兎の冠{あるいは:皇帝;} その3
*
「あれぇ~」
温もりのある声に包まれて、深渕はふたたび我に返った。
「もしかしてぇ、その方が深渕さんですかぁ?」
階段をゆっくりと降りてくる足音も聞こえる。
この声も聞き覚えがあった。
『司書室の天使』と名高い図書委員長の松里雛だろう。
この学園は知識を重視しており、その宝庫である図書館も重要施設となっていた。昼休みには図書館を宣伝する校内放送があり、松里が新刊の入荷状況などを伝えるのだが――それはラジオ番組のようになっていて、優しげな声と柔和なルックスが、学園のアイドル的人気を博しているのだった。
「ヒナ、あなたも踏んでみる?」
「いいえ、ご遠慮しておきますぅ」
そういうと松里は深渕の前に屈んだ。
「不思議ですねぇ――本当に、何も視えません」
感慨深そうに、しげしげと深渕を見つめる松里。
が、深渕の目には、はっきりと映るものがあった。
天使と謳われる聖女が身につける――漆黒のパンツであった。
「……ぃぃっ!」
深渕が思わず顔を背けると、宮家が足を上げた。
驚いた深渕が宮家を見上げると――またパンツが目に飛び込んできた。
純白の宮家、グレーの小熊。どれも美しい花柄が刺繍されている。
「あ、う、わ……」
どこに視点を定めたらいいのか困惑して、深渕は目が回る。
「ご褒美よ、深渕クン」
「な、な、な、何がですか!?」
「わたしたちのパンツを見たでしょう?」
「い、いや! これは見ようとして見たわけじゃなくて――」
「ひゃっ、貴様っ!」
小熊はあわててスカートの前を隠すと、顔を赤らめながら深渕を睨んだ。
不動の宮家はともかく、松里も屈んだ体制のまま動こうとはしないのはどういう訳だろう。
「見えるものは、仕方ないですよねぇ」
なんて安穏としていると、もはや性質の悪い冗談のようである。
これで生徒会執行部のトップ3が揃ったことになる。
この3人は通称〈アツィルト〉とも呼ばれていて、高等部のみならず中等部や大学部にもその名が知れ渡っていた。
もちろん深渕は、その中の誰とも会ったことも、話したこともなかった。
「さて、深渕クン。かくれんぼもここまで」
宮家の足は、今度は深渕の胸を踏んでいた。
深渕はこの理不尽にだんだん腹が立ってきた。
「だから、かくれんぼって何なんですか?」
「ずっとわたしから逃げていたでしょう?」
「さっきも言いましたけど、ぼくは先輩と喋ったこともないんですよ。逃げようがないじゃないですか」
「じゃあやっぱり、深渕クンは無自覚なのね?」
「無自覚? ぼくが無意識に先輩を避けていたっていうんですか?」
「厳密にはちょっと違うわ。深渕クンが、わたしたちに見つけることを出来なくさせていた、という方が正確よ」
「はい……?」
意味不明である。
これが言葉として成り立つのなら、それはもう催眠術とか、超能力とかを引き合いに出さなくてはならない。
「思い出してみて。深渕クンは、本当に何もしなかったのかしら?」
「何もしてませんよ! ぼくはただ、ひとりが好きだから、人と関わるのを避けていただけで」
「それも立派な行動よ」
「はい?」
虚を突かれる深渕。
「深渕クンの、こうありたいという欲求が、現実を引き寄せたのね。それってつまり、奇跡を実現させたということよ」
「奇跡、ですか?」
奇跡なんて聞いても、深渕には安っぽい言葉にしか聞こえなかった。
自分はただ、人間関係を避ける努力をしていただけで、奇跡だ超能力だに訴えた記憶はない。そんな存在するかしないかわからないものに、手を出す余裕など深渕にはなかった。
「わたしは生徒会長として、全校生徒の顔と名前を覚えているの。そして、そのひとりひとりがいったいどんな人なのかを知りたくて、全員と話をしているの。それがわたしの、生徒会長としてのやり方で、わたしの欲望。ここで、深渕クンの関わりたくない欲求と、わたしの関わりたい欲望が衝突したのね」
深渕が眉根を寄せていると、小熊が話の穂を継いだ。
「照美が探していたのは、キミだったのか――名簿には載っているのに、いつも見落としてしまう名前、何度見ても意識の外に外されてしまう名前――そんな存在がいるとは言っていたが――本当にいたなんて……」
「何を言っているか全然わからないんですけど」
「宮ちゃんの面会データを名簿と照らし合わせるとぉ、ひとり足りなかったんですぅ」
「それがあなたを意識できた最初のきっかけ」
宮家は人差し指を軽く立て、自分の唇に指先でそっと触れた。
それは癖であるかのように、自然な仕草だった。
「人間の意識は外すことができても、機械の誤作動を引き起こすほどの奇跡は、持ち合わせていなかったようね。もし、深渕クンの欲求が機械を上回っていたら、わたしは深渕クンのことを知ることもできなかった」
「…………」
「すべてが『視える』わたしにも、深渕クンをとらえることができなかった。会いに行こうとしても、途中で目的を忘れてしまうんだもの。名前ですら忘れないようにするのに苦労したわ。だからわたしは深渕クンの名前を一文字ずつ壁に貼りつけて、毎日深渕クンの名前を唱えたの。そうやれば、少しずつ深渕クンの存在がはっきりしてくるんじゃないかと思って。わたしはいつか会える日を願って、毎日毎日、深渕クンの名前を呼び続けたの。もう深渕クンなんて存在はこの世にいないんじゃないかって疑いたくなるような日々を超えて、わたしは呼び続けた。そしたらようやく、深渕クンの影を見つけることができたの! わたしはやっと見つけた深渕クンが飛んでいかないよう、踏みつけたってわけ。どう?」
宮家は上気していた。いつの間にか、肩で息をしている。
それはどこか大仰で、劇的ですらあった。しかし深渕は、
「あの……さっきから何を言ってるんですか? ぼくにそんな超能力みたいなの、あるわけないじゃないですか」
嘲笑をもってこたえる。
宮家は、深渕を蹴り上げた。
「ぐげっ――」
脇腹を圧されて、うめき声が漏れる。
ごろりと転がって、深渕はようやく戒めを解かれたのだった。
「わたしは――勧誘に来たの」
宮家は手を差し出した。
これまでとはうって変わって、軽い世間話のような口調だった。
「深渕クン、部活はもう決まったかしら?」
「ま、まだですけど」
脇腹を押さえながらよろよろと上体を起こす深渕。
「それなら決まり! 深渕クン、あなた現代魔法研究部に入りなさい」
「……げんだい、魔法?」
それは学園の皇帝としての命令であった。
この学園では、宮家照美の命令は絶対なのである。
それを破る者は、たとえ教師であっても追放されるのだ。
宮家の黒髪には、まるで王冠のように輝く、白いリボンが巻かれていた。
「歓迎するわ。わたしの〈ダート〉」
宮家はうっとりとした顔で、深渕を迎えた。
優しく差し出された宮家の手を――深渕はぐっとに握り返し、こうこたえた。
「お断わりします」
そういうと、深渕は脱兎のごとく逃げ出した。
ご拝読いただき、ありがとうございます!
第1章はここまでです。
第2章では〈幽霊〉についての話をします。
引き続きご覧いただけると幸いです。




