兎と月{あるいは:節制;} その3
それは、ひとりの少女であった。
世啓戸学園は自由な校風であるから、指定の制服はあるものの、制服に馴染めない人は好きな服を着て良いことになっている。
だから私服で登校する者もいれば、礼服で登校する者もいる。
着物もいれば、着ぐるみだっている。
だからこんな、番傘を差したゴスロリ服の少女が校内をポックリ下駄で歩いていても、別段おかしくはないのだった。
「御前を失礼いたします」
そういって番傘ゴスロリ少女は、深渕たちの前をかっぽかっぽと音を立てながら通り過ぎていった。
すると少女の服や髪に焚き染められた香が、深渕の鼻孔をくすぐった。
馥郁に、わぁと思わず声が漏れる。
深渕がしばし残り香を堪能していると、少女はこちらが気にかかるのか、ちらりちらりと振り返り、行き辛そうにしている。
やがて、くるりときびすを返すと、またかっぽかっぽと深渕たちの前までやってくるのだった。
「先輩方……もし御用がないのでしたら、ここからすぐ立ち去ることをお勧めいたします」
番傘ゴスロリ少女は、申し訳なさそうにペコリとお辞儀をした。
「ハァイ、はじめまして。ワタシはティファ。あなたは?」
陽気に欧米風挨拶を浴びせるティファ。
番傘ゴスロリ少女も再びお辞儀をして、
「申し遅れました。わたくしは1学年の宗堂ゐゑと申します。本日転校してきたばかりの身で失礼かとは存じましたが、お声かけさせていただきました」
といって頬にかかった鬢の毛を、ふわりと払うのだった。
すると彼女のドレスを縛る、紫の帯締めの房も、またかすかに揺れた。
まるで日本人形に、西洋のドレスを着せたような小柄な少女であった。
「しゅうどういえ――じゃああなたはイエティーね」
「また変なあだ名を……」
「何とでもお呼びくださいませ、ティファさま」
「で、イエティー――どうしてここにいない方がいいですか?」
底抜けに明るいティファの笑顔は、薄暗闇にあっても眩しかった。
常人であれば見惚れてしまうのだろう。
だが、宗堂は違った。
太陽の光を浴びて輝く月のように、次第に薄暗くなってゆくこの闇の中でこそ、怪しげな美しさを放つのだった。
「間もなく、黄昏時から逢魔時になります。良くないものたちが集まっております」
「それってもしかして――」
「ゴーストですかっ!?」
ティファはその場にうずくまって、ぶるぶると身体を震わせる。
「あれ? もしかしてティファ、幽霊が苦手?」
「超怖ですっ!!」
ティファは目をつぶって両耳を塞いだ。しかし、それでは深渕から手を離してしまうことに気づいて、深渕の足に腕を絡ませてから、器用に耳を塞ぐのだった。
「すみません――怖がらせるつもりは無かったのですが――」
「幽霊の話は聞きませんー」
頑として扉を閉ざしてしまったティファ。これでは太陽も形無しである。
「あの――あなた様は……」
残された深渕と目が合い、宗堂の方から口を開いた。
深渕も仕方なく自己紹介をする。
「ぼくは2年の深渕脱兎。ぼくも転校生だから、ここのことはまだ良く知らないんだ」
ははは、と乾いた照れ笑いを返す。顔を広げるようなことはしたくないのだが、転校初日の1年生を無視できるほどハートが強くもなかった。それに、この学校のことがよく分かっていないという点では、深渕も同じ状況であった。
「お初にお目にかかります、深渕さま。宗堂ゐゑと申します」
宗堂はまた妖しげに微笑んだ。その恭しい挨拶には、見た目ほどのインパクトはなく、むしろとても素直に感じられた。
「ひとつ質問していい?」
「はい、何でございましょう」
「どうして宗堂さんは、廊下でも傘を差してるの?」
普段だったら、どんな人物に合っても知らぬ存ぜぬでやり過ごす深渕だが、こんなに素直そうな子がどうしてこんな格好をしているのか、つい気になってしまったのだった。
それは一歩間違えれば、相手を傷つけてしまう質問である。
だが宗堂はちょっと驚いたような顔をしてから、すぐにこたえてくれた。
「わたくしは未熟ですから、良くないものを防いでいるのです」
「良くないものって、幽霊のこと?」
「はい、霊避けの傘なのです……」
宗堂の顔が曇った。嫌なことを思い出させてしまったのだろうか。
ここで深渕も、失礼なことを聞いてしまったと気づくのだった。
「ぼくだって雨が降れば傘を差すんだから、似たようなものだよ。宗堂さんにとっては雨が幽霊みたいってことで――避けれるものなら避けたいっていうか」
謝るのも不誠実かなと思って取り繕っていたら、自分でもよくわからないことを口走っていた。すると宗堂も気が紛れたのか、くすくすと嗤ってくれた。
「ぼくは霊感とかないんで……よくわからないんだけどね」
「お気になさらないでください」
宗堂はひとしきり嗤うと、すうと深呼吸をして、
「ここに居るのは色情霊なんです」
と切り出した。
「しきじょう霊……?」
人魂とかラップ音とか、○○峠のトンネルは出るとか――そうゆう話ならいくらか聞いたことがあるし、死ぬ前と死んだ後では体重が21グラム違うだとか、19ヘルツの音を聞いたら霊が視えるようになるとかの都市伝説も知っているが――
色情霊とは聞いたことのない言葉であった。
「性的な理由で、現世に未練を残した浮遊霊のことです」
「性的な幽霊?」
男同士の下ネタでも聞いているようだったが、宗堂はいたって真面目であった。
「受け入れてくれる人間に憑りつき、夢のなかで――その……」
「幽霊に乱暴されるってこと?」
宗堂は、悲痛な面持ちでうなずいた。まるで身近に、被害に会った人を見てきたようであった。
「相手が霊なので、家族や友人も取り合ってくれず……悩んでいる方は大勢いらっしゃいます」
「そりゃあ――」
夢に決まってる……そう言おうとして、深渕も口ごもった。
経験者たちもこうやって「夢」の一言で片づけられてきたのだろうか。
中には夢に違いないと自分に言い聞かせる人もいただろう。
それがもし本当だとしたら、その奇妙な苦しみはどこに訴えればいいのだろう。
誰にも言えず、救われることもなく、苦しみが続くのだとしたら。
宗堂の貌はさらに重苦しいものへと変わっていった。
「襲われる感覚はとてもリアルなのです……感触もありますし、相手の顔も見えます。そして目が覚めると、強い倦怠感に襲われるのです……」
すっかり滅入ってしまった宗堂。
夢の中とはいえ、無理矢理に乱暴をされれば辛く苦しいだろう。
それに――深渕は気づいてしまった。
おそらく宗堂も、経験者のひとりなのだと。
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その4をご覧いただけると幸いです。