九
「……誰だ」
竜は目を開いた。大きな、蛇を思わせる金色の筋の通った瞳だった。森の中心は、峠からだと、真っ黒な木々が光を吸い込んでしまって反射しないから真っ暗闇に見えたが、実際来てみると、空からごくごく健全な光が差し込んでいて、それでも辺りの木々、植物は光を目一杯吸い込んでしまっており、あたかも物体がないのに影ばかりが存在しているようで、どうにも奇妙な風景を作っていた。
そんな風景を作っている……と思われる竜は、のっそりと首を擡げてニギへと顔を近づけた。
「ヒトか……まさかヒトが来るとはなァ……何年ぶりだろうなァ……こんな危険なところにゃ来させないようにさせたんだけどなァ……」
ヒト嫌いの竜がその昔宗教家を食い殺したと聞いたが……竜のその言葉で真意が分かってしまった。
「ぼくは、そんなにヤワじゃないよ。妖魔にも神にも、遅れは取らない。……これ、アンタは、病気なの?」
ニギは腕を伸ばして竜の鼻先を撫でた。真っ黒な、煤のような苔がガサガサと音を立てた。聞いてみたものの、ニギにはそれがなんなのか理解していた。《白縛苔》。翼竜の一部に現れる現象で、寿命が近づくと、こうして真っ黒で煤のような苔が全身を覆うという。そして死後、苔は真っ白に染まるという。
「寿命、だろうなァ」
竜自身もそれを分かっていた。
しかし《白縛苔》に森を枯らしたり水を毒にするような性質はないはずだ。どうしてこんな風に、辺り一面の森を真っ黒に殺してしまっているのか。
「昔は、この山一帯は年中花を咲かせていたって話だけど」
「ああ。それはもう、山は一年中色づいていた。春も、夏も、秋も、冬も。どうやらオレの力のお陰らしい。いろんなところから、いろんな鳥やら虫やらがやって来たさ。中には、ちょっとやんちゃな妖魔もたくさん居たが」
昔を懐かしむように笑う竜に、ニギの心が痛む。花を咲かせてきた竜。死の際になって変わり果てた風景。影響を与え続けてきた竜。原因は分かりきっている。
「で、坊主……お前はオレを殺しに来たのか?」
竜は変わらない調子で聞いた。この竜は、変わり果てた、辺りの黒く染まった景色の原因を自覚していた。自然を育み慈しんできた自分が今、それを壊してしまっている。
「ぼくは……そういうの、もうやってないから……」
ニギは真っ黒な地面に腰を下ろした。殺しに来たわけじゃない。殺せるはずもない。
「そうかいそうかい。この調子じゃ、山の向こう側にだってオレの影響が及んでいるだろうからなァ。さっさと殺しに来たかと思ったぜ」
「……そんなの、駄目だよ。さんざん恩恵を受けてきたのに、それなのに……」
「そんなモンさ。それにオレだって……こんな風に迷惑掛けてでも生きたいわけじゃない。周りを殺してでも生きたいわけじゃない。こんなことならいっそ……」
「やめろよ」
ニギはぎゅうっと膝を抱えて、視線を真っ黒な地面に落とした。
「迷惑掛けてでも、生きたって良いじゃないか。世の中に、誰かの役に立てないヤツがどれだけ居るって言うんだ。役立たずでも、生きてるだけで誰かに迷惑を掛けているとしても……生きたって、良いじゃないか」
弱々しい、それでいて自分に言い聞かせているような声だった。沈黙。真っ黒な大地に、慰めるように純白の雪がちらちらと舞い降りた。しかしそれはあまりに無力。
「……安心しろ坊主。オレは、もう、すぐだ。お前の手を汚すまでもない」
「……そう言うこと言ってんじゃない」
「オレが居なくなれば、まあ、元の通りとは行かないが、在るべき姿には成るはずだ」
「そんなこと、どうだって良い」
「はっはっは! ……なあ、坊主、今やこんな風になっちゃ居るが、オレの生きてきた時間は、結構充実していたと思うぜ。楽しいことはたくさんあった。孤独ではあったが、ひとりは嫌いじゃなかった。悔いらしい悔いも残っちゃァいない。幸せだったと胸を張って言える。だから……そんな風に泣かなくたっていいじゃねえか」
ニギの頬をぽろぽろと涙が伝っていた。
「ぼくは、ひとりぼっちは嫌だ」
「オレは、そうじゃねえのさ。誰もがひとりで居ることが苦痛なわけじゃねえ。ひとりで居たいと思うヤツも多い。まったくどっちが慰めてんだか……。な、もう、いいだろう。ひとりにさせてくれ。ひとりで生きてきた。ひとりで逝きたい。だから、行ってくれ」
「……」
ニギは力なく立ち上がって、背中を向けた。
「……何も、出来なかった」
ニギの言葉に竜は笑った。
「そうでもねえさ。ひとりは好きだが、こうして出会って話せたことは、悪いことじゃねえ。はは、いいじゃねえか、それだけで。慰めにはなった。……さっきと言ってることが逆か? そうでもねえか。はは。ま、いい。達者でな」
竜は目を閉じて丸まると、黒一色となって、どこが頭かどこが顔だか分からなくなった。ニギは走った。竜は細く目を開き、その後ろ姿を見送った。
「ほうっほっほっほっ。結局何もできずに帰ったか」
竜の傍らには白装束を着た老人が座っていた。
「……いや、会えただけでも良かった。どうやらオレは、ひとりがあんまり好きじゃないらしい」
「ほっほっほ。あのとき素直にそう言ってくれれば良かったものの。ひとにばかり気を遣うからじゃ」
「ああ、間違えたかもしれんなァ。だが後悔はない。精一杯生きた。……しかしお前、久しぶりじゃねえか。随分変わったモンだなぁ」
「ちょいとニンゲンを辞めたモンでね」
「ああ、そうかい。そいつは大変だなァ……。ああ……どうやら……もう……駄目そうだ……」
「ほっほっほっ。わしで良けりゃ、側に居てやるさ。寂しがり屋の守り神め」
「そいつはありがたい……ああ……オレは……役に立てたかなぁ……」
「そりゃそうさ。街を焼き払ったところでお釣りが来るさ」
「そうか……そりゃ良かった……」
竜は柔らかに笑って、瞳を閉じた。
「ニギ!」
一心不乱に逃げるようにして走るニギに声が届いた。驚いて貌を上げると、そこには両手を広げるコノハが居た。コノハは、勢い余ってその旨に飛び込んでしまったニギを受け止めて、ぎゅっと抱き締めた。
「コノハ! どうして……」
「こっちの台詞だ、馬鹿」
コノハの声は震えていた。
「コノハ……?」
「勝手にどこかへ行かないでくれ。本当に心配したんだ。嫌なんだよ、あんな思いをするのは。二度と……二度と……」
「……」
「居てくれるだけで良いんだ……わたしを……どうか……ひとりにしないでくれ……」
「コノハ……ごめん……」
ニギはコノハの過去を何も知らない。それでも、かろうじて察することはできた。
ニギの背後から、サラサラと流砂のような音がした。振り向くと、真っ黒だった森が、中心から真っ白に染まっていった。理解した。
竜はひとりが好きだと言った。出会えて良かったと言ってくれた。本当だろうか?
でも、ぼくは結局何もできなかった。
俯くニギに、コノハもまた、何もできなかった。




