兎の眼{あるいは:女教皇;} その3
*
アダムとイブが暮らしていたという〈エデンの園〉。
その〈エデンの園〉の中央に、〈知恵の樹〉とともに植えられていたのが〈生命の樹〉である。
蛇にそそのかされたアダムとイブは、禁断の果実である〈知恵の樹〉の実を齧ったために楽園を追放された、という話は有名であるが――
〈知恵の樹〉が知恵を授けたように、〈生命の樹〉は生命を授けるのだという。
ちなみに〈生命の樹〉の実は、食べることを禁じられていなかったそうである。
そのせいなのかはわからないが、アダムは930歳まで生きたという。
もしかすると、楽園ではこの実を齧って、平穏に暮らしていたのかもしれない。
神秘思想では、この〈生命の樹〉について解釈がすすめられ――
世界創造の過程を体系化したものとして図像化された。
この図像は10個の球体と22本の径によってできている。
縦に3列、横に7段という形になっていて、それぞれ次のように並んでいる。
1段目は、中央に〈ケテル〉
2段目は、右に〈コクマー〉、左に〈ビナー〉
3段目は、右に〈ケセド〉、左に〈ゲブラー〉
4段目は、中央に〈ティファレト〉
5段目は、右に〈ネツァク〉、左に〈ホド〉
6段目は、中央に〈イエソド〉
7段目は、中央に〈マルクト〉
球体ひとつひとつにも様々な意味が籠められており――
その配置や繋がりにも多くの真理が秘められているという――
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「ケテルは〈王冠〉、コクマーは〈智慧〉、ビナーは〈理解〉、ケセドは〈慈悲〉、ゲブラーは〈峻厳〉、ティファレトは〈美〉、ネツァクは〈勝利〉、ホドは〈栄光〉、イエソドは〈基盤〉、マルクトは〈王国〉、これが各セフィラの意味ね」
水真は試験対策のように解説していく。
必要なことを必要なだけ告げる水真の勉強法は、塾講師のようだった。
深渕にとっても魔法の秘術を学ぶというより、方程式を覚える感覚に近かった。
ましてこれは、円と円が線で繋がっているので、もっとゲーム性を持ったもの――
「なんか、双六みたいだね。各コマに意味が合って、道が繋がってて、1回休みとか、2マス進むとか」
その言葉に驚喜したのか、水真は声のトーンが上がった。
「そうなの、双六よ!」
そういって水真は笑みをたたえながら、黒板のマルクトを指した。
「一番下のマルクトからはじまって、一番上のケテルを目指す人生ゲームだと思っていいわ」
「人生っていうと、なんだか重たいな」
「人生だけじゃないの、生命の樹を使えば何だってわかると言われているわ。広大な宇宙の真理から、小さな恋のお悩み相談まで、何だってわかるの!」
「う、うん、すごいんだねー」
漠然とし過ぎていて、気のない返事になってしまう深渕。
もちろん水真もそれを察した。
「深渕くんのそうゆう正直なとこ、嫌いじゃないわ」
「実感がないから、驚きようもないよ」
「そりゃそうね。こんな図だけ見せられたって、何にもわかんないもの」
「これって占いに使うんでしょ? ぼくが見てもあんまり意味がないっていうか……」
そういわれて、水真はゆっくりと首を左右に振った。
「これは頭で考えながら使うものよ――そうね、実際にやってみましょう」
水真は指をこめかみに当てて、ちょっと考えてから、
「たとえば――『人間』を例にとって考えてみようか。まずはこうして、マルクトに『人間』を置いてみるわね」
そういうとチョークを手にして、マルクトの横に「人間」と書いた。
「ここから、右は〈力の柱〉、左は〈形の柱〉に分解していくの。すると――ネツァクは『男』、ホドは『女』ってなるかしら。そうしたら〈中央の柱〉のイエソドには、男と女の交わる部分ってことで『性』を置こうかな」
これももちろん、それぞれの球の横にチョークで書き込んでいく。
「次のティファレトは、『男』と『女』と『性』をひとつにして――『愛』とするわね。今度は、ホドの上にあるゲブラーには『母』、ネツァクの上にあるケセドには『父』を置こうかしら。さらにその上のビナーには『母性・優しさ』、コクマーには『父性・厳しさ』を置いてみるの。すると中央のケセドは『母性』『父性』『愛』を併せ持った――『無償の愛』というようなものになるのかしら。だからつまり、『人間』というものは『無償の愛』へと進むもの、ということも出来るのよ」
すべて書き終え、自分でも納得している様子の水真。
順序よく連想していったように思えるが、最終的にどこに行きつくのかは、やってみなければわからないようである。
「これはわたしの見解だから、人によってはまったく別のものになるでしょうね。どう? 今どこかに占いの要素はあった?」
「えっと……なかった、と思うよ」
「あぁ、よかった! うまくできるか不安だったの」
「これが魔法? なんか全然イメージと違うんだけど……」
「魔法というか、考えるヒントって感じよね。自分でも思いもしなかった発想に結びつくこともあるし――むしろそれこそが、魔法の入り口って気もするわ。もちろん、使い方はこれだけじゃなくて、球が身体の各器官に対応するとか、天体に対応するとかあるんだけど、わたしたちが習っているのはこんなとこ」
水真はふうと一息ついた。
どうやら水真の中でも、講義が一段落したようである。
けれども、深渕が知りたいのは、生命の樹についてではなく、
「それで……これが生徒会長の部活と、どんな関係があるわけ?」
まさかこの図を見ながら、みんなで考え事する部活ということもあるまい。
すると、板書を終えて暇そうにしていた大安と襟蓮が、
「そこはおれたちに任せてくれ」
と、重たい腰を上げた。
学内ゴシップ通の彼らからすれば、ここからが本領発揮というところだろうか。
「たぶん生徒会長は、球に人を当て嵌めてるんだ」
「はぁ?」
深渕がぽかんと口を開けたが、襟蓮は構わず話しを継ぐ。
「例えばケテルは、生徒会長の宮家照美。宮家照美、ぐうけてるみ、ぐう『けてる』み、でケテルだ――いや深渕、そんな目でオレを見るな」
深渕は半眼を向けていた。これだけ小難しい話をしておいて、
「そんな駄洒落みたいな……」
「いやいや、文字の力ってすごいんだぞ」
「そうよ深渕くん、『名は体を表す』っていうくらいだから」
続けて大安も臆せずに語る。
「つーわけで、コクマーは小熊千得、ビナーは松里雛ってことだな。雛でビナーは苦しいとこだけど」
「ティファレトは、間違いなくティファだな」
「あとは、2年の京成虎子と、華蕪萌花ってのも部員だって言われてる。まあ、けーせーとらこでケセド、かぶらでゲブラーは無理くり感あるけどな」
「んー……」
解せない深渕は、いまだ疑いの眼差しである。
「そういや、昨日深渕が会ったっていう女の子、宗堂ゐゑだっけ? その子も名前でいけば……宗堂ゐゑ、ゐゑ宗堂、いえしゅうどう、イエソドって線もあるんじゃないか?」
「それはどうだろう……」
「生徒会長も苦しいことやるなー」
「よく集めてるほうだと思うけどな。そんな都合よく居るもんかよ」
「もしかすると、名前優先で転入決めてるじゃないか?」
「そういうことか! あの生徒会長ならやりそうだ!」
「だろ? つぎはマルちゃんとか、法堂ちゃんとか来るんじゃないか?」
盛り上がるクラスメイトであったが――まだ深渕には、肝心なことがひとつ残っていた。
「でもこの流れだと――ぼくはどこにも入らなさそうだけど」
「あん?」
言われて図を見返す大安と襟蓮だが、残されたネツァク・ホド・マルクトにはどうやっても深渕の名前は入りそうになかった。
「たしかにそうだな?」
「生徒会長もいよいよ諦めたか?」
「適当にこき使える人間が欲しかったとか?」
「それもあるかもな。女だらけだから、マネージャー的に男を入れるとか」
「だったら、何で深渕なんだ? 他にも居そうなもんだけど」
「そうだよ、別にぼくじゃなくても」
「あ! それたぶん……あれじゃないかな」
何かを思い出した水真は教科書のページをパラパラとめくって、先のほうに載っていた別の生命の樹の図を開くのだった。
そこには、10個の球の他に、もうひとつ不思議な球が描かれていた。
「授業中になんとなく先のページを見てたのよ――そしたらこれが載ってて」
水真は黒板に、点線で、新しい円を描いていく。
そこは中央の柱ではあったが、どこの段にも属さず――
ケテル・コクマー・ビナー・ケセド・ゲブラー・ティファレトに囲まれた六角形の中心にあった。
その円のなかには、〈ダート〉と書き込まれた。
「ここには、ダートという隠れたセフィラがあるの。意味は〈認識〉よ」
「隠れたセフィラ……?」
生命の樹でさえ小難しいのに、その上隠れたセフィラなんて裏技のようなものまで持ち出されたら、もうお手上げである。
それを聞いた大安と襟蓮は、ふたりでケタケタと笑うのだった。
「こりゃ間違いねーな」
「深渕脱兎、だっと、で、ダートなんだろうな」
「生徒会長も、よく思いつくよなぁ」
「脱兎でダート、なんか競馬みてぇだよな」
「いやいや、ぜってー関係ねーし」
集中が切れたのか、ふたりは他人事のように笑い合っていた。
「ダートがどんなセフィラか――わたしもよくわかってないの。授業にもまだ出てきてないし、ちょっと他とは違うってことくらいしかね」
水真は悔しそうにしていたが、まだ先を読む気にはなれないらしい。
水真の性格からすると、授業と同じペースで理解を進めていきたいのだろう。
「そうだ深渕、もし気になるんだったら自分で調べるってのも手だぜ。なにせこの学校には、ご自慢の図書館があるんだからな」
ひねた物言いをするのは襟蓮である。襟蓮はいつだって、鼻にかかったような話し方をするのだが、それが似合っているので腹も立たない。
「ああ、そりゃいいな。悩んだら図書館に行け、ってうちの学校の教訓だもんな」
「図書館かぁ……」
「ああ、今すぐにでも行ったらいいんじゃないか?」
襟蓮は身を寄せて、やたらと強く勧めてきた。
「深渕くん、うちの図書館には行ったことある?」
「――いや、まだ行ったことは」
「なら絶対行くべきよ。本は読まなくても、建物だけでもすごいから」
目をきらめかせる水真だったが、図書館と聞いて深渕が思い出すのは――
司書室の天使こと図書委員長・松里雛の、漆黒のパンツであった。
ご拝読いただきありがとうございます!
第3章はここまでです。
第4章では、〈本〉や〈文字〉についての話をします。
引き続き、ご覧いただけると幸いです。




