兎と迷宮{あるいは:力;} その1
ここから第4章です。
#4 兎と迷宮{あるいは:力;}
これまでは集団に紛れて、他者との会話を最小限に抑えていた深渕だが――
宮家照美に踏まれてから、フェイス・トゥ・フェイスの会話が続いていた。その上、興味もない世界の知識を滔滔と植えつけられて、深渕の脳は疲弊していた。
小さな穴倉の奥で慎ましやかに生きていた希少動物が、ハンターに捕えられ、サーカスの見世物にされているような気分であった。
深渕は裏通りを遠回りして帰っていた。
表通りは道幅も広く、人目につきやすい。
今の深渕は、ティファが告白した男として学内ヒエラルキーを駆け上がった状態なので、目立つのはご法度だった。
裏通りは、木々の茂りが目隠しにもなるし、空気も清浄で心も落ち着いてくる。
これぞ、学内緑地の恩恵だった。
図書館へ行くよう薦められたが、とてもそんな気にはなれない。
早く帰って休みたい。そればかりを考えていた。
しかし〈運命の輪〉は、深渕を巻き込んだまま回り続けるのだった。
裏通りを抜けると――人が倒れていた。
本が散乱している。段ボールに入れた書籍を台車で運搬している途中に、倒れてしまったようである。
「――深渕さん」
果たして倒れているのは、松里雛であった。
倒れているといっても、地べたに座り込んで、途方に暮れているといった様子である。
「えっと……大丈夫ですか?」
戸惑いながら声をかける深渕に、
「……足を挫いてしまいましたぁ。お手伝い願えませんかぁ?」
上目遣いで申し訳なさそうな松里。
お断りします、と出かかった言葉を深渕は呑み込むと、精一杯の作り笑顔で、
「よころんで」
とこたえた。
「良かったぁ。ここは人も通らないのでぇ、どうしようかと思っていましたぁ」
ぎこちない深渕の笑顔とは違い、松里の笑顔は心底ほっとしていた。
*
世啓戸学園、図書館。
近代建築ひしめく学園内で、ここは唯一、旧時代的であった。
ただしそれは、バロック建築とよばれる荘厳なもので、微に入り細を穿った彫刻が施されていた。概観もさることながら、屋内も中世の教会さながらの装飾である。中央は吹き抜けになっており、天井には聖人や天使の絵画が広がっている。
さらに、壁という壁が書籍で埋め尽くされている光景は、圧巻の一言。
古今東西のありとあらゆる書籍が収集されているのだという。
「理事長の趣味でもあるんですぅ。ここにもよくいらっしゃるんですよぉ」
司書室の椅子に座る松里の足に、救急箱に入っていたシップを貼って、医療テープで固定する深渕。
「ちゃんと病院で診てもらったほうがいいですよ」
「歩くことはできますから、大丈夫ですぅ」
松里はゆっくりと立ち上がって、足の具合を確かめる。
「しばらくは歩きにくそうですねぇ」
何が楽しいのかわかならないが、ニコニコと微笑む松里。
司書室まで戻ってくるのにも深渕が肩を貸していたし、散乱した書籍も深渕が段ボールに詰め直して台車で運んできたのだった。
「ありがとうございますぅ」
「いえ、気にしないでください」
面倒ではあったが、司書室の天使と謳われる松里から礼を言われれば、悪い気はしない。明るい巻き毛、笑顔の絶えない優しい顔つき、豊かな胸、愛くるしい声、どれをとっても天使の名に恥じないものである。そんな松里と話していると、深渕の気も次第に晴れてゆくのだった。
この図書館は近隣の大学や研究室にも貸出を行っているそうで、その返却が今日に限って何件も重なったのだそうだ。そのうえ、当番の図書委員にも病欠が出て、松里がひとりで運んでいたらしい。
じゃあ、ぼくはこれで――と帰ろうかとも思ったが、図書館まで来てしまったからには、〈生命の樹〉に関する本を借りるのも悪くはない。
館内は薄暗いうえに、利用している生徒は机や本に齧りついているので、誰が歩いていても気にならないようである。人目につく心配もなさそうだった。
「松里先輩――生命の……あ、いえ、何でもないです」
「どうかされましたぁ?」
〈生命の樹〉についての本がどこにあるのか聞こうとしたが、これを松里に聞いてしまっては、自分が宮家照美の部活に興味を持っていると勘違いされかねない。
「せっかく来たので、ぼくは館内を観て回ろうかと思います」
「どうぞ、ゆっくりしていってください。あ、ですが――」
松里は時計を見やった。
「あと30分ほどで閉館ですので、あまり時間はないかもですぅ」
「それだけあれば、十分ですよ」
そういうと深渕は、悠然と司書室から出て行った。
*
螺旋階段を昇っていく深渕。
図書館は5階建てで、各階を螺旋階段が結んでいる。
案内板と睨めっこしながら〈生命の樹〉についての書籍がありそうな棚へ向かうのだが、どれも難しそうな本ばかりであった。ぺらぺらめくってみても、あまり本を読まない深渕には、ハードルが高かった。人疲れしていた上に、こうして文字に囲まれていると、いよいよ頭がクラクラしてくる。
気がつけば洋書コーナーに居るらしい。
背表紙の文字まで読めなくなっている。
「しかたない……帰るか」
そう思って、本棚に挟まれた通路を引き返していると――
またしても、松里が座り込んでいた。
「あれ? 松里先輩、どうしたんですか?」
あの足でこの階まで上がったのだろうか、エレベーターでもあるのかしら、そんなことを考えていると、松里ははっと顔を上げ――
タックルをする勢いで深渕に抱き着いてきた。
「深渕さぁぁぁぁん!」
松里は泣き崩れた。
「えええっ?! ど、ど、ど、ど、どうしたんですか!?」
動揺する深渕に、松里はぐいぐい身体を押しつける。
「このままぁ……」
「はい?」
「このまま誰も来なかったらぁ、どうしようかと思ってましたぁ……!」
極度の興奮状態で、呼吸もままならない松里。
「大袈裟ですよ先輩。まだ20分も経ってないですよ?」
となだめる深渕だったが――
「3日ですぅ」
「はい?」
「わたしぃ……3日間もここを彷徨っていましたぁ……!」
松里は泣きあえぎながら、叫んでいた。
ありがとうございます。
引き続き、
その2をご覧いただけると幸いです。




