兎の冠{あるいは:皇帝;} その2
*
父から入学願書が送られてきたのは、今年の1月。
「面白そうな学校だから、お前も受けてみろ」と手紙でもぶっきらぼうな父だったが、反対する理由も見つからず、深渕は言われるまま転入試験を受けに行った。
面接のみ、というやる気があるのかないのかよくわからない試験に、紋切型の回答しかできなかった深渕だが――
2週間後には合格通知を受け取った。
4月、深渕は世啓戸学園の生徒になっていた。
開校してから5年という校舎は、まだどこも綺麗だった。
中学から大学までエスカレーター式のこの学園は、全寮制ということもあって、ひとつの街のようになっていた。
それぞれの校舎も一棟一棟が巨大な佇まいであるのに、周囲には高層マンションさながらの寮棟が立ち並んでいる。
校庭や体育館、プールなどの設備施設はもちろん、図書館や講堂、武道場、弓道場、劇場、さらには小さな動物園といったほうがいいような飼育小屋まであった。
それらの合間を縫うように、緑の木立や芝生が植えられているので、学園内は整備された公園のようであり、中央には噴水広場まであるのだった。
「学費も安いから、おれも助かるんだ」
入学祝いという電話でも、父はあけすけなことを言っていた。
旅回りの手品師をして生計を立てている父に、深渕も無理は言えなかった。
これだけの施設であるのに、学費が抑えられているのは、何だかいう財団の援助があるからだそうだが、興味のない深渕には、世の中お金があるところにはあるのだなと、漠然と考えていた。
中高大一貫であるので、5年も経てば家族のように親しくなっている生徒も少なくない。
そんな中で深渕がクラスメイトに紛れ込むのは、骨が折れた。
転校生というだけで周りから意識され、よそよそしい雰囲気が漂うのである。
それでも1ヵ月、2ヶ月と時間をかけて馴染んでゆき――
3ヵ月が経つころには教室の壁紙のように、意識されなくなっていた。
クラスメイトの目にも、担任の目にも、たしかに映ってはいるのだが、まったく気に留められない存在になっていたのだ。
「むしろお前には――そっちの学校のほうが合うんじゃないか」
電話で父はそう言っていたが、深渕は穏やかに暮らせればどこでもよかった。
*
「照美! その光景は看過できんぞ!」
現実逃避のようにここ3ヵ月を思い返していた深渕だったが、耳をつんざく金切り声に引き戻される。
姿を見ることはできないが――この声も、深渕は覚えていた。
風紀委員長の小熊千得。
毎朝、高等部の校舎前で生徒に声かけをしている。
風紀委員は学園内の警察として一目置かれており、中でもトップである小熊は、正義感が強すぎて融通が利かないところが、不器用で可愛いと評判であった。
生徒会長とはいえ、生徒を足蹴にしている姿は道義的に許されないのだろう。
しかし宮家は、悪びれることなくこう宣った。
「あら、クマ。いま深渕クンに、パンツを見せてるところなの」
「な、なに!?」
「下ろしたての、真っ白なパンツよ。深渕クンにお願いされたの」
「きぃぃぃ……」
歯を剥きだしにする小熊。
またたく間に、矛先が倒れる深渕に向けられた。
「貴様っ! そんな破廉恥が許されると思っているのか!」
眼前に、ゴルフクラブが突きつけられる。
風紀委員といえば竹刀のイメージだが、小熊の場合はそれがなぜか木製ゴルフクラブで、常に帯刀して持ち歩いているのだった。
「いやいや、この学校にそんな勇気のある人いませんって! ってかそもそも、この状態でどうやって見るんですか! ぼく、先輩の顔すら見えないんですからっ!」
自分でも0点だと思う弁明だったが、これが精一杯だった。
「では、そんなところで何をやっているんだ!」
「そうよ深渕クン。これじゃあ好きで踏まれているみたい」
宮家は気まぐれにコロコロと態度を変える。
「ぼくだって、できるなら逃げ出したいですよ!」
「でも抵抗はしないのね。大人しく踏まれたままでいるっていうのは、これが趣味なのかもって勘ぐっちゃうわ」
「呆然としてるうち、抵抗するタイミングを見失ったんです」
「ふむ――話がこじれているな――」
小熊は、ゴルフクラブを納めた。
情状酌量の余地ありという、大岡裁きだろう。
融通が利かないと聞いていたが、人の話はちゃんと聞いてくれるようだ。
「ありがとうございます。ついでに――生徒会長に足をのけるよう言っていただけると助かるんですが……」
深渕の懇願にも、宮家は微動だにせず、ただ淋しそうにしているだけであった。
「クマにも踏んで、実感してもらいたかったのに」
「照美がこんなことをするなんて――いったいキミは何をしたんだ?」
「それがわからないから、困ってるんです」
「あら、無自覚も度が過ぎると、害悪でしかないのよ――深渕クン」
悩める深渕に、宮家の冷やかな声が浴びせられた。
*
数日前のことである。
自販機で買ってきたパック珈琲をすすりながら、深渕は前の席の会話に耳を傾けていた。
クラスメイトの大安行雲が、午後の授業の小テストに自信がないと言い出したのがはじまりだったが、話は二転三転して、今は哲学教師の物真似をしている。
目が合えば誰でも友達という大安に比べると、ひねたところのある襟蓮冷児が、皮肉たっぷりに合いの手を入れる。
すると彼らと幼馴染の水真羊も「言い過ぎよ」と言いながら一緒になって笑うのだった。
「そういえば社会科の黒生先生、学校辞めるらしいぞ?」
教師つながりで思い出したのか、襟蓮が話題を切り出した。
「そうなの? おれあの先生嫌いじゃなかったけどな、変な話いっぱい教えてくれるしさ」
「聞いた話だと、生徒会長と揉めたらしくて、いよいよ首にされるんだってよ」
「仲が悪いってうわさ、本当だったんだ」
「ひどい話よね、生徒会長を敵に回すと学校にいられないなんて。これで何人目?」
ふくれ面で抗議するのは水真である。
「でもなぁ、生徒会長が厳しいのは教師にであって、おれたちにはむしろ甘いくらいだぜ?」
「それは大安が、学園にとって無害だからよ。大安くらい単純だったら、生徒会長だって気が抜けちゃうわ」
「何だよそれ、褒めてんのか?」
「そうよ大安、敵を作らないなんて得な性格してると思う。その点わたしは、ちょっとでも気になると、突き詰めなきゃ気がすまないの。たとえば、靴下が左右で違うものを履いていたりしたらとても気になる。そういう柄なのか、ただ間違えたのか、実はもっと深い理由があるんじゃないかとかね」
「あ~、何となくわかるな」
大安が納得していると、襟蓮が苦笑しながら割って入る。
「それは話が違うだろ?」
「一緒よ。生徒のほうが先生を辞めさせるって、いったい何様って思わない? 生徒会長は学校を自分の城だと勘違いしてるのよ。ここはわたしたちの学校なんだから。何でも生徒会長の思い通りになるって悔しいじゃない」
「ってことは、水真は生徒会長に敵対するってことか?」
「良く思ってない生徒もいるってこと」
意思表明をできたことに満足したのか、水真は得意げな顔をした。
「生徒会長に喧嘩売って辞めさせられた生徒は、まだ聞いたことないな」
「わかんないぞ。生徒会長のことだから、誰にも気づかれないように存在を消されていてもおかしくない」
「突然の転校で、挨拶もなしにいなくなるとか、ありそうな話!」
「転校するやつの理由なんて、わかんないからな!」
転校の話で盛り上がりはじめたので、転校生の深渕もそっと話に混じってみる。
こういうときは、あえて飛び込んだほうが印象も薄くなるのである。
「たいてい家庭の事情だと思うけどね。親の転勤とか」
「ま、そりゃそうだよなぁ~」
大安の相槌で場が白けると、ちょうどチャイムが鳴った。
ありがとうございます。
引き続き、
その3をご覧いただけると幸いです。