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兎と罠{あるいは:恋人たち;} その6

  *


 翌朝、北門の石像前に深渕は立っていた。

 待たせると悪いと思って10分前には来ていたが――華蕪萌花かぶらもえかはまだだった。

 深渕はぼんやりと石像を見やる。

 世啓戸学園理事長の胸像らしい。

 堀の深い顔は、日本人ではないようだった。恰幅も良い。

 真鍮のプレートには『Aregraham Conmight』と書いてある。『アレグラハム・コンマイト』とでも読むのだろうか。こんな学園を創立する人物であるから、優しそうなおじいさんを想像していたが、マフィアのボスというような厳つい顔である。


「よう、遅れちまったか?」


 声に振り返ると――そこには清楚なお嬢様が立っていた。

 丈の長いスカートに、柔らかく光沢の良いカーディガンを羽織り、つばの広い帽子を被っていた。絵具まみれになっているジャージ姿とあまりにかけ離れていて、一瞬誰だかわからなかった。


「そんな恰好するんだ」

「んだよ、変か?」

「いや、全然」


 華蕪の童顔には、むしろこちらのほうが似合っていた。


「ならいいじゃねーか」


 というと華蕪は、深渕の返事も待たずに北門を出ていく。

 門を出てすぐのバス停に並ぶと――華蕪が口を開いた。


「ところで――深渕は何が良いか考えたか?」


 華蕪はモデルの御礼にと、深渕を昼食に誘ったのだった。

 礼金は貰っていたが、それとは別に時間を作って食事をするというのが、華蕪の流儀らしい。ただ、好みはそれぞれなので、何が食べたいかは深渕に任せていたのだった。

 深渕はふふんと鼻を鳴らして言った。


「中央公園のさくらドッグ」

「さくらドッグ? 何だそりゃ?」

「キッチンカーで売ってるホットドックだよ」

「そんなんでいいのかよ、寿司や焼肉だっていいんだぞ」

「さては華蕪、さくらドック食べたことないな」

「ホットドックなんてどれも同じだろ」

「よし、華蕪、その鼻っ面へし折ってやる」


 煽られると、華蕪も簡単に火がつくのだった。


「おお、言ったな! 望むところだ!」


 しかし、1時間も経たぬうち、華蕪は返り討ちにあっていた。


「これは――」


 さくらドッグを頬張った華蕪の動きが止まる。


「どうだ華蕪――これでも贅沢じゃない?」

「……――」


 華蕪は打ちひしがれながら、すぐに一本食べ尽してしまう。


「まだまだ。驚くのは早いよ」


 今度はソフトクリームが手渡される。

 華蕪が恐る恐るパクつくと、またしてもうなるのだった。


「どうなってんだ……美味すぎる」


 広場に並べられた10台ほどの折り畳みテーブルは、軒並み人で埋まっている。

 まだ昼前にも関わらず、大盛況なのであった。

 華蕪は深渕の手元のソフトクリームをじっと見つめた。


「深渕のは味が違うのか?」


 華蕪が頼んだのは、真っ白なバニラ味。

 深渕が頼んだのは、茶色いチョコレート味だった。


「食べてみる?」


 と深渕が訊くと、華蕪は頭を上下させて、小さく口を開けた。

 深渕が口元まで運ぶと、華蕪はぱくりと食らいつく。

 そしてまた、うなった。

 すると華蕪は、自分のソフトクリームを深渕に差し出した。

 一口食べたから、お前にも一口やるということだろう。

 お言葉に甘えて深渕がかぶりつくと――

 華蕪は「うっ」とうめいて胸を押さえた。


「ん? どうした?」

「いや――」


 華蕪は手をさらに押し込んで、深渕の鼻先にソフトクリームをつけた。


「お、おい華蕪っ」

「へへへっ」


 悪戯っぽく笑う華蕪。

 ポーチからティッシュを取り出すと、さっと深渕に渡した。


「なあ深渕は彼女とか居たことあんの?」

「え?」


 飾らない聞き方だった。

 だから深渕も他意なく答えることができた。


「ぼくは人間関係から逃げてたんだ。付き合うなんて考えたことないよ」


 だからこそ松里に告白されても、返事に窮したのである。


「そうゆう華蕪こそどうなんだよ?」

「あたしは――男が寄りつかねぇよ」

「男が嫌いとか?」

「どっちかっていうと耐性がない方だな」

「ぼくとは普通に喋れてるけど」

「それは深渕が普通に接してくれるからだと思う。たいていの男は、あたしを怖がるんだ」

「今の華蕪だったら、お嬢様にしか見えないけどね」


 すると華蕪は、深渕の瞳をじいっと覗き込んだ。


「深渕って、どこ観てんだ?」

「え? ぼくは何も考えてないけど」

「身体にも個人差があるみてーに、精神にも個人差があんだよ。自分にとっては何でもないことが、人にとっては大したこと、ってのはよくあることだ」

「ぼくは精神がへなちょこだから、ずっと逃げてるんだ」


 深渕は辟易しながら、ソフトクリームを舐める。

 華蕪もふふっとはにかむと、ソフトクリームをぺロリと舐めた。

 休日の公園と、穏やかなふたりの空気は、とても似合っていた。


「深渕――またモデルになってくれよ?」

「さくらドックが食べられるなら安いもんだよ。あ、でも謝礼はいらないかな――気が引けるから」

「ま、そこは相談だな。今度はヌードなんてどうだ」

「ぶっ!?」


 深渕は飲みかけの紅茶を噴いた。

 そんな深渕に、華蕪は熱に浮かされたような目を向ける。


「あたしは深渕の底を知りたいんだ。描くことは、知るってことでもあるからな」

「いや――何言ってんの?」

「裸を見られるのが気になるんだったら――あたしもヌードになろう! お互い裸になれば、恥ずかしさも紛れるぞ」

「それは完全にアウトだろ!」

「赤く火照る肌ってのもありだな」


 と盛り上がっているところで、華蕪の携帯が鳴った。

 ちっ、と軽く舌打ちをして携帯を覗くと――華蕪の顔が、険しいものに変わる。


「姉貴から呼び出しだ。すぐに戻らなくちゃいけない」

「あ、そうなんだ――」

「悪い。深渕はゆっくりしていくといい――また今度な」


 というと華蕪は残念そうな顔をしてから――走っていってしまった。


  *


 大安は蛍春に顔を近づけた。

 嫌がる素振りもみせず、蛍春もじっと大安を見つめている。

 中央公園にはカップルも多いので、そんな男女の姿も珍しくない。


「あとは蛍春……お前だ」

「ひかりだけ――」

「お前は深渕に会って、自分に矢を放て」

「矢を放つ――」

「深渕をホテルに誘い……交わってしまえ」

「交わる――」

「では、おれのことはすべて忘れろ」

「はい――」


 そう返事をすると、蛍春はふらふらと歩き出した。

ありがとうございます!

引き続き、

その7をご覧いただけると幸いです。

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