兎と月{あるいは:節制;} その1
ここから第2章です。
#2 兎と月{あるいは:節制;}
名前の由来ついて親に訊いてくるように、という宿題が出たことがある。
幼くして母を亡くしていた深渕は、ちょうど旅回りから帰っていた父に訊いたのを覚えている。
「脱兎」という名前を、当時は気に入っていなかった。
多感な小学生だった深渕にとって、逃げる兎というのはあまりに弱々しく思えたからである。
「もちろん、逃げ足が速いという意味もあるけどな、孫子の兵法にもこの言葉があって――油断させておいて懐に入り、素早く攻撃に転じれば敵も防ぎきれないってのがあるんだ」
父は思いもよらぬことを教えてくれたのだった。
「勝つための作戦?」
「自分の能力をどう活かすかってことだ。足が速いといっても、兎は食われる側の生き物だからな、逃げ足を強化することで生き残りを賭けたんだ」
「じゃあずっとやられっぱなしで、逃げて生きるしかないってことじゃん」
深渕は自分の名前の救いようのなさに絶望した。
「逃げて逃げて逃げのびる人生も、おれは悪くないと思ってるぞ。知ってると思うが、おれの十八番は脱出マジックだからな。どんな困難な状況からも、あっとゆう間に逃げのびてみせるんだ。けどな……」
悲しげにうつむく息子に、父は目尻をにんまり歪ませて続けた。
「おれが敬愛する脱出王フーディーニは、100パーセント成功する準備をしてからじゃないと興行しなかったらしい。完璧に抜け出せる道を作ってから、苦しんでるフリをするとこに、面白さがあるんだな。すべての手品だってこれと同じことが言える。あらかじめ種は仕込んであって、間違いなくそうなるようになっているんだ。それを見せ方を変えたり、フリをするだけで、客は奇跡が起きたように想像してくれる。手品っていうのは、そういう想像力に支えられてるんだ」
衣鉢を披露し胸を張る父であったが、幼い深渕にはわからなかった。
「それとぼくの名前とどう関係あるのさ」
「おれの願いでもあるんだ。人生を上手く切り抜けられるようにってな」
「逃げてばかりじゃ恰好悪くない?」
「おれは脱出を成功させたら、拍手が起こる」
父の目には、ステージで浴びるスポットライトが見えているようであった。
「舞台と現実は違うよ」
「まぁ、逃げるというのも一つの道ってことだ」
「おやおや、何の話をしてるんだい」
ここで祖母が食卓に料理を運んできた。
「お義母さん、こいつにね人生を教えていたんですよ」
「まあまあ、それは大仰なことで」
会話を中断されて、深渕はそれ以上聞けなかった。
作文にして明日発表しろと言われているのだが、どうまとめたらいいか悩んでしまったのだった。
ありがとうございます!
引き続き、
その2をご覧いただけると幸いです。