十四
コノハは、好きでもない熱いシャワーを浴びて、決して大きくないからだに長い紫の髪を纏いながら、目を瞑り懸命に暗闇を作ってじっと俯いていた。今は、誰彼構わず八つ当たりしてしまいそうだったから、どうにかひとりになりたかった。苛立っていた。拳を作ったなら、すぐにでも目の前の壁をぶち壊してしまいそうだったから、大きく呼吸をしながら、腕をだらりと垂らして指を意識して開いたままにしていた。
苛立ちの原因なんて分かりきっていた。ニギだ。ニギに対する、自分の態度が気に入らなかった。
何様のつもりか。自分のことを棚に上げてよくぞ、随分と偉そうなことばかり吐けたものだ。
他にやり用がなかったのか、と問うてみても、他のやり方なんか分からないからああするしかなかったのだ。
相変わらず不器用ですね、か。違う。無知なだけだ。
「コノハー、居るんでしょー」
元気でかわいらしい声がコノハを呼んだ。裸の彼女の許へと、何の遠慮もなくずかずかとやって来た。コノハは振り向いて、声の通り元気でかわいらしい、褐色の肌をしたサクラの姿を認めた。と言っても今は眼鏡を掛けていないのでその姿は軽くぼやけていた。目を凝らす。自然、眉根が寄って不機嫌そうな顔になったが、その表情は彼女の心情からあまり離れてはいなかった。
「お前なぁ……。普通だったら少しは躊躇すると思うのだが」
しかしサクラはコノハの批難にまったく悪びれる調子もなく、
「ん? コノハに普通だの常識だのがなんたるかなんて、教わる憶えはないのだけれど?」
と逆にコノハを批難し返した。
「…………」
痛いところを突かれた。詰まるところそこだった。彼女は常識や普通と言ったものが抜け落ちていた。それ故ニギを導くことに、不安と焦燥と、苛立ちを憶えていた。
「何? あの子のこと?」
サクラには、見事なまでに思考が筒抜けだった。
「まったく、分かり易い顔して」
そんなに分かり易い顔をしているのか? コノハは自分の顔をむにむにと揉んでみたが、自分で分かるはずもない。溜息をついてシャワーを止め、バスタオルでからだを軽く拭き風呂場を出る。サクラは洋間のソファに座っていて、コノハは浴衣を羽織ってその対面に座った。冬とは言え部屋の中は暑いくらいに暖炉が灯っている。
「今回の仕事、結構長くかかったんじゃないの、アンタにしては。いつもはさっさと終わってさっさと帰ってくるくせに」
「まあな。いろいろ厄介だったのさ。金銭交渉に時間がかかった。その代わり、銭はそれなりに節約できたぞ」
「あっそ。ま、争いもなくコトが運んで良かったじゃない」
サクラはメイド服のまま、皺になるのも気にせずソファにだらりと凭れ、欠伸をひとつ、涙目になって爪を弄った。
「あんまりケチると後に響くから気をつけなさいね。特に、アンタみたいに力を持つ立場のものは」
「珍しいな、説教だなんて」
「珍しいのはアンタの方よ。アンタがいつもの通りのアンタなら放っておくんだけどね」
「……不機嫌そうだな。珍しくもないが。フヨウを取られたのがそんなにも嫌か」
「……ふん、何よコノハのくせに」
サクラは唇を尖らせてぷいっとそっぽを向いた。どうやら図星だったみたいだ。
「こどもひとりに手を焼いてるアンタがよくもそんなひとを上から見下ろせたものね」
「いや、わたしの方がだいぶ年上……いや、そこそこ年上なのだが。こどもって言ってもお前たちとそんなに変わらないだろうし」
「そうよ。わたしたちはこどもよ、どう足掻いても。わたしたちは全員、こどものまま大人になることを強いられているの」
コノハをじっと見つめるサクラの瞳が深い色へと変わった。簡単に瞳の色が変わるなんてことはないのだろうが、そう感じてしまうくらいの表情の変化だった。
「分かっているでしょう? もうどうしようもないのよ。諦めて生きてゆくしかないの」
「…………」
耐えきれなくなってコノハは目を逸らした。責められているような心地だった。諦めの悪いわたしを、いい加減にしろと叱っているようだった。
「本当に、アンタってこどもよねぇ……」
サクラの深い瞳が、いつも通りのかわいらしいだけのものへと変わった。コノハは安心したように視線をサクラに戻す。
「さっき〝わたしたちはこども〟だと言ったばかりじゃないか」
「アンタは特別こどもなの。あの子もね」
「好き勝手言ってくれる」コノハは苦笑する。
「自覚、あるのでしょう?」
「…………」笑みが消えた。
「怒った?」
「違う」
事実、怒ったわけではない。しかし否定の後の言い訳が思いつかない。わたしはこどもだ。それは否定しがたい事実で、自覚もある。唇をキュッと噛む。熱を帯びた視線は意味も無く机の上に乗ったテレビリモコンへと向けられている。いつの間にか呼吸も止まっていた。すうっと深呼吸して、ちらりと眦でサクラを捉えた。
「……わたしはどうすればいい」
「簡単よ。幸せを諦めなければいいの」
何ともないように言ったサクラにコノハは呆れる。
「えーっと……いや、お前な。さっき諦めろと言ったばかりじゃないか。それが急にお前は、――」
「違うわ」
サクラの瞳はいつの間にか深い色に変化していた。急な変化に対処できずまごつく。
「こどものままで生きていくしかできないとしても、この人生を楽しんじゃいけないわけじゃない。わたしは幸せになってみせる。フヨウを守って、フヨウに守られて、幸せになってみせる。それは、わたしの挑戦なの。普通の人生が歩めない、それは確かに諦めだけど、わたしが歩んで行くこの道は、険しくて、精一杯進むしかないの。わたしは、わたしの幸せを諦めない」
サクラは祈るように目を瞑って己の胸に両手を押し当てた。コノハはそれを信者のように見つめた。
「……真面目だな、お前も」
目を開くとそこにはいつも通りのかわいらしい瞳があった。表情の変化について行くのがやっとだ。
「知らなかった? 真面目って言うのは美徳なの。アンタもせいぜいわたしを見習いなさい」
「せいぜいそうするさ。……んで、流れで聞くが、お前はニギをどうしたらいいと思う。はっきり言うが、わたしはどうすればいいのか分からない」
「自分で考えなさいよ。今やアンタの所有物でしょ? 余計な責任押っ被せないで」
「流石に、そう来るか」
「でも進言ならできるわ」
「ほう?」
「ひとに進言するときには自分を棚に上げること。進言って言うのは、いつもいつも上から下へ投げかけられるものではないわ」
「ほう……」
「アンタって、真面目過ぎるのよ」
「お、お前な……」
開いた口が塞がらない。
「さて、コノハいじめてストレスも少しは解消されたし、わたしは行くわね」
サクラは平然悠然と部屋を出た。開いた口が塞がってくれない。
でも、結構いいことを聞けたかも。後、どうやらこのサクラ、機嫌が悪いときは結構意地悪らしい。決して短い付き合いじゃないが、面白いことも知れた。
コノハは精神的に疲れ果てたからだを椅子に預け、強張った肩から力を抜いて目を閉じた。鬱陶しいくらいの明かりの下で、やがてはうつらうつらとうつつの世界を旅立った。




