兎の冠{あるいは:皇帝;} その1
ここから第1章です。
#1 兎の冠{あるいは:皇帝;}
目立たないように生きる、というのが人生のモットーである深渕脱兎は、浮かず沈まずの成績をキープしながら、穏やかな高校生活を送っていた。
このまま卒業すればクラスメイトからも、いの一番に忘れられていた。
卒業アルバムを開いても、「こんな人いたっけ?」くらいの印象しかなく、ページをめくるうちに、もう忘れられている。
そんな、いてもいなくてもいい存在――それが深渕の理想だった。
なぜそうかというと、あまり理由もない。
面倒が苦手だっただけである。
問題に巻き込まれて、時間が浪費されてゆくのが嫌だった。
部屋にいて、ぼうっと空を眺めて過ごす時間こそ、深渕にとっての幸福だった。
だから深渕は考えた。
どうすれば面倒を回避できるのか。
考えて考えて考えて考えて、深渕はすぐに発見した。
面倒は、人間関係から生まれてくるのだと。
気を使ったり、使われたり、神経をすり減らして、人生が摩耗してゆくのだ!
それならば! 煩雑な人間関係を築かなければいいではないか!
こうして深渕は、人間関係そのものから、逃れることにしたのである。
しかし、会話をしない人や暗い人が逆に目立ってしまうように、人間関係においても関係を断つというのは目立ってしまう。
適度に関係を保っていたほうが、案外印象にも残らないものだ。
クラスの輪にもさり気なく交わるし、会話にも比較的参加する。
しかし、絶対に踏み込まないギリギリのラインをキープする。
同級生でありながら、背景に溶け込むドラマのエキストラのような存在を、深渕は目指したのだった。
そしてついに、憎まれたり恨まれたり好かれたり愛されたりしない――
あらゆることの対象にされない立ち位置――
そんな無意識のような領域に、深渕は自分の居場所を作ったのだ。
ノーリスク・ノーリターン。
これが深渕の編み出した処世術であった――
はずだった……
*
「ハァイ、深渕クン。ご機嫌よう」
すらりと伸びた女の足に、深渕は顔面を踏みつけられていた。
「…………」
なあんだ交通事故か、と深渕は思った。
意識が遠のいたのは、後頭部に衝撃が走ったからである――
仰け反ったときに女の顔がちらりと見えたからには、飛び膝蹴りを喰ったのだろうか?
だが、転校して間もない学校で、友人どころか知り合いさえいないこの学校で、飛び膝される覚えはないし、暴力の横行する学校かといえばそうでもなく、自由ではあるが節度を保っているように深渕には見えていた。
だからきっとこれは、不運な事故――
何か驚異的なことが起こって、運悪く、女が膝から飛びかかってきた――
としか考えられなかった。
何にせよ、深渕の身体はもんどりうって廊下に叩きつけられていた。
「『見ぃつけた』と言うべきよね、深渕クン」
女はゆっくりと足指を動かして、深渕の輪郭を歪ませる。
ご丁寧に上履きは脱いでいるので、ソックス越しに女の冷えた体温が伝わってくる。
もし事故であるならば、今なお女が顔を踏みつけている説明がつかない。
この状況は何なのだと自分に問いただしてみても、さっぱりわからないとしか返せなかった。
いや、ひとつだけ、わかることがあった。この声だ。
女の顔を見ることはできないが、声には聞き覚えがあった。
全校集会で何度も聞いたことのあるこの声は、
生徒会長・宮家輝美のものであった。
頭脳明晰にしてスポーツ万能、おまけに眉目秀麗という鋼のような女である。
「先輩……これはどういう……」
深渕はようやく声を絞り出した。
「あら、『かくれんぼ』は鬼が隠れた人を見つけるゲームでしょう?」
宮家は、恬淡にこたえる。
毫も動じない彼女からは、高潔ささえ感じられる。
「鬼ごっこ、ですか……?」
ますます意味がわからなくなる深渕。
宮家とそんな遊びをはじめた記憶もなければ――そもそも一度も会ったことがない。一つ上の学年の、ましてや生徒会長と、会話をする機会も、気も、まったくないのだった。
「3ヵ月」
「はい?」
宮家は指を3本立てて、深渕に突きつけた。
「3ヵ月よ。わたしは3ヵ月ものあいだ、あなたのかくれんぼに付き合っていたの!」
「3ヵ月……?」
そう言われて深渕が思い至るのは、この学校に転校してから、ようやく3ヵ月が経ったかなということである。
ただでさえ目立ってしまう転校生という自分を、どうやって周囲に馴染ませるか、そればかりを考えていた。
最初は難しかったが、それでも何とか以前のような、平穏な居場所を作ることができた気がしていた。
今だって教室移動のためクラスメイトの最後尾からさりげなく着いていっていたところである。
久方ぶりの平穏を噛みしめながら階段を降りきった矢先――
宮家に踏まれたのである。
「わたしの眼から3か月も逃れるなんて、不可視くんというあだ名をプレゼントしたいくらいよ深渕クン。このまま誰の目にも留まらなかったら、深渕クンは自分の一生をどうするつもりだったのかしら? いつか自分でも、自分が何者かわからなくなっていたかもしれないのよ。だとしたら、わたしが深渕クンを見つけたことは、とても意味があることだと思うのだけど――どうかしら、深渕クン」
嬉しいのか、それとも怒っているのか、宮家はまくし立てるように言った。
身に覚えのないことを咎められているようで、深渕も良い気はしない。
「人違いですよ先輩。ぼくは先輩とお会いしたことも喋ったことも――うぐっ」
言い終わるよりも早く、宮家の足に力が籠められた。
「その可能性も検証したわ。でもNO。あなたが深渕クンであるという自覚があるのなら、これは現実に起こった出来事で、深渕クンが受け入れなければならない事実なの」
この迂遠な言い回しに、深渕はよりいっそう訳がわからなくなるのだった。
お読みくださいまして、ありがとうございます。
引き続き、
その2をご覧いただけると幸いです。