婚約者のお姫様 中編
「ただいまー」
ライルは印刷ギルドで刷ってもらったチラシの束を抱えて帰ってきた。これでもっともっと相談所のお客さんが増えるだろう。我ながらいい手を考えたものだ。
と……、彼はふと相談所に足を踏み入れた時点で、なにか嫌な予感を感じ取る。
なんだろう、この妙な雰囲気は……。
例えるなら、応接間の方に竜と虎がいて互いの縄張りを争い合っているなら、こういう感じで背筋が冷たくなってくるのではないだろうか。
ライルは足を止めた。なんか買い忘れとかなかっただろうか。必死に頭を働かせるが、特には思いつかない。
よし、それならそれで適当な用事を見繕ってまた外に出てこよう。それがいい。だって隣の部屋から発せられる気配は明らかに婚活とは関係ないようなものだし。
コンマ数秒で考えをまとめたライルは、なるべく気配を消しながら回れ右をしようして――、そしてそのかすかな気配を察知したミーナがどーんと応接間のドアを開け放った。
「所長、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
ライルはごく自然なフリをして受付にチラシの束を置く。そうしてミーナに向き直った。
「僕のいない間になにか変わったことはなかったかい?」
「特にはありませんでした」
「そうか」
ミーナはにっこりと微笑みながら告げる。
「ただ、ライル所長の『婚約者』さまがいらっしゃっています」
「oh」
なんということだ。まさかこんなに早く見つかってしまうとは。
「ライルさまぁ!」
目を宝石のように輝かせたマルグリットがソファーから腰を浮かせる。ライルはまあまあと手で制止し、その向かいのソファーに座った。
「まさか君がここを探し当てるとはね、マルグリット。まさかひとりで来たわけじゃないだろうね?」
「ふふっ、だってあなたのわたしですもの。ライルさまがどこにいらっしゃっても探してみせますよ」
くいっと胸を張るマルグリットの前、ライルは大きなため息をついた。
そんなライルにミーナが耳打ちする。
「ていうかさっきと全然別人なんですけどこの人……、さっきまであたしのことを『あなたはガサツで、粗暴で、チビで、芋っぽくて、ライルさまのお近くにいらっしゃる人間としては相応しくないです』とかめっちゃ糾弾してきたんですけど……。なんで初対面の人にそんなこと言われなきゃいけないんですかね、ちょっと顔面に一発パンチしてもいいですかね」
「やめよう」
ふたりがナイショ話をしていると、むむっ、という顔でマルグリットが眉を吊り上げた。
「ちょ、ちょっと、顔ちかくないですか? なんでふたりそんな密着しているんですか? ただの所長と職員でしょう? やだ、ちょっとホントやなんですけど、そういうのフケツだと思うんですけど」
「だーかーらー、あたしと所長はそういうんじゃまったくないって言っているじゃないですかー」
「でもライルさまと四六時中一緒にいて、ライルさまを好きにならないような人がいるわけないじゃないですか!」
ぐぐぐと思わず拳を握るミーナ。ライルは達観した目でミーナの腕を押しとどめる。(そしてそれを見たマルグリットが『あーボディタッチー!』と悲鳴をあげた)
「面倒をかけてすまない。彼女は僕の元婚約者なんだ。まさかこんなところまでやって来るとは」
「元」
じっとマルグリットを見つめるミーナ。マルグリットは爽やかな笑顔を見せる。
「やですねえ、ライルさまってばまたそんな冗談をおっしゃって。わたしがライルさまと婚約破棄するはずないじゃないですかぁ。わたしはいつまでもライルさまのことを、お慕い申し上げて、おります、よっ」
るんるん気分で人差し指を揺らすマルグリットに、ライルは静かに首を振る。
「いや、僕が君との婚約を破棄したんだ。君のご両親にも了解は取っている。いつまでも認めようとしないのは、君だけだ」
「――」
マルグリットの笑顔がひび割れた。
「ああはははは、なななにを言っていらっしゃるんですかかかライルさままままま……。そそそそんなわわわたしとライルさまはいつまでもラブラブげっちゅーな蜜月の関係だったじゃありませんかかかか」
マルグリットはハラハラと涙を流している。それを見たミーナが一歩引いた。
「うわ、所長ってそういう系の人だったんですか? 女を手のひらで転がすような……」
「誤解だよ。僕はしっかりとした手続きをして、彼女のご両親に許可を取ったんだ。というかもともとは、彼女の親が勝手に決めた婚約だったからね」
「それでもわたしはライルさまをお慕いしておりました!」
ガタッと勢いよく立ち上がるマルグリット。胸に手を当てて、彼女は堂々と宣言する。
「この、マルグリット=シャル=ファロス=ベロリウス! たとえ親同士が決めた婚約であっても、心に決めた方はライルさまただひとり! 一生ライルさまについていくと決めましたから!」
「まるぐりっと、しゃる、ふぁろす、べろりうす」
顔を手で押さえるライル。ミーナは呪文をそらんじるようにつぶやいてから、ハッとする。
「……ファロス? もしかして、南の海を越えたところにある、ファロス王国の王族の人?」
「正真正銘の、第二王女さまだよ。人間族、十八歳だ」
「ほえー……。なんで王女さまが所長なんかと。どこで知り合ったんですか? 昔、山賊をしていた所長が、マルグリットさんを誘拐したんですか?」
「コラコラ」
ミーナもさすがに王族の人と、こんなフランクに話すのは初めてだ。物珍しさに眺めれば、なるほど、確かに王族特有の気品というか、優雅さというか美しさというか、そんなものにあふれている。まあその大半が今、涙とともに流れ落ちているのだが。
マルグリットはシルクのハンカチで目元を押さえながら、キッとミーナを睨む。
「わかりました。ライルさまは夢をもつ方。わたしもそのお邪魔はしたくありません。ですが、そのお相手としてミーナさんが相応しいかどうか、このわたしの目で見極めさせていただきます」
「いやあたしはただのここの職員で……」
「もしミーナさんがライルさまとご一緒に仕事をする器ではないと判断したそのときには……、このわたしが! ミーナさんに代わってここでお仕事をします! ですから雇ってくださいね、ライルさま!」
『えっ』
ミーナとライルは声を合わせて驚いた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、あなたみたいなトロそうな人が職員になってこの婚活相談所が潰れちゃったら、あたしの夢も叶わなくなるじゃん! そんなの絶対ダメだよ!」
「潰れるときは潰れるときです! あなたみたいな粗野な人が勤めていたほうが潰れるに決まってますし、潰れたらライルさまもきっとわたしと一緒に国に帰ってくれますけど、でもそれじゃあライルさまが悲しむでしょうからわたしが支えると言っているんです!」
「支えるんならあたしが支えているから大丈夫だって! あたし正直言ってこの仕事に人生をかけているんだからね! 生半可な覚悟で手を出さないでちょうだい!」
人生をかけているのはうそ偽りのない事実である。
それはそうと、勝手に潰れる潰れる言われているライルは、眼鏡の奥の目を濁らせながら、つぶやいた。
「マルグリットくんは昔から、思い込んだら一途な子だったからなあ」
「……どうでもいいんですけど、ちゃんと責任は取ってくださいね……!」
マルグリットは自分こそがもっともライルの力になれると信じているようだ。どこで買ってきたのかビシッとしたスーツに着替えて、キリッとした笑顔を浮かべていた。
「さて、それじゃあわたしはなにをすればいいんでしょうか?」
「えーっと……」
ライルは頬をかく。
「とりあえず業務が終わるまで、その端っこで突っ立っててもらえたらいいんだけど」
「ライルさまったら、冗談がお上手ですね」
マルグリットはニッコリと笑い、力仕事など一度もしたこともないようなピッカピカの拳をぎゅっと握る。
「ミーナさんから聞きました。この婚活相談所は、結婚に悩める男女に素敵なアドバイスをするところなんでしょう? それなら、爺やにも『マルグリットさまは本当にお優しいお方ですね』と褒められたことのあるわたしが、一番の適任でしょう!」
えっへんと胸を張るマルグリット。ライルは『君はなぜ教えたんだ』という目をミーナに向けた。そんなこと言われても、ただの世間話である。
「ではさっそくお客様を連れてきてください! このわたしが僭越ながらスーパーなアドバイスをしてあげましょう!」
「はあ」
マルグリットを応接間に放置したまま、ぱたんとライル、ミーナはドアを閉めて受付に出る。
「さてミーナくん、きょうの業務だけど」
「あ、はい。このビラを配ってくる感じですね、わかりました」
「うん、よろしく頼むよ」
この日、婚活相談所にはひとりのお客さんも来なかった。
ライルの業務日誌:うちは絶対潰れないから。