兎と羽{あるいは:戦車;} その3
*
華蕪萌花は、悪寒に襲われて筆を止める。
「ちくしょう――姉貴……なんの用だよ」
「あ、気づいちゃった?」
美術室の扉を開けて入ってきたのは、華蕪によく似た女性である。
ただし、童顔の華蕪よりは幾分か歳上に見えた。
高級そうなスーツを、飾り気なく着こなしている。
「ちょっと偵察かな」
「あたしの、ってわけじゃないよな」
華蕪は震える右手を必死に押さえている。
「外が騒がしいみてぇだけど、姉貴に関係あんのか」
「んー、それは結果でしかないから、むしろ原因のほうが気になってる、かな」
「神社真庁が動くようなことかよ」
「きょうはオフなの――わたしの独断」
「独断でこんなとこまで来んじゃねー」
「やーだ、わたしの大事な大事な萌花に、何かあったらどうするのよー」
「ちっ――」
悪態をついてはいるものの、強がりでしかないことは、華蕪もわかっていた。
姉に対しては、すべてのこと、すべてのものに対して、規格が違う。
人間に畏怖を感じるなんて、どうかしていると思うのだが、それが幼いころから身体に沁みついてしまった感覚なのだった。
「わたしが近くにいたら、萌花がいやーな顔するからね、お姉ちゃんとしては寂しいんだけど――」
「…………」
「またね、萌花」
華蕪にウィンクを投げると、女は静かに扉から出ていった。
力一杯に押さえていたせいか、華蕪の腕は痺れていて、しばらく動きそうもなかった。
*
「深渕さま、こちらです」
そこは学園内のはずれにある屋内テニス場であった。
すでに日も暮れているので、窓からは煌々と明かりが漏れている。
ここにはまだ、ミルメコレオは到達していないようだ。
途中何匹かとすれ違ったが、宗堂の番傘があれば怖くはなかった。
それに、どうやらミルメコレオには深渕が視えていないようであった。
クラスメイトや宮家たちが、視えないといっていた個性がここで活きていた。
ふたりが場内へ入ると、そこは眩しいほどであった。
3面のコートが横に並んでいるのだが、一番奥に人だかりができている。
テニス部の生徒だけでなく、普通の生徒も混じっていた。
大学部や中等部の生徒までいるようだ。
深渕たちが頭越しにコートを覗くと、どうやら一人の生徒と、コーチが対戦しているらしい。
コーチはラフなジャージ姿で、すでに大量の汗をかき、余裕のある表情には見えなかった。
生徒のほうは体操着で、緑の鉢巻きをきつく締め、闘志をたぎらせている。
体操着の胸元には「羽津明」という名前のゼッケンが貼られていた。
羽津は玉を高く投げ上げると、強烈な弾丸サーブを放った。
コーチはそれを、鮮やかにリターン。
この攻めのリターンに、羽津も驚異的な脚力で追いつくと――ドライブショットを打ち込んだ。
が、球筋を読んでいたコーチは前衛に上がっており、逆サイドへボレーで返す。
羽津も俊足で戻る、が――
ラケットの先がわずかに当たって、ゆるく打ち上げてしまう。
コーチは、それを逃さなかった。
「0《ラブ》ー30《サーティ》!」
〈審判〉の笛が響くと、観客もどっと湧くのだった。
「あ~~~!」
悔しそうに叫ぶ羽津。
背後には『世啓戸学園 テニス部 ファイト!』という横断幕が、でかでかと壁に掲げてあった。
それにしても――と、深渕は目を細めた。
場内の明かりがあまりに眩しく、いや、眩しすぎるように思えた。
ふと天井へ視線を向けると、梁にびっしりと照明が並んでいた。
どう考えても、灯体の数が多すぎる。それどころか、その照明は動いていた。
いや、それは照明ではなかった。
輝く発光体が、天井を覆い尽くしていたのである。
「宗堂さん、あれUFO?」
「わたくしには視えませんが……」
とはいえ宗堂も気配は感じているようだった。
「この中のだれかが、あれを飼っている? いや誰かっていうより――あいつだな」
そのUFO群は、羽津の動きに呼応していた。
羽津が打ち込めば、それに合わせて忙しなく動き、羽津が打ち込まれれば、静かに見守る。
羽津が得点を取ると歓喜し、取られると落胆する。
もはや羽津の応援団だった。
数体が下降して羽津の周りをぐるぐると飛翔する。
すると羽津は、邪魔だと言わんばかりに、手で跳ねのけた。
それどころか――
次第にゲームを盛り返してきた羽津が、ついにセットを奪い取ると、
『ゲームセット! 羽津!』
「っしゃ~~~! 努力! 勝利! UFO!」
羽津の喚声にUFOたちも、夏の蚊柱のように乱舞するのだった。
「今、完璧にUFOって言ったよね?」
「おっしゃいましたね」
「間違いなさそうだな――けど」
熱狂する観客のなか、どうやって羽津と話をしたものだろうか。
大声をあげたところでかき消されてしまうだろう。
それに叫んだところで、白熱している羽津には届かないかもしれない。
そうなると、テニスコートに入って直接羽津に話しかけるしかなかった。
「目立つよなぁ……」
深渕が窓に目をやると、すでにミルメコレオが幾匹並んでいた。
ぎょろりとした目玉が、いくつも中を覗いている。
深渕は嘆息した。そしてそのまま黙って、人垣をかき分けていく。
「――深渕さま?」
宗堂は周囲を見回した。
いつのまにか深渕がいなくなっていた。
たった今まで隣にいたはずなのに、宗堂は深渕の姿を見失っていた。
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その4をご覧いただけると幸いです。




