りを順調にこなして仕上げの蒸しタオルを顔に乗せた瞬間、


 2011年3月11日午後2時46分


   <<地震です、地震です>>


 ラジオの緊急地震速報がけたたましく鳴りました。

 私が最初にとった行動は、まずお客様を起こすことです。蒸しタオルを外して顔剃りのために横にしていた理容椅子を自動ボタンでお起こし、お客様の胸にかけていたシェービングクロスを外す。始まりの体感は震度3くらいでしたでしょうか。またかという諦めと仕事を中断されたことへの不満をかかえながら様子をみていたら、微弱になってきました。ああ、このままおさまるのかなと思いました。揺れが次第にゆっくりに静かになってくる、けれどドンッといきなり縦揺れの衝撃、そして「えっ!」という間に部屋全体が

 ガタガタガタガタ

 ズンズンズン

 ドンッドンッ

 もはや効果音、擬音では表せませんね。

 その時の体感を例えていうなら、『洗濯機の中でぐるぐる回されている』ような、もしくは『ジェットコースターに振り回されている』ような、そんな体感でした。

 地からの突き上げだけでなく壁、天井、窓、全ての物が唸り軋む音を発しシャッフルされるようでした。あまりの大きな揺れでお客様と一緒に理容椅子にしがみつきました。理容椅子は約重量200キロほど、安重とはいえないけれどあのときは何かにすがり付くしかなかった。

「なんじゃこりゃ!わー、わー」とお客様が叫び、私は言葉を無くし、ただただおさまるのを待つしかなくて。けれど、揺れが

 終わらない

 終わらない

 終わらない

 いつまでたっても揺れが終わらない。

 そしてふと『母は?』と思いいたり「大丈夫ぶー!?」と店と自宅の入り口へと声を張り上げました。理容椅子から離れて目に見えるドアまで右往左往しながら「大丈夫ー!?」とまた。重なるように聞こえてきた「そっちも大丈夫!?」という声に続き「お母!やめて!」という制止する声。これは姉です。

 あとから聞いた話によると、母が観音開きになっている台所の食器棚を開かないように押さえ込もうとしていたそうです。姉は危険だから止めなさいと母を止めたそうで、ついで食器が崩れる音とガシャンガシャンと次々と何かが割れる音。お客様から離れるわけにもいかず、もはやどうなっているのか分からない。あのとき母の行動を姉が止めていなかったらと思うとゾッとします。母は反省していました。でも気持ちは分かります。大事なものが壊れていくのを見ているだけなんて悲しいですから。隣に並ぶ引き戸の食器棚の方は開くことはありませんでしたが、棚の中でめちゃくちゃになっていました。

 人は不思議なもので、今まさに経験したことのない最大級の地震にあいながら、すでにおさまったあとの部屋の片付、仕事の弊害、家の修繕を考えている。これが『慣れ』なのかもしれない。頻繁に地震にあってきているために、次の苦労を知ってる。その苦労をなるべく最小限にしたい欲がでてきているのかもしれません。怪我を負うというリスクを頭からはなしている人がほとんどではないでしょうか。

 母の側に姉がいてくれて本当に良かった。

 おさまらない地震の中で安全な場所を探して、外に出るという選択肢もありましたが、うちの店は階段があるために思い(とど)まりました。というかドアの近くまでお客様のおじいさんと一緒に移動するので精一杯というのが正直なところ。

 目の前が暗くなりました。比喩ではなくて、停電です。店舗は窓ガラスが広くとられているので外の光で辛うじて部屋が見渡せます。ただ厚い雲り空だったので弱々しい光。


 マグニチュード9.0、最大震度7


 私の地域は震度6強でした。約3分間揺れていたそうです。感覚的にはもっと揺れていたように感じました。

 やっと小さな振動のカタカタっというゆっくりとしたものになり揺れがおさまってきました。隣のおじいさんの「これは前以上だ、大変だ、大変なことが起きた」と小さいながらもはっきりとした声が印象に残っています。

 隣の部屋の方からも「これはヤバイ」という語彙力がなくなった姉の声。(私も「ヤバイ」しかでてこなかったけど)

 私はおじいさんに怪我がなかったことにホッとして改めて店を見渡しました。あらゆるものが滅茶苦茶に散乱している。ガラス棚の整髪料、クリーム、ブラシ、理容道具、ラジオ、そしてレジスター。レジ台から重いレジがコンセント一つでぶら下がりブラブラしていました。鏡が外れて割れなかったのが奇跡です。ストッパーの釘が抜けかかっていて縦横120センチの鏡はギリギリのところでとどまっていました。おじいさんを客間に移動させていて良かった。天井の蛍光灯もいくつか外れて片方が垂れ下がり電線が丸見えに。ラジオもいつの間にか聞こえなくなっていました、といってもうるさすぎる騒音でアラームすら聞き取れませんでしたが。

 体が強ばっていました。呼吸は荒く心臓が走ったあとみたいに高鳴っていました。でも体は冷たかった。

 家が心配だというおじいさんに、私は髪のセットをしようとして櫛を通しましたが、「いいよ、いいよ」と断られました。そりゃそうですよね。髪が乾かしたあとだったのは良かった。そしてお金を置いてご自宅へと急いで帰っていきました。入れるレジは壊れてしまったけど、おじいさんの方が冷静でしたね。いつもなら帰るお客様には「ありがとうございました」と返すのですが、私は確か「お気をつけて」とだけ言って見送ったような。

 母と姉のいる台所に行くと、母が風呂場に水を入れていました。断水になるかもしれないからと。だけどそれが失敗、出てきたのは茶色の汚水。半分残っていたはずのお風呂の水が泥水になってしまいました。台所の水道の蛇口も止まり、水洗トイレももちろん反応なし。こうなると不安になって飲み水の確保へと頭が向きました。そのときガスも止まっていることに気づきました。店舗のボエラーは私が揺れている最中に止めています。とりあえず足の踏み場を開けるための片付けを母たちにお願いして、私は近くのコンビニに急いで買い出しに行くことにしました。

 コンビニに行くとすでに行列ができていました。並んでいる人のほとんどが女性と高齢者。男性は一割程度。平日の午後3時ですからね、家にいた人たちが来たのでしょう。みんな無言でした。話し声も囁く程度、青い顔をして(たぶん私も)静かに粛々と必要な商品を手に取り籠に入れて列に加わる。薄暗い店内そしてBGMのないコンビニが異様な雰囲気で、落ちた商品は籠に入れて床に並べられており、割れた物は片付けられていましたが、液体もモップでさっと拭かれた程度。私がその時買ったのはうる覚えだけど、ペットボトル500mlの水、粉末のコーンスープ、レトルトのカレー、お粥、バウムクーヘンなど日持ちしそうな菓子類だったような。カップ麺は無くなっていました。今思うと商品が残っていただけマシでした。

 乾電池は家にストックがあったので大丈夫でした。店員さんも大変だったのに電卓を使って計算しながらお釣も手動で開けたレジから取って渡していました。もう感謝しかありません。これが電子レジだったら停電のときどうなるのでしょうね。並んだお客さんも多分私も、静かなパニック状態。冷静にならなければと考えれば考えるほど、目の前に飛び付いてしまう。備えているつもりでも足りないと思ってしまって過剰な備蓄に走りました。

 家に戻ると先ほどよりも部屋が薄暗くなっていました。日の入りが近づき厚い雲からチラチラと雪が降ってきていました。どんどん気温が下がってきて、部屋の中でもジャケットを着たままでいました。

 懐中電灯と仏壇のロウソクを所々に置いて夜に備えました。装飾用だったプレゼントのキャンドルも役に立ちました。ひと息ついたあとは電気が付かないと分かっていても、つい炬燵(こたつ)に入ってしまうんですよね。

 携帯は全く繋がりませんでした。充電ではなくて、電波棟がやられていたんですが、このとき私は混雑しているせいだと思っていたし、そのうち繋がるだろうと焦らず待つことにして、情報収集を優先しました。テレビはもちろん駄目なので他の情報収集の方法で、一番役にたったのは乾電池で動くラジオ。雑音混じりに聞こえてくる大津波警報、私はこのとき三陸沖だけの話だと思っていましたし、山の方が近かったので土砂崩れを心配していました。真っ暗になってわずかな灯りだけを頼りに三人でずっとじっとしていた。夕飯はパンだったかな。寒かったのでズボンと靴下を二枚履いて、上もセーターとトレーナーの重ね着。部屋の中で白い息が出たときは、家族と顔を付き合わせて笑ってしまいました。

 私は呑気だった。

 その晩は眠れませんでした。体の緊張が抜けないままラジオを聞いて、10分置きの余震に反応してはまた横になって、こんなに朝が来るのが待ち遠しいと思ったことはありません。絶えずラジオから聞こえてきたのは、仙台沿岸部に100~200体の遺体という信じられない情報でした。




< 震災2日目、12日(土) >


 明るくなると同時に動き出しました。

 もちろん仕事は休業。母いわくここに店舗を構えてから初めてのことだそうです。

 私は歩いて10分の避難所指定の小学校と中学校へ行きました。道中家々はガラスが割れていたり傾いていたり、屋根瓦(やねがわら)もはがれて崩れ落ちていました。家の周りの道路はボコボコで段差や亀裂が入っており平らな道を探して歩きました。マンホールも20㎝以上飛び出しているところもあって車だったら無理だったでしょうね。あとからよく考えるとマンホールが飛び出しているんじゃなくて、道路が地盤沈下していたんですよね。

 避難所は静かな住宅地と打って変わって騒がしく人が大勢ざわざわと行き交っていました。知っている人の顔を見つけてホッとしたのもつかの間、そこで私の住む市にも大津波が押し寄せたことを知ったのです。まさかと思いました。こんな仙南で津波?と。目で見れないために半信半疑のまま校庭にずっと突っ立っていることしかできず、不安が増すばかり。あとから知ったのは想像以上の惨状でした。

 それからご近所さんとも話し、口伝えで『あのスーパーが商品を格安で販売している』ことや『給水車が市役所と森林公園に来てくれる』ことなどを教えてもらいました。充電も発電機がある中学校へ行き、ほんの10%だけ復活。でも結局通信は繋がらないままなので、気休めに発電機の電気を使ったことに申し訳ない気持ちになりました。体育館の中は怖くてのぞけませんでした。見て見ぬふりをした自分が情けない。

 2日目は自分の周りの情報を見聞きするだけで精一杯でした。

 夜は早く訪れ、早々と就寝。

 星空を見る余裕なんてなかった。

 暗闇の中でヘリコプターがひっきりなしに飛び交い何度も頭上を通り過ぎていくのを聞いていた。




< 3日目、13日(日) >


 3日目も明るくなると同時に行動。

 午前中は森林公園へ行って給水車の列に並ぶ。終始曇り空。寒さの中みんな愚痴もいわずに長時間じっと我慢して並んでいました。確か3時間弱かかったと思います。私と姉は二人で並び、肩にはショルダーの付けたラジオを小音で流しながら聞いていました。情報依存、新しい情報が流れて来るかもしれないと思うと、無音になれなかった。そのうちある男性が話しかけてきました。えっと驚いて迷惑だったのかもしれないと焦る。でも心配は危惧で、彼はラジオの音量をもっと上げてくれないかと頼んできました。聞きたいのだと。

 私たちみたいに誰もが家にラジオがあるわけではありません。3日目にもなれば携帯電話の充電も切れてテレビもまだ見れな状態、全く情報が取れない人もいました。そうした人達はほとんど口伝えで聞いた情報だけで、どこがどのくらいの被害なのか、どこが無事なのか、何が何だか分からないことばかり。この給水ポイントも近所の人から聞いたものでしたし、食べ物の調達も歩いて探し回ったり、お裾分けや家にあった残り物で繋いだりと人から人の伝達で辛うじて生活していました。情報難民者が多かった。こういうときに、日頃からご近所さんの付き合い方がでてきてしまう。

 あなたはお隣さんや同じ班の人達の顔をどのくらい知っていますか?

 3時間弱かかって給水車に到着。本当にありがたかったです。たとえただ並ぶだけだったとしても目的がある、やることがあるということは正気を保つ上では必要なことでした。

 午後は小学校で炊き出しをやるというので、私はそれに参加することにしました。小学校の調理実習室には米袋がいくつか置いてあり、その他にも塩と海苔もあってほとんどの材料が農家さんや地元の人達の寄付でした。おにぎり作りに10人もいなかったけれど、互いに情報収集をしながら会話ができる時間にホッとしました。そうしながら同じ大きさのおにぎりを作り続け、お盆に均等に並べていく。具はありません。

 夕飯時間になって、そのままおにぎりの給仕を手伝いました。このとき、班長さんにいわれたことは、必ず食べる人に渡してほしいということでした。中には自宅にいながらおにぎりだけをもらいに避難者に混じっておにぎりを受け取に来る人がいるそうで、そういった人はたいてい家族分の4個くれ6個くれと言うそうで、注意して渡してほしいと。寄付していただいたお米もいつまでもつのか分からない状態でしたし、見境なく渡して足りなくなることを危惧していました。だから避難所にいる一人一人に渡るように自分で、という取り決めにしたそうです。避難者の方々もそのように伝達されているはずでした。

 体育館に入ると、新聞や段ボールを広げただけの簡素な下敷きに家族がひとかたまりになって談話したり寄り添ったりしていました。誰もが不安そうな表情。

 体育館の端の方で汁担当とおにぎり担当に別れて横列になり、わらわらと人が集まってきました。ラップにくるまれた小さいおにぎりを一人一人渡している最中、30代の女性が「おにぎり3個ください」と言ってきました。私はそれに対して「申し訳ありませんが、おにぎりは一人1個になります。ご家族分でしたらその人ご自身が取りに来てください」というニュアンスを伝えました。彼女は表情を無くし去っていきました。彼女の向かった先を見ると大人の男性と子どもの姿。ただ座っているだけの旦那さんが奥さんに任せて取りに行かせたことを知って少し私は腹ただしく感じました。何か交わしたあと、また彼女がこちらに戻ってきました。「具合が悪いんです」だから取りにいけないんです、と。とても悲しそうな顔をして。

 私は酷いことをしたと気づきました。頑な対応をせずにもう少し話を聞くべきでした。私はこんな緊急時になっても、『~なら』『こうあるべき』と押し付けて差別をしていた。なんて浅はかで恥ずかしい行為か。震災の恐ろしい体験に男女も年齢も関係ありません。

 私はおにぎりを3個渡しました。もっと想像を膨らませていたら何かできたのではないか何かかける言葉があったのではだろうか。ごめんなさい、彼女の後ろ姿に謝罪してももう遅い。




< 4日目、14日(月) >


 電気、ガス、水道、ライフラインは未だに断絶中。

 風呂に入れない日が続きましたが、汗をかきにくい気温だったのでなんとか耐えられました。夏だったらと思うと衛生的になんて無理だったでしょうね。

 給水車の行列は更に延びていました。私たちは昨日の分がまだあったので給水は後回しにして、食べ物を探しに行くことにしました。

 自転車に乗って駅の反対側へ。消耗しやすい生活用品の調達とついでに駅前の公衆電話。無料で通信できるようになったとラジオで聞いていたので午前中に親戚の電話番号のメモを片手に向かう。こういうときのために公衆電話の場所をこれからも把握(はあく)しておくべきかもしれません。親戚の一人にかけると驚いた声が。伯母さんは涙声で「よかったー!」と喜び叫んでいました。連絡を待つ身の気持ちを(おもんばか)ることをしなかったことを反省します。繋がらなかったことを詫び、家族は無事ですとだけ伝えました。簡潔にしたのは後ろにも今か今かと連絡を取りたがっている人達の長蛇の列ができていたから。

 あとから聞くことに、仙台空港が津波に襲われる映像を見た伯母さんは、私たちから連絡がつかなくなり、もう駄目だったのではないかとずっと心配していたそうです。悲観して夜も眠れなかったと。眠れない夜を過ごしたのは被災者だけでなく日本中だったのでしょう。

 その日の夜、ついに電気が付きました!

 ありがとう、ありがとうと。資力した電力会社の人達には感謝しかありません。思わず家族で拍手、明かりの有難みが沁みました。

 そのうち通信も復活。翌日メールも辛うじて送受信できるように。母は改めて親戚に電話。電気がついてやれることが増えて精神的にも軽くなりました。他にしたことは、電子レンジで温かいお湯をつくってお茶を飲んだり、夕飯はレトルトカレーを温めて食べれました。ご飯もパックもの。それから蒸しタオルを使って体を拭いたり、ストーブを付けたり(灯油の心配があったので家族集まって一部屋のみ)、体を温めることができました。そんな当たり前のことができていなかったのです。

 そして、テレビ。そこでやっと故郷の惨状を知りました。

 ラジオでも伝えていた、人から教えてはもらっていた、沿岸が悲惨になっていることは。でも信じたくなかった。耳で聞く以上の衝撃、目で見る映像にショックを覚え、言葉にならないうなり声を出すしかありません。私はそのとき初めて泣きました。




< 5日目、15日(火) >


 給水車に1時間並ぶ。4時間待ったという人がいる中で5日目にして大幅に時間が短縮されたのは、二台だった給水車が災害派遣用の大きいものに変わり、もう一台増えたおかげ。

 そのとき隣に並んだ歳上の女性に「あなた達は長時間外にでない方がいい」と言われました。当時の私の手帳には『福島原発不安』の文字。それでも電気は付いたものの、生活の不安は尽きませんでした。見えないものより、今目の前に迫る不足品を補うこと、水の確保を優先する他なかった。一緒に並んでいた見ず知らずの女性、あのとき優しい声をかけてくれた彼女の言葉を忘れません。

「私はいつ死んでもいいけど、あなたたち若い人達はもっと体を大事にしてね」




< 6日目、7日目、16日(水)、17(木) >


 お店に震災以来初めてのお客様が来ました。

 電気が復活してから様子を見てお店の入り口を開けていました。格安でカットシャンプー顔剃りを実施。蒸し器が使えたのは大きかった。一番注文が多かったのはシャンプーです。そりゃお風呂に入れないんですもんね。ガスも水道も復活していませんでしたし、無謀に水で頭を洗った人もいたけれど、春の兆しがあるとはいえ、まだまだ底冷えする時期、風邪を引いたらたまったものじゃありません。そこで私と母が行ったのはヤカンにお湯を入れて頭を洗うというもの。こんなんで良ければ?という風に持ち出すと、お客様は笑って「お願いします」と頭をシャンプー台に乗せてくれました。1週間洗えていなかった人がほとんどですからね。拙いながらもガシガシ頭を洗ってチョロチョロとお湯を無駄にしないように丁寧に流すと、「ああ、スッキリした!」と喜んでくれる人もいれば物足りない表情をする人もいて、仕方がないと分かっていてもやるせなさが膨らみます。ホームグラウンドであるはずのお店がとても不便で、いつも通りいかない仕事に母と何度も喧嘩になりました。ぼうぼうに伸びた髭もそりました。あと多かったのは丸刈りにしてほしいというもの。洗えないのなら無くしてしまえばいいとのこと。それから女性も来店。ベリーショートにしてほしいと注文も。こんなに短くしたのは初めて、と言いながらスッキリした首筋をなでて笑っていました。常連さんが来ると互いの近況報告と地域の被害のこと。新規のお客様も多かったです。お店がほとんど開いていませんでしたから。

「ここはいいね」

 去り際、何人かにいわれた言葉です。


 家があっていいね

 電気がついていいね

 家族が生きてていいね

 仕事ができていいね

 あんたらが羨ましい


 その日の夕方、町内会で寄付を募るという連絡が。『物品の寄付のお願い』という見出しのお知らせ。不足品目の中にタオル類があったので、うちからは雑巾用と新品のタオルを何十枚か積めるだけ積めて町内会長さんの家まで持っていきました。開けられた玄関の奥の部屋には畳にたくさんの物資が積まれていました。私の前にすでに持ってきていた人がいたのでしょう。手狭になってしまた町内会長さんの部屋が満杯になってしまったけれど、本人は困るどころか嬉しそうでした。

 誰かの役に立ちますように、少しでも生活が落ち着きますようにそう願い、きっと大丈夫、心にそう唱えて暗い道を歩いたのを覚えています。そして『こんなことしができなくてごめんなさい』と謝ることしかできない自分の不甲斐なさを思いながら。




< ~3月21日(月) >


 11日目にして、我慢できなくなりガソリンのメモリを見ながらちょっと遠出して温泉へ。旅行気分だったらどれだけ良かったか。それでも11日振りのお風呂につかり身も心もスッキリしたのは良かった。またがんばろうと思えた。

 お客の立場になって改めて感じました。無事な場所があることのありがたみ、いつも通りの生活と営みがあって迎えてくれる場所があるということ。西日本の方々がいつも通りの生活を続けようと意識してくれていた行為はちゃんと誰かを救っています。帰りに食べた300円のしょうゆラーメンが本当に美味しかった。

 その日の夜に水道復活。

 地域の水道が復活したこともあり、ガスが復旧するまでは、シャンプーのお客様はお断りする判断になりました。どうしてそれまでうちの店が水を確保できたのか。給水車の水を使うわけにはいきません。ご近所さんで井戸をお持ちの方がいてその方の井戸水をいただいておりました。

 私達含め近隣の人達もやってきて、本当に助かりました。飲み水としては飲めません、といわれていたので洗い物や体を拭くことに使わせていただきました。換わりにうちからは新品のタオルと来客用の使っていなかった毛布を差し上げました。物々交換の連鎖でなんとか互いの信頼関係を保っていたと思います。

 水洗トイレの水は小学校のプールの水を使いました。(しも)の話は省きます。真夏じゃなくて本当によかった、ということだけ。




< ~25日(金) >


 15日目にガスの供給が復活。

 一度だけ入った温泉から4日後のこと、やっと温かい自分の家のお風呂に入れました。これでライフラインが揃いました。




<~4月7日(木)>


 たびたび余震は続いていましたが、近日では一番大きい余震が起きました。地元では震度6弱(最大震度6強)。またもや停電したものの翌朝には電気がつきホッとしたのを覚えています。本当に感謝いたします。




< ~4月18日(月) >


 この年の桜は思い出せない。

 震災から1ヶ月以上だった頃、理容組合のメンバーでカットボランティアに行くことになりました。場所は沿岸近くの市民会館。市では一番大勢の被災者が避難しているところです。

 ミーティングルームのような室内を利用し、椅子はパイプ椅子。刈り布や道具はすべてこちらで準備しました。慣れない場所でのカットに四苦八苦しつつ、床に膝を着いてえり足をカットしたり、洗えずにパサついた櫛の通りづらくなった髪にトリートメントを付けて通りを良くしたりと、なんとかその方の希望のカットができるように心がけました。

 何人かカットしたあと次に来たのは小学2年生くらいの女の子でした。髪は肩甲骨の下までの長さ。お母さんがそばにいたので

「どのくらいの長さ詰めますか?」

 と私が聞くと

「すくだけでいいです」

 とのこと。

 わかりましたと私は答えて女の子の髪に櫛を通そうとしましたが、全く通らない。長く細い髪が絡まりねじれて櫛が止まる。洗い流さないタイプのトリートメントを付けても全く駄目で、ゆっくりほぐそうと試みるも固結びのようになっていて歯が立ちませんでした。これは……

「あの、お母さんすみませんが、この傷んだ毛先もカットした方がいいかもしれないです」

「……分かりました」

 本当だったらいつのも美容室ですいて軽くするだけだったのでしょう。女の子の髪は酷く傷み、もはや切ってしまわないと後々もっと手入れが酷くなると思いました。ごめんなさい、と思いながら毛先を10㎝ほど取り間をすいていきました。お風呂は仮説で入ってはいるのでしょう。けれどフケと油が次々と落ち痛々しかった。きっとストレスからきていたのでしょう。慣れない避難所生活と恐ろしい地震そして津波。

「学校楽しい?」「お昼は何食べたの?」「お母さんとどこに遊びにいったの?」「お友だちと何が流行っているの?」「このアニメ知ってる?」

 いつもなら床屋の当たり前の会話。このときは何も話せなかった。だって女の子は全部我慢してるんだもの。楽しいお話ができなくてごめんなさい、せっかく伸ばした髪を切ってしまってごめんなさい、いつもの美容師さんじゃなくてごめんなさい。

「大丈夫?」の問いかけに、女の子はずっと無言でした。




< 最後に >


 お客様のご家族、同業者、友人。

 悲しい話をたくさん聞きました。

 火事場泥棒や犯罪にあった人もいます。

 そんなとき返せる言葉がなくて無力感に(さいな)まれます。何もないくせに、無事だったくせに、あなたはいいよね。

 その通りです。あのときに戻れたらなんていわない。もう起きてしまった震災、無意味な思考。

 いつも日常に戻りたいといっていたけれど、今のこの結果の積み重ねがいつの間にかいつもの日常になって、どんどん新しいことが増えていく。私は忘れないためにこのエッセイを書こうと思いましたが、けっこう覚えていたことにホッとしていたりもします。

 忘れられないできごとから忘れたくないできごとになり、時が進むたびに『震災を知らない』世代が増えてくる。私の経験は全く役に立たないことばかりですが、そんな人たちに少しでも知ってほしいと思って書きました。

 震災は突然やってきます。でも準備はできるんですよ。ああしとけば良かった、こうすれば良かったと思うことがないように。


 震災から4、5日たった頃、町内の班長さんが支援物資を持ってきました。その頃は道路や交通の被害が多大で供給が遮断されて物資が止まっていました。先行きの見えない不安に1日の食事を2食もしくは1食分を2回に分けていました。そんなときに来た支援物資を見て私たちは「うちはいりません。他の困っているご家庭に差し上げてください」と断りました。班長さんは困った顔で言いました。

「みなさん同じようにそう言っていらないっていうんですよ」と。

 自分のところはいいから他の人のところへ。

「そんな人ばっかりだからね、物資が余っちゃって。賞味期限もありますから、もらってくださいよ。ちゃんとみんなが行き渡るように仕分けをしてますので、大丈夫ですよ」

 そう笑って言いました。

 そんな人ばかりの日常を忘れないために。


 ありがとうございました。






ご高覧ありがとうございました。

震災のあと、私は大好きな本を読めませんでした。どんなときでも毎日、本を触り文字を追っていた活字中毒の私が。

娯楽を楽しめたのはかなりあとになってからです。

久しぶりに読了したのは赤川次郎「盗みとバラの日々 (夫は泥棒、妻は刑事シリーズ)」です。ユーモアミステリーの楽しいお話が読みたかったんでしょうね。高校生の頃に赤川作品にハマってそれからずっと愛読していました。慣れ親しんだ物語にその頃は赤川作品の再読ばかりしていました。読書ノートに残っています。原点回帰に戻って自分を再構築したかったのかもしれません。

今も先行きの見えない世情に気持ちが落ち込んでしまうときがありますが、『好き』の貯蓄をコツコツと積んでいきたいです。贅沢はいらない、今までの奇跡を宝物に。

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