兎と月{あるいは:節制;} その4
「宗堂さんは――ここに居る霊をどうしようとしていたの?」
「それは……」
今度は宗堂が口ごもる。
それは先ほど感じた宗堂の素直さにも関係があった。
宗堂はきっと、心の優しい子なのだろう。深渕たちのことを心配して声をかけてきたように、悩んでいる人がいたら相談に乗ってあげるのだろう。そして幽霊が視えるということは――人間だけでなく、幽霊にまで同情してしまうのだろう。
「自分に取り憑かせようとしていた?」
「…………」
幽霊というものが、未練や後悔から彷徨い、苦しんでいるのだとしたら、優しい宗堂はその霊たちまでも、何とかしたいと思ってしまうのではないだろうか。
「幽霊は願いを叶えたら――成仏とかするの?」
「思いの強さにもよります……執念が強いと……ずっと離れようとしません」
それはつまり、何日も夢で乱暴され続けるということだろうか。
「宗堂さんは、それでいいの?」
「他の方が嫌な思いをしなくて済むのなら、わたくしはそれで良いと思っています」
「無理して身体を壊したりしない?」
「わたくしは、慣れておりますので」
「放っておくことはできないの?」
「いずれ誰かに憑いてしまうでしょう。でしたら、わたくしが――」
宗堂は傘を畳んだ。
その横顔は、寂しさと同時に、救済へ赴く法皇のように、どこか凛としていた。
「見なかったことにはできないんだね」
「あの方々にも、救いが必要なのです」
宗堂は何もない空間に手を伸ばした。きっとその先に色情霊がいるのだろう。
「ふうん、そうなんだ……」
深渕は迷っていた。
心にあるわだかまり、それを伝えるべきかどうか……
これ以上この1年生と話をすると、深い関わりを持つことになる。
それは人間関係を築くということに他ならない。
果たしてそれが、自分の望むことだろうか?
人間関係を断って、自分だけの平穏を作り上げようとすれば、他人に対して無関心にならなければならないときもある。他人に気を使っていては、他人からうまく使われる。優しさが裏目に出て、損な役回りを引き受ける状況もたくさん見てきた。
今の宗堂がまさしくそれである。優しさから、自分の身をなげうっている。
だからこそ、深渕がこれからも平穏を続けたいのであれば、「大変そうだけど、頑張ってね。それじゃあ」といって別れれば済むことであった。
ティファや宮家などまだ気がかりはたくさんあるのだから、これ以上の苦労を背負いこむ理由はない。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げる。それが「脱兎」の生き方である。
だから深渕は、逃げる道を選べばいいのだった。
逃げる道を――
…………
深渕は学生鞄から、ノートを一冊取り出した。
「ぼくの父はマジシャンをやっててね、ちょっとなら真似をできるんだ」
そういうと、くるりとノートを丸めて、ティファの腕と自分の足の隙間にすっと差し込んだ。
そのままノートだけをティファの腕に残して、ゆっくりと足を引き抜いた。
目をつぶったままのティファは、まったく気づいていない。
「見事なものですね」
自由を獲得した深渕は、にこりと笑ってみせる。
「父は脱出マジックが得意で、逃げるのも一つの道だって言ってたんだ。だから――」
深渕は宗堂に近づくと、伸びた腕をそっと下ろさせるのだった。
「宗堂さんも、逃げよう」
「逃げる……ですか?」
「逃げるってのも、なかなか難しいんだけどさ」
「ですが、このままでは……」
「苦しんだり悲しんだりしている人を放っておけないというのは、わかるよ。それは宗堂さんの良いところだと思う。でもね――霊が視えるってことが、宗堂さんの存在価値じゃないと思うんだ」
「えっ」
思いもよらぬ一言に、宗堂はきょとんとしてしまう。
「自分だけが視えている世界だから、自分がなんとかしなきゃって思っているみたいだけど――そんなことはないと思うんだよね。みんな意外と強いっていうか……」
「わたくしの取り越し苦労ということでしょうか?」
「えーっと、そうじゃなくて――何ていうか、ここは……」
深渕はバツが悪かった。
それは自分が言うにはふさわしくないと思っているからだが、端的にはそうとしか言いようがないのであった。
「ここはね――そういう学校なんだ」
3ヵ月間、どうして気づかなかったのか。
私立の学校なので、公立とは異なるカリキュラムもあるだろうし、宗教的行事もあるだろうと、漠然と受け入れていた――
だが今日、宮家照美に踏まれてから急に気になってきて、昼休み中にこの学校について調べたのだ。
ネットにはこう書いてあった。
『世啓戸学園はオカルト学校である。霊感をもつ学生の保護育成を目指している』
父親に言われるまま入学したので、評判のことなどまるで知らなかったし、パンフレットにも目を通さなかった。学校なんてどこも同じだと思っていたからだ。
深渕は心に誓った。今後は取扱説明書などもちゃんと読むようにしようと。
「この学校には、霊が視える人たくさんいるみたいなんだ」
「えっ……」
これには宗堂も驚いたらしく、大きく目を見開いて、しばたたかせた。
「そう……でしたか……それは存じ上げませんでした……」
「だからさ、ここの生徒だったら、自分でなんとかできる人も多いはずだよ。宗堂さんがひとりで引き受ける必要もないよ。だから宗堂さんは、もっと他のことに目を向ける余裕を持っていいと思うんだ」
「他のこと……と申しますと?」
宗堂は思考が追いつかないのか、ぼんやりしている。
「例えば、宗堂さん自身とか」
「わたくし自身……」
「『苦しんでいる』人を救いたいっていうのは、『苦しんでいる』自分も救われたいって思ってるんだよ。だから――」
深渕は宗堂の番傘を差して、そっと手向けるのだった。
「きょうは苦しいことから、逃げよう」
「…………」
宗堂は、番傘を受け取った。
呆然としていた。何も考えることが出来なかった。それなのに――
涙が一筋、宗堂の頬を滑っていった。暗闇の中をきらりと光って、廊下へ零れ落ちた。
これには深渕もあわててしまう。
「ご、ごめん。言い過ぎたかな」
「いえ……わたくしも、よくわかりません……」
続いてもう一筋、二筋と、涙がほろほろ零れてゆく。
深渕がどうしたものかとうろたえていると、ふいに廊下の蛍光灯がついた。
薄暗かった廊下が、瞬く間に息を吹き返す。
立ち込めていた重苦しい空気も、一気に払拭されたかのようだった。
「出会ったばかりの女の子を泣かせるなんて――そういう才能もあったのね、深渕クン」
高慢な声が聞こえた。
ランウェイのように毅然と廊下を歩いてくるのは、生徒会長・宮家照美であった。
「いや、これはその……」
深渕も釈明のしようがなかったが、宮家は深渕ではなく、宗堂へ歩み寄った。
「はじめまして、宗堂さん。わたしは生徒会長の宮家照美よ」
「1学年の宗堂ゐゑと申します。大変お恥ずかしいところを」
「いいのよ、宗堂さん。深渕クンが気障なの」
そういうと宮家は宗堂の手を優しく握った。
「あなたはこれから、ここでたくさんのものを育んでいけばいいの。あなたのエーテル視は、まだこれから。ただ、深渕クンのいうように、色情霊は放っておいて構わないわ。あれはエーテルにこびりついたただの残滓。魂とは程遠い、幻影でしかないのだから。そうね……ちょうど今、レイがつかんでるあのノートみたいに。形だけの残り滓。そんなものに惑わされるのは、惑わされたいという思いがどこかにあるからだわ。けど――癪だわね」
宗堂から手を離すと、今度はティファへ歩み寄る宮家。
頑なに閉ざしているティファの頬に、そっと手を触れた。
「へあっ!?」
驚くティファに、宮家は優しく告げる。
「深渕クンに逃げられてるわよ」
「わおっ!? わおっ! わおっ!」
腕から落ちたノートと、宮家と、深渕をそれぞれ見て大袈裟に驚くティファ。
「レイ、あなたの後ろに悪霊がいるの。追い払ってちょうだい」
「ガッ、、、、、、デェェェムッ!!!」
ティファは大声で叫んだかと思うと、振り向きざまに手を胸の前に突きだした。
すると、ティファの手の先、2メートル四方の空間がぐにゃりと曲がった。
いや、歪んだ気がしただけだった――しかしそこに……
この世のものとは思えない、威圧的な、驚異的な、怪異的な何かが、そこから覗いている気配を、深渕は感じたのだった。
それは、宮家の目にはこう視えていた。
突如現れた球状の空間。
そこから光る人型が浮かんできた。
人型は外界に巨大な手を伸ばして、色情霊を球体に引きずり込んだ。
すると球体は消滅し、もとの廊下へ戻ったのだった。
ただ、球体の出現に巻き込まれた廊下のスチール棚は、断層のように一部がズレてしまっていた。
そのズレは、深渕の目にもはっきり見えていた。
「わたしのゐゑを悩ませた罪は赦せない」
「ど、ど、どうですか、もういないですか?」
震えながら、深渕にすがりつくティファ。
どうやらティファに幽霊は視えていないらしい。
しかし深渕も、たった今起きた現象にすっかり怯えていた。
「てぃ、ティファ? ……今、何したの?」
「ファッキンゴーストを異界送りしてやったですっ!」
「異界送り……」
またしても馴染みのない用語である。
「ティファさま、お見事でございます」
そういってティファを讃える宗堂は、もう涙は止まっていた。
窓の外には、すでに月が燦然と輝いていた。
ご拝読いただき、ありがとうございます!
第2章はここまでです。
第3章では、〈生命の樹〉についての話します。
引き続きご覧いただけると幸いです。