表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雲間のロータス

作者: 戦艦ちくわぶ

 空高くに浮かぶ、一輪の蓮の花。水面は青い空。蓮の葉はとりとめもなく広い雲。その花はどれだけの風が吹いてもそこに咲き続けた。水面下でどれだけの水が濁っても、全ての葉を失っても。ただ、咲いていた。

 機械仕掛けの蓮の花は、ただ、咲いていた。



 それはいつの時代だろう、蓮の花から一本の雄しべのようなものが、細く伸びた。やがてそれは開くと、水上の様子を読み取り続けた。

 蓮の花の中には、一人の男がいた。男はもう長い間蓮の花の中で暮らし続け、時折外に飛び出しては花弁の隙間から水中の様子を覗いていた。

 男はそういった日々を続けている。

「流されているのか」

 男はひとりでに口走る。

 男の城である蓮の花、その外壁には擦れて読みにくいが、うっすらとLotusという文字がかろうじて読めるというほどであった。

 中と外とを隔てるガラスの壁の向こうには、果てしなく青い地表と、どこまでも深い宇宙とが互いにせめぎあうこともなく、ただいつものように存在し続けていた。もう、ずっと、それを見続けてきた。

 男は一時間前に入れたコーヒーを啜ると、皿に載ったパサついたパンの質素なサンドウィッチをほおばる。美味しくはないが、具は好きなハムとレタスを挟んだものなので、これが好きなのだった。

「昨日は流星群を見たぞ」

 今日は何を見せてくれるんだ、と男は星明りを伸ばす宇宙に期待を寄せた。そんなありがたくもない期待を預けられた宇宙は、不機嫌そうに黙って星を瞬かせ続けていた。どうしてこうも、何も言ってくれないのだろうか、男はサンドウィッチの残りを口に押し込み、口元を袖で拭った。

 今日は、外に出る日だ。今、そう決めたのだから、そうなのだ。決められた日はない。誰も自分に強制をすることもない。時折空や宇宙が今日は出て来いよと無言の圧力をかけてくるが、そんなことを気にする男ではなかったようで、彼は気の向くままに為した。ことを。

 この蓮の花は、かつての昔、深く水底にてつぼみ、男と共に打ち上げられた。水面で咲いたこの花は、それからずっとこうして咲いていた。しばらくの間は下からの指図を受けていたが、いつの間にかとやかく言ってくる者はいなくなり、自由を得た男と蓮の花は、勝手気ままに空で咲いていた。

「何てことだ。今日は」

 ドアノブに手をかけたまま男は突然取り乱したが、これまた唐突に黙ると何事もなかったように外へ出るためにドアを押した。

 ガラスの内から見る世界と、外から見る世界の純度は変わらない。そんなことは昔から知っている。しかし、見方は変わる。広い世界が、壁のない世界が、この手の前に確かにあることに、男は涙した。

「今日も世界に終わりはないのだ」

 男は上機嫌で鼻歌を刻みながら足も軽やかに床の端まで歩む。端に来ると、ステンレス製の細い手すりの一歩先は完全なる自由である。だが、同時に落下という束縛が待っているのだ。

 しかし男にとって落下は束縛ではあるが、その先にあるものは束縛の逆、解放であるという認識であった。

「死こそはこの世の解放の唯一絶対完全無欠独尊手段である。死は全てのしがらみから我らが命を救い給う。大勢から信奉された神々は人々を救うことはなかった。ただし、その代わりに死が彼らを救い給うたのだ。だから私はいかなる薄っぺらい神よりも、死を崇拝し祈りをささげよう」

 彼は跪くと、地上に向かって唾を吐いた。彼の口から放たれた一滴の水は、霧散して地上に降り注ぐ。この時点でその唾は死した。しかし唾は男という束縛から解き放たれ、救われたのだなどという考えなど男には毛頭なく、ただ地上に皮肉を投げかけただけに過ぎないのが、男の茶目っ気のある一部分であった。

 男は古いヒットソングを口ずさみながら、外を一周する。どこから見ても、空も宇宙も変わりなく、花の上と下とで存在していた。

 空が、下の方で涙を流していることに、男は気づいていない。知ろうともしない。

「さてと」

 彼はそれから三周ほど歩き回ると、満足したらしくさっさと内に戻ってしまった。

 戻ると男は使い古して幾分か潰れてしまったベッドに体を預け天井を見上げる。天井と、そして床はガラスが張っていない。無機質な材で組み立てられている。地下に降りれば下を覗けるガラスがはめ込んであるが、別段見たいというわけでもないので、今はいくつもりはない。気が向いたときや、花を咲かせ続けるために必要な作業をしに行く時だけ、そこから下を一瞥するだろう。そんなこともあまりないが。

 男はグッと伸びをすると、欠伸を一つ、二つ、三つ。

「爪でも切ろうか」

 ベッドから出て爪切りをしまっている場所に行く途中で、床に転がった青い爪切りを拾い上げてベッドに戻る。特徴的な音が、部屋にしばらく鳴り渡り続けた。そうしてしばらく後、彼は切った爪をダストシュートに落すと、ボタンを押した。

 それに連動して、花の中でからくりが動き始め下に伸びた花の水中根の隣からゴミが放出された。花の出した老廃物は、底に降り積もって、やがて微生物を生み出すのだろうか。男が気にかけたことはない。それがいつものことなのだ。男はもう下界のことを気にかけることなどないし、男のことを気にかける下界もなかった。だから男はそのことを思い出すたびに、喜びに顔に皺をよらせるのだった。

 男はいつまでもこうした日々をずっと長きに渡り続けてきた。今日やったことも、変わったことではなくよくやってきたルーティンの一つに過ぎないのだ。

 疲れるようなことはしない、疲れるようなことも起きない。それを当然と男は蓮の花の中で過ごし続ける。蓮の花も同じくそれが当然とばかりに浮き続けているではないか。

「さてと」

 男は立ち上がるとある場所へと向かった。とは言っても、特別なものではなく単に冷蔵庫があるキッチンに向かっただけである。その部屋にあるのは、真っ白い冷蔵庫が一台と、大きくて四角い機械が一台あるだけ。あとドリンクサーバー。

 男は冷蔵庫から冷えたオレンジジュースを取り出し壁の一部に手を差し込み開いた。すると壁が一部ずれて中に覗くのは食器類である。その中からグラスを取り出すと、なみなみに注いでオレンジ色の甘酸っぱい液体を一度に飲み干してしまった。

 ジュースの瓶をしまった後彼は大きな機械の方を覗き込む。

「ハンバーグとマリネか、鮭の」

 この機械が全ての炊事をこなしてくれる。一度の補給も整備も必要のない、完全なる万能。彼はそれを四角くて白い箱と呼んでいた。決まった時間に料理が排出され、決まった時間でなくとも、食べたいものを出す。実に便利だ。

 男はグラスを機械の中に入れると、寝室へと戻った。これからまた宇宙が深く降りてくるまで眠るとしよう。その頃には太陽も眠り、月の阿呆が夜だというのに騒ぎにやってくるのだから実にバカバカしいが、眠るのには丁度良い照らし具合で、彼の好きな景色であった。

 蓮の花からみる月はいかなる月よりも大きく近い。

 既に寝息を立てている男の夢はどんな物語の本を開いているのだろうか。真白でまっさらなページに描かれる話は、無い。

 蓮の花はこれからもずっと変わらずその場所に咲き続けるだろう。ただ唯一の咲く花として。いつまでも、それは、変わらぬ世界の理。誰も知らない花が一輪。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ