兎の咽喉{あるいは:隠者;} その2
*
『ダートは深淵に繋がる唯一の道。あなたが「視えない」というのもそのせいね。ここには「涯て」がないから、視えるものがないの』
「人から視えない力、なんて実感ないよ」
『力の大きさをわかってないからよ』
「無限の世界に、大きいも小さいもなくない?」
『とんでもないこと言うのね』
「ぼくは、はやくここから出たいんだけど」
『ここから出ていくの?』
「もちろん」
『何で?』
「何でって、ここはぼくの世界じゃないから」
『作っちゃえばいいじゃない』
「はい?」
『ここは想像が実現する世界なんだから、あなたが望む世界を作れるのよ。何もかも思いのまま』
そういうと夢子は、空中をくるくると自在に泳ぎ回った。
「それって――自己完結な世界じゃない?」
『そうならないように想像したらいいのよ』
「想像、想像って、想像に疲れるよ」
『何でよ! 願えば叶うのに』
「あんまり、叶えたい願いがないのかも」
『つまんない人ね』
「そうそう、ぼくは平凡だから。それでいいんだ」
『普通は欲があるものよ』
「むしろぼくは、このまま真っ白な世界のほうが居心地がいいかも。何もせず、ぼうっとしていられたら、それでいいんだ」
『やだわぁ、つまんない。何か考えてよぉ! あなたくらいの年頃だと、女の子の裸とか、ハーレムとか考えるんじゃないの?』
「それマジで大変なんだぞっ!」
『でも何か想像しないと、真っ白のまま』
「白紙のほうが、想像力が刺激されていいって」
『あなた、全世界の作家にタコ殴りにされるわ』
「ちょっと疲れたから、何にもないなら一休みさせてくれる?」
そういうと深渕は、頭の後ろに手を組んだ。
天も地もないのでわかりにくいが、それは寝転がるポーズであった。
『まるで兎と亀。あなたはここで待つってわけ?』
「亀が来てくれたら、話し相手にでもするさ」
『あら、それはいいわね――じゃあ』
そういうとベアスマイルズだった夢子の身体が、変化していった。
身体がみるみる引き伸ばされ――全身黒づくめの男になる。
その人物には、深渕も見覚えがあった。
「やあ、久しぶり。覚えてるかな?」
「黒生先生?」
それは世啓戸学園の世界史講師、黒生李一であった。
宮家照美と喧嘩をして、学校を辞めさせられたといううわさの講師である。
そういえば深渕に子音文字を教えたのもこの先生であった。
「遅れてきた亀だよ」
「先生がどうしてここにいるんです?」
「全部きみのおかげだよ」
「え?」
「まあ、ゆっくり話そうじゃないか」
長身で見下ろす恰好の黒生は相変わらず、伸びきったぼさぼさの髪と、滅多に剃らない髭面であった。
*
真咲燈火が、職員室まで降りて来ると――人だかりができていた。
職員室だというのに、職員はすべて退室させられている。
どうやら職員室から、机や椅子などの荷物を、運び出しているらしかった。
「あー、ちょっとすいません、通りますよ……はいはい通りますねぇ」
人をかき分け職員室の前までくると、真咲はようやく宮家と目が合った。
「照美ちゃん」
「あら、燈火先輩。そちらは済みました?」
「それがさ――なんか討ちづらい状況になっちゃって。とりあえず捕まえてる」
「あら、好都合! ちょっと貸してもらえないかしら?」
「いいけど――何やってんの?」
「もちろん、部活動です」
宮家が嬉しそうに微笑むと、校内放送が流れた。
『現代魔術研究部の方は、至急職員室にお集まりください。繰り返します。現代魔術研究部の方は至急職員室のにお集まりください』
そう告げるのは、宗堂の声であった。
「へえ、楽しそうね」
「うまく行くといいけど」
「何言ってんの、照美ちゃんなら、絶対、でしょ?」
「少しくらい先がわからない方が、楽しいんですよ」
宮家はまたにこりと笑った。
奥では国丸が、念動力で荷物を浮かせて、次々と運びだしているのが見える。
そこへ――
「ひぃ、ひぃ、ひぃ……連れてぎましたよぉ……」
と息を切らして現れたのは、京成虎子だ。
「やあ、虎ちゃん」
「あ、燈火姉……ひさしぶりぃ」
「あんたそれ――何運んでるの?」
「照美先輩に言われて……」
「べぇぇぇぇ!」
京成は飼育小屋から、半身が魚の子山羊を抱えてきたのだった。
職員室はあらかた空になり、だだっ広い空間となりつつあった。
*
「じゃあ先生は、ここに来るために、ぼくを利用したってことですか?」
「そういうこと。ぼくは悪魔と契約して、襟蓮くんに取り憑かせていたんだ」
「えっ! そうなんですか!?」
「学内じゃぼくは目立ちすぎるから、生徒の協力者が必要だったんだ。幸い、彼はぼくに傾倒していたから、扱いやすかったよ」
「ひどい先生だ」
「よく言われる」
「じゃあ、マヨイガも?」
「バベルの図書館を出現させるのに、松里くんはうってつけだった」
「ミルメコレオも?」
「羽津くんに、UFO視を目覚めさせたのもぼくだ。もちろん、きみがUFOを視えるようになったのも、ぼくが薬に細工しておいたんだ」
「パーンも?」
「マヨイガのときに、いくつかの本を拝借しておいたんだ。惚れ薬の精製の仕方だとか、パーンの召還方法なんかも、すべて書いてあったよ」
「あの本読めるんですか!? いえそもそも、あの中から狙った本を見つけられたんですか!?」
「それにマヨイガは、ここと一緒で思ったことが実現する。欲しい一冊を思い浮かべるだけで手に入るんだ。そしてそれを持ち帰ることもできる」
「どうしてそんな手の込んだことを――」
「深渕くんに、深淵へ落ちてもらうためさ」
黒生は毅然とこたえた。
「ここって――落とし穴なんですか?」
「厳密には違うね。ぼくの描いた魔法陣には落としたけれど、あれは深渕くんが深淵に落ちる瞬間、ぼくの意識も連れて行くための装置なんだ。つまり、深渕くんという案内人がいないと、ぼくはここに来れなかった」
「そんなことまでして……先生はここで何がしたかったんです?」
「そうだな――」
そういって黒生が目を閉じると、周囲の景色が一変した。
都会のど真ん中。
新宿ALT前のライオン広場。
行き交う人々、高層ビル、電車、車、街の喧騒……すべてが現実的だった。
「深渕くんは、これを現実ではないと信じることができる?」
照りつける太陽、モザイク煉瓦のざらりとした質感、風にギシギシと揺れる金網……人に手を伸ばすと、振り払われてしまった。
どの感覚も現実と変わらなかった。
「自信ないです……」
「ぼくは、ぼく自身が夢子になるという想像をしたんだ。一度願っただけで、この世界でぼくは夢子になれる――これであらゆる蓄積にアクセスできるようになったわけだ」
周囲の光景がめくるめく変わる。
東京、大阪、福岡、北海道、沖縄――アメリカ、フランス、オーストラリア、イタリア、エジプト、ブラジル、南アフリカ――月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星――遠い宇宙、星雲、銀河――降りたったことのない星、存在しない街、架空の空、場所、物、時間……それらが目まぐるしく変わっていく。
「あーーーーーーーーーーーっ!」
深渕は目を閉じ、耳を塞いで、大声で叫んだ。
すると、景色はもとの真っ白な世界に戻った。
「きみは今、願ったね。真っ白な世界にしてくれって」
深渕は頭がクラクラして、胸焼けがした。
いつくもの光に、感覚が酔ってしまった。
「先生は……この世界で神様になりたいんですか」
「そうだ。でもそれは、この世界だけじゃない」
「え?」
「夢子は、あらゆる人間の想像にアクセスできる。あらゆる人間の意識へ入って行けるんだ」
「…………」
「そこへぼくが作り出したイメージを植えていけば――人間の意識そのものを変えてゆけると思わないかい?」
「それって……」
「ぼくは人間の意識を解放したんだ」
静かにみえる黒生だが、瞳の奥にはたぎる野心をたたえていた。
ありがとうございます!
引き続き、
その3をご覧いただけると幸いです。




