兎の穴{あるいは:悪魔;} その3
*
襟蓮冷児は男子トイレへ入ると、そのまま3階の窓から飛び出した。
校舎の壁にペタリと貼りつくと、素早く横移動する。
遠く職員室の窓を肉眼でとらえ、じいっと中を覗いた。
宗堂に胸を押され、消えていく深渕の姿がはっきり見えた。
「成功だっ!」
耳元まで裂けた口を、にいっと引き上げて歓ぶ襟蓮。
そこへ――腰にロープを巻きつけた女が、上階から飛び降りてきた。
女は、襟蓮の背に取りつくと、
「見ィつけた」
とささやいてから、流れるように腰のベルトから匕首を引き抜いて、襟蓮に突き立てた。
「にぎゃぐっ」
声にならぬ声を発して苦悶する襟蓮。
刃は肉を切り裂いて、深く刺さった。
「神社真庁所属討魔師、真咲燈火。さて、観念してもらおうかしら、サタナキアちゃん」
「肉体ごと抉るのか……」
「その方がはやいでしょ? 悪魔には悪魔のやり方が有効なの。はやくこの肉体を離れたほうが身のためよ」
「吾に気づいていたか……しかし、目的は果たした――」
襟蓮の身体から力が抜けていく。
襟蓮に取り憑いていた神威が、出て行ったようである。
壁からずるりと剥がれおちる襟蓮の身体を、燈火は片手で受け止めた。
背中に刺さったままの匕首から、血だけが滴り落ちていく。
「逃がさないわよ――きゃっ」
見栄を切った燈火であったが、身体を支えるロープがずるりと1メートルほど急下降した。
「羊ちゃーん、しっかり引っ張ってー」
命綱の先に向かって声を張り上げる燈火。
綱の端では、水真羊をはじめ、学生たち数人が必死に綱を引いていた。
「燈火ちゃん――急に重くぅっ……」
力んでいたので、声は燈火までは届かなかった。
「もういいわ! 上げて!」
『せーの、いちっ、にっ、いちっ、にっ……』
生徒たちの協力によって、ゆっくりと引き上げられていく燈火と襟蓮。
気を失った襟蓮を、燈火は優しく慰撫する。
「冷児くん。よく頑張ったわ、すぐに手当てするから」
それから、空を見上げて――安堵した。
「ティファちゃんも、頼もしくなったわね」
燈火の目には、澱んだ光の粒が――異世界に覆われた空が視えていた。
*
『ちくしょうめっ!』
逃れた悪魔サタナキアだったが、学園を覆う異世界に二の足を踏んでした。
悪魔にとっても、異世界は未知であった。
そこは常識や法則のまるで違う世界であり、例えばそこが悪魔が存在を許されない世界であれば、足を踏み入れた途端に消滅してしまう、という可能性もあるのだった。
天蓋に覆われた学園は、今や悪魔の鳥かごとなっていた。
癇癪をこらえて、屋上へと降り立つサタナキア。そうして塔屋を見据えた。
塔屋には、寝転がって空に手を突きだしているティファがいる。
襟蓮の身体を使って、学園の情報はあらかた調査済みのサタナキアは、この異世界を作り出しているのがティファであることもわかっていた。
だから次は――ティファに取り憑いて、異世界を消せばいいのだった。
『手間を掛けさせおって』
そうごちていると、
「だれか居やがるな――」
サタナキアの前に、華蕪萌花が立ちはだかった。
しかし華蕪には、悪魔を視ることはできないようで、周囲をギラリとねめつけながら、威嚇するばかりである。
「気配でわかる――悪魔か。姉貴が追ってたのは、てめぇだな」
『討魔の一族か。視えぬなら出しゃばるな』
「何か言ってやがるな……あたしには声も聞こえねーんだ」
そういうと目を閉じて、右手を構える。
サタナキアも注意はするのだが、視えないのであれば恐れる必要もない。
と、ここで屋上の扉が開いた。
「あ、あの、先輩がた! ちょっとよろしいでしょうか!」
緊張でこちこちになっている蛍春が、手に小袋を提げて入ってきた。
「今、取り込み中だ! 後にしろっ!」
「ひいっ」
華蕪の檄に、ひるむ蛍春だったが――それでも引かなかった。
「お、お怒りなのは、ごもっともですか、ひかりは先輩たちに謝らなければならないのです! まことに申し訳ありませんでしたぁ!」
声を絞り出す蛍春に、
「うるせえ黙ってろ!」
「ひいっ」
華蕪は一喝した。
集中を切らさず周囲に気を配る華蕪。
蛍春は涙目である。
サタナキアは、もう構っていられないと跳躍した。
と、またしても扉が開かれ、人が飛び出してきた。
「蛍春さんさっきのクッキー超おいしかったまた作ってぇぇ!」
勢いよく現れたのは羽津明だった。
そして、傷心して出直そうとしていた蛍春と、強かに頭を打ちつけたのだった。
「あいたーーっ」
「いでぇーーっ」
思いっきりぶつかったせいで、蛍春は手にしていた小袋を放り投げる。
「ムッ、上かっ」
華蕪が気配を察したときには、すでにサタナキアは華蕪の頭上を越していた。
そしてティファの一歩手前で――蛍春が投げた小袋に当たった。
『ぎゃあああああああ!』
絶叫しならが失墜する悪魔。
そのまま屋上に叩きつけられ、のたうった。
そこへさらに、蛍春の作ったクッキーが降り注いだ。
『ぐぎゃああああああああ』
悪魔は苦悶していた。
これは悪魔が、聖水を浴びたときの反応であった。
妖精にも愛される蛍春が、感謝を込めて作ったお菓子は、もはや祝福を受けた聖物と同じ効果を発揮するのであった。
「ごごごごご、ごめん蛍春さん」
羽津が必死に謝るも、蛍春は踏んだり蹴ったりで、もう泣き出してしまった。
「うえええええ……せっかく作ったのにぃ……」
「わわわ、ごめん蛍春さん、ごめんっ」
「うえええええええ……」
『ぎゃあああああああああ』
「ごめんごめんごめん、蛍春さんっ!」
「ふんふんふん、異界作りは楽しいな~」
能力に熱中しているティファの、鼻歌まで混じってくる。
ティファはイヤホンで音楽を聴いていて、周囲の状況にまったく気づいていなかった。
「な、何だこりゃ……」
華蕪が困惑していると、燈火が長刀を手に屋上に現れた。
殺気立っての登場だったが、この有り様に拍子抜けしてしまう。
「やだ、どうしちゃったのこれ」
「あたしにもわからん……」
屋上は、しばらく阿鼻叫喚に包まれていた。
ご拝読いただき、ありがとうございます!
第10章はここまでです。
第11章は〈深淵〉についての話をします。
引き続き、ご覧いただける幸いです。




