アークライト家の執事
アークライト家の執事
朝の七時少し前、既に外は朝陽に照らされて眩しい。廊下の窓から鳩が飛び立っていくのが見えた。ナイトはそんな鳩の羽音にもびくびくしながら歩いていた。抱える洗面器の湯がゆれて慌てる。前には長身の男が朝から燕尾服をピッシリと着こなして廊下を進んでいた。一番奥の部屋の扉の前で彼は立ち止まると、ナイトに向き直った。
「ここがサークラインお嬢様のお部屋だ。毎朝、この時刻にお嬢様を起床させる」
「は、はい」
彼の名はレスター・ガーディアンといった。孤児院で昨日会い、この屋敷で働かないかと言われ、ナイトはのこのこと出掛けて行ったのだった。「よく来たな」と無表情で言われ、歓迎されているのか、そうでないのか判らなかったが、ナイトはもう孤児院から出て行かなくてはならない年齢だったために、何であろうと住み込みの職業はありがたかった。名前を聞かれ「ナイトです」と言ったら「いい名前だ」と言われ「夜の方ですが」と言ったら、彼の表情がほんの少し変わり「Kをつけなさい」と言われ、勝手に名前を変えられてしまった。
ここ、アークライト家は糸を紡ぐ、紡績機械を発明した家だった。工場を持ち、莫大な資産を得た。だが、今では先代の当主を亡くし、一人娘のサークライン嬢がこの家を切盛りしている。…というのは表向きのことで、実際はこの執事、レスターが管理していた。執事とは主に事務を執り仕切るものなので、おかしくはない。先日、先代が若かった頃から仕えていたという執事が病で亡くなって人手不足になり、ナイトに声をかけたとのことだった。
「失礼します。お嬢様」
レスターはノックをすると、返事を待たずにそのドアを開けた。
ナイトは彼とドアの隙間から部屋の中を見る。遮光カーテンが朝陽を遮っていて薄暗い。右手に白く大きいと思われるベッドが見えた。が、お嬢様らしき人物は見えなかった。
レスターはすたすたと躊躇うことなくベッドの側近くまで行き、その長身をかがめた。
「おはようございます。お嬢様」
彼がベッドに向かってそう声をかけると、くぐもった声が返ってきた。
「…おはよう…レスター…あと…ご」
「おはようございます! お嬢様!!」
レスターの朝の挨拶はビリビリと窓ガラスを振動させるほど響いた。
「何すんのよ! 耳が“つんぼ”になっちゃうじゃない!」
それに負けじと高い怒鳴り声がした。天蓋のあるベッドなので、その声の主の姿は未だ確認できない。
「毎朝のことでしょうに。“つんぼ”になりたくなかったら、すぐに起きて下さい」
「もっと胸キュンな起こし方できないの?」
「ナイト」
レスターはお嬢様の言葉は無視してナイトを呼んだ。
ナイトは呼ばれるままにベッドに近づき、彼の横に立つ。
「本日よりお嬢様のお世話をする執事です」
「はぁ?」
ナイトはレスターに挨拶をするように促される。洗面器をサイドテーブルに置き、直立不動の姿勢をとると乾いた口を開いた。
「ナイトです」
緊張してそれだけ言うのが精一杯だった。
「あら、素敵な名前。夜、なんて」
「騎士の方です。お嬢様」
「そんな無粋な名前はやめて夜にしなさいよ」
「……」
ナイトは是とも否とも言えなかった。
「それよりも、私はメイドにしてって言ったはずよ」
「執事の方が経済的です」
「そういう問題じゃないのよ! 全然、乙女心っていうものが解ってないのね!」
「乙女心よりも、経済を優先するべきです」
「もーっ! そればっか!」
お嬢様はヒステリーのようで、ガシガシと頭をかきむしる。
「ナイト、君はこれから毎朝お嬢様を起こし、着替えを手伝い、髪を結ってもらう」
「き、着替え!?」
「そうだ。コルセットの着用は女手よりも男手の方がいい」
「ちょっと! 私はもう十五よ! そういう問題じゃないって言ってるじゃない!」
いい加減頭にきたのか、天蓋から顔をのぞかせてお嬢様は怒鳴った。
プラチナブランドの長い髪はボサボサだが、目鼻立ちは整っていて可愛い顔といえる。そして、確かに彼女の身体は決して子供ではない。
ナイトは寝間の女性を見たことがなかったので慌てる。
「主に手を出す執事はございません」
「あーっもう! ホントに乙女心が解ってない!」
「もう少しおしとやかになりませんと、百年の恋も冷めるというものですよ」
「私はそんな狭量の男なんか願い下げだわ!」
レスターはやはり彼女の言葉は無視してナイトに声をかける。
「クローゼットの中に下着と、コルセット、お嬢様の通う学校の制服がある。下着とコルセットはベッドの中に放り込めばいい」
レスターはそう言いながら、ポイポイとベッドの中に下着と靴下、コルセットを放り込む。
お嬢様は洗面器の湯で顔を洗うと、ベッドの天蓋の中で放り込まれた下着やらを身につけるようだ。
「お嬢様がベッドから出てこられたら、コルセットの紐を締め上げる」
「優しくしてちょうだい」
彼女はそう言ってベッドから出ると柱にしがみついた。
「牛を引っ張るように…!」
「うっ」
お嬢様はうめき声を上げ、苦しそうに顔をゆがめる。
「優しくって言った…」
「ナイト、やってみなさい。最初が肝心だ」
やはり、彼女の言葉は無視してナイトは彼にコルセットの紐をつかまされる。
ナイトは思いっきり紐を引っ張った。
「ほ、骨が折れるわよ…」
「す、すみませんっ」
ナイトは慌てて謝った。力加減がどうにも分からない。
「お言葉ですが、お嬢様。コルセットはきつく締め上げてこそ、美しく見えるものです」
「わ、分かってるわよ! でも、優しく締め上げればいいことでしょ!?」
「お嬢様がなかなかお目覚めになられないので、お時間がありません」
「っぐ…」
そうしてコルセットを締め上げて、制服のワンピースを着させる。パニエをはかせて、最後に編み上げのブーツ紐を蝶々結びにして着替えは終わった。
「次に、御髪だが…」
「今日はこの髪飾りを使って」
「と、このようにリクエストがあるので、それに従えばいい」
鏡台に座った彼女の手には、銀細工に楕円にかたどられた赤い石のバレッタが乗っていた。
「え、えーと、どうすれば…」
ナイトは戸惑う。髪などさして気にしたことがない。ましてや女性の髪など触ったこともない。
お嬢様が後ろを振り返って、ナイトを見上げた。
「サラサラの髪なのね。羨ましいわ。私は猫っ毛なの」
「そうだ。まず、櫛で梳いで差し上げる」
レスターは右手で櫛を持つと、彼女の髪の一ふさを左手に手早く梳いていく。
「やってみなさい」
「は、はい」
ナイトは恐る恐るお嬢様の髪に触れた。やわらかい感触で、櫛を入れると、すぐに引っかかった。
「……」
どうしたらいいのか分からない。
固まっているとレスターが助けてくれた。
「上部は軽く櫛を往復させ梳く。毛先はこう持って、半ば無理やり梳く」
何だかんだ言ってお嬢様の髪はレスターによって綺麗に梳かれ、まとまった。次はバレッタを留めなくてはならない。再び、櫛を握らされる。
「両サイドの髪を後ろ中央に…そしてバレッタを留めるだけだ」
パチンと鳴って、赤いバレッタはお嬢様の髪に留まった。
「上出来だ。だが、明日からはこれらを十分程でこなしてもらう」
「じゅ…」
「早くしないと学校に遅れる。次は食事だ。食堂に下りる」
「はい」
「ナイトはベッドのシーツと洗濯物、洗面器を持って下りる」
「は、はい」
ナイトは慌ててベッドに寄って洗濯物をかき集め、両腕にかかえ、尚且つ洗面器をも手にして部屋を出た。廊下を進み、階段を下りる。足元が見えなくて恐ろしい…・
「洗濯室は右だ」
「はい」
「洗濯物を置いたら食堂に来なさい」
「はい」
ライトは右に折れて奥の廊下を進み、洗濯室にたどり着いた。洗面器の湯を捨て、洗濯物を籠に入れて身軽になった身体で部屋を出る。走って、食堂に向かった。
食堂に入ると真っ先に咎められる。
「ナイト、執事はいかなる時も走ってはならない。落ち着いて行動しなさい。家の品位にかかわる。急いでいる時は、走るようにして歩きなさい」
「すみませんっ……って…」
走るように歩くとは一体どうゆうことなのか、ナイトには分からない。
「本日の朝食は、真鱈のヴァプールにマジョラムとルッコラのサラダ、付け合せにポテトのクレープをご用意いたしました。お飲み物は?」
「フレッシュジュースを」
「かしこまりました」
一礼をしてレスターはグレープフルーツのジュースをグラスに注ぐと、お嬢様の前に差し出した。
優雅に進む朝食の風景はナイトにはとても新鮮で、自分はその美味しそうな食事は口にできないと分かっていてもドキドキした。傍らでレスターと並んで控えていれば執事になったという実感が湧いてくる。
「ごちそうさまでした」
お嬢様がナプキンを置いて席を立つとレスターはすぐに革の鞄をナイトに手渡した。ナイトが呆けていた間に手にしていたらしい。驚きながら受け取ると彼は言った。
「食事が終わられたら学校までお送りする」
「はい」
「日傘はお嬢様がお持ちになるが、学校に着いたらお預かりすること。学校まで安全にお送りすること。何者からも守らなくてはならない」
「は…はい」
何やらやたらと仰々しいと思うのは、自分がまだ執事に成りきれていないからだろうか。それとも本当に、道すがら誘拐されそうになったりするのだろうか。ナイトは不安を感じる。
「何してるのー! 早くしないと遅刻しちゃうじゃない!」
玄関の方でお嬢様の呼ぶ声が聞こえてきた。
「ただいま!」
大声で返して、急ぎ足で玄関へと向かう。広い家というのが、外に出るのにこんなに時間がかかるものだとは思っていなかった。
「お待たせしました」
「急ぐわよ」
扉を開けた時だった。レスターがお嬢様を呼び止めた。
「お嬢様、大声で家人を呼ぶのはいかがと思われますが。はしたないですよ」
「待たせるのが悪いんだわ」
「すみませんっ」
「行ってまいります」
ようやく玄関を出たかと思えば、外門まではるか遠く、ナイトはこっそり溜息をついた。おそらく、本来ならば馬車を使うのだろう。庭園の中央には馬車が二台は通れるほどの道が門まで絨毯のようにのびている。
「ナイトー!」
お嬢様に呼ばれて気がつけば、彼女は既に門にたどりついていてナイトが門を開けるのを待っていた。
(ええ!? いつの間に??)
足を止めていたつもりはなかったのだが、劇的な距離が生まれていた。早歩きで、などとは言ってられずナイトは走った。
「すみませんっ」
もう一体何回その言葉を言ったのかナイトには分からなくなってきていた。急いで通用門の方を開けて通る。
お嬢様の通う学校はこの辺りで徒歩圏といったら一つしかない。お嬢様やお坊ちゃんが通うお城のような学校だ。学校まで十分程の距離なのだが、学校も屋敷同様、広大な庭園があり、校舎までさらに十分かかるものと思われる。
お嬢様はかなりの大またで歩く。その横を馬車が連なって同じ方向へ駆けて行った。
「サーちゃん、おはよう!」
「あら、おはよう、イオン」
屋根のないタイプの馬車の中からお嬢様に声をかけてきたのはお嬢様と同い年位の少年だった。馬車は速度を緩め、お嬢様の足並みにそろえる。
「今日は遅いね」
「ええ、そうなの」
「そちらの彼が新しい使用人なの?」
「ええ、そう。ナイトっていうの。素敵な名前でしょう?」
「ナイトです。歩きながらで、失礼します」
ナイトは歩きながらでも右手を胸に置き、礼をとる。
「僕はイオン・フィリップだよ」
「医療品メーカー社長の孫よ」
「長男の子じゃぁないけどね」
「はあ…」
ナイトはなんて答えたらいいのか分からなかった。
「サーちゃん、乗って行く?」
「まあ、いいのかしら?」
「もちろん」
「ありがとう」
ナイトは展開についていけずに、頭の中が疑問符で埋まる。
(え?)
彼女は馬車のドアが開くと、手すりにつかまり、タラップに足をかけ、お坊ちゃんに手を引かれて、ものの数秒で馬車に乗り込んだ。
彼女が乗った馬車は速度を上げ、学校へと向かう。
(え……ええー!?)
馬車に乗って日傘を差す。それは淑女のステイタスのひとつ。
だが、ナイトの腕には彼女の鞄が残されたまま。
これは一体どういうことなのか。
(学校まで走れってこと!?)
ナイトは混乱しながらでも、走り始めた。
門前でお嬢様が怒っている姿が浮かぶ。
出会って一時間。たったそれだけの時間でも、その様子を想像するのに十分事足りた。
そして――――
(執事ってもしかして、大変な仕事―――!?)
執事という仕事がいかに大変かということを知るに足る朝だった。
アークライト家の執事 おわり
ここまで読んで下さってありがとうございます。
それだけで満足です…
「つんぼ」について。耳が聞こえないことですが、今では差別用語です。ここでは古風なイメージの為に使用しました。不快感を与えましたら申し訳ありません。
ではでは、また会えますことを…。 真乃 晴花
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。