4 露台で
下から聞こえるパキリという枝を踏む音と、自分で言った言葉にはっとしてロジエを見ると、彼女は銀の双眸を大きく見開いて硬直している。
それはそうだろう。言った本人が一番驚いている。
「いや、違う。いや違わないが! だから、その……」
もう何を言ったらいいのかわからない。自分が色恋事に疎いことは承知していたが、ここまで酷いとも思わなかった。
愛の言葉もなく求婚するか。それ以上に衝動的に求婚したようなものだ。いや、そうじゃない。結婚することは決まっているのだ。なのに自分は何を言っているのだ。言われた方だってどうしたらいいかわからなくて当然だ。いや、そうではなくて! 男としてそうじゃないだろう!
どうする。どうしたらいい。どうするべきなんだ。
ぐるぐるとそんな言葉が頭の中を巡る中、ロジエがおずおずと声を掛けてきた。
「あ、あの。レクス殿下……」
「す、すまん!」
何故か謝ってしまった自分を殴りたい。ここで詫び言などなかったことにしてくれと言っているようなものだ。
「い、いや、違う。謝りたいわけではなくてだな……」
「え、っと……あの…私、勘違いをしていたのでしょうか。……その、私は殿下との婚約の顔見せの為にこの場に呼ばれたと思っていたのですが……」
「いや! そうだ!! そうなんだが!……あ―…ちょっと考える時間をくれ!」
レクスは目元を大きな手で覆い、顔を背ける。考えたところで何をどう伝えればいいのかが分からない。どう言えば、この気持ちが伝わるのだろうか。窺うように彼女を見れば不安げにレクスを見上げていた。
(不安にさせてどうする!)
レクスは覚悟を決めてロジエに向き合う。
「……なんと言うかだな……俺は自分の意志で君に婚姻の申し込みをしているんだ」
「殿下御自身の意志で……。それは殿下が私に歩み寄って下さるということですか?」
「ああ、そうだな……。だから、君も……」
自分に向き合って欲しいと言おうとして、彼女の花綻ぶような笑顔に息を呑んだ。
「嬉しいです」
頬を染め、上目使いに見上げてくるその様子にどくんと心臓が跳ねる。華奢な身体を掻き抱きたくなるような衝動をどうにか耐えた。
「私、出来る事ならこの婚姻を一時的な平和の為ではなく恒久のものにしたいのです。ですから殿下とは仲良くなりたいと思っていて…。殿下もそう思っていてくれていたのですね! 良かった!」
心底嬉しそうに微笑む彼女は本当に可愛らしくて。自分と彼女の感情に隔たりがあるのは分かったが、それを訂正することは出来そうになく。レクスは心の中で盛大に肩を落とした。
「ロジエ」
二人しかいなかったテラスに一人の青年が姿を現す。銀の髪に紫色の瞳の優美な青年。
「シエル兄様!」
ロジエが立ち上がり嬉しそうに傍に寄るのはルベウスの王太子シエルだ。
戦場で直接刃を合わせた事こそないが、彼は優しげな容姿からは想像も出来ないくらい武芸に秀で、そして軍略に富む賢才だった。
「和平の為の夜会とはいえ何があるか分からないから目の届く所にいるように言っただろう?」
「すみません。でも、レクス殿下とご一緒させて頂いていたので」
彼はわざとらしくそこで初めてレクスに気づいたように目を向けた。
「これは失礼しました。レクス殿下。戦場では幾度かその雄姿を拝見しましたが、初めまして、でよろしいでしょうか?」
ロジエの肩を抱いてシエルは挑戦的にレクスを見た。
「停戦交渉で何度か顔を会せているし、あんな親書を送って来た奴が今更何を言っている」
「随分と砕けた態度ですね。こちらもそのようにしても?」
「その方が助かる。シエル殿も俺の事は聞いているだろう」
「僕の事はシエルで結構。レクス殿下の事というと堅苦しいのが本当は嫌いとか? 普段の態度は鷹揚すぎるとか? 為人は色々聞いていて頷ける部分もあるしそうでない部分もある。特に女性に対する噂はちょっと違ったみたいで計りかねているんだよ」
「俺もレクスでいい。きっとその噂は嘘じゃない」
レクスは憮然と答える。女性に対する噂というのはおそらく“絶食系”とか言われているあれだろう。レクスが懐を開く態度を見せたからか、シエルの方も朗らかな笑顔を見せた。
「あははは。そうなんだ。ほら、ロジエ。これが彼の本性だよ? 王子様と言うより軍人っぽいけど本当に婚約しちゃっていいの?」
「大丈夫です! 今お話ししていたのですが、殿下も私と同じ思いでいらっしゃいました。だからきっと私達は尊重し合える夫婦になれるはずです!」
ね?と同意を求める様に首を傾げられてレクスも気まずいながらも頷いた。
「ふうん? 同じ気持ちねぇ?……まあ、いいけど。僕の提案は呑んでくれたってことでいいんだよね?」
「言われるまでもないことだったが?」
彼の親書に書かれていたことは、およそ彼の義妹ロジエへの待遇に関するものだった。
簡単に言うと『女性としての尊厳を守る様に』ということだ。
サフィラスでの彼女の身の安全を確保するのは勿論の事、彼女の意に反して無体を敷く様な事があれば武力による報復もあると。
和平の為の婚約婚姻にも関わらず随分と物騒なことが書かれていた。けれど「君も妹がいるのだからわかるだろう」と締めくくられれば否もない。王子妃といえば聞こえはいいが、所詮は「人質」のようなものであるのだから。
レクスとしては勿論、敵国の姫だからといって虐げる気もなければ、妻となる女性なのだから儀礼的になってしまうだろうが大事にしようとは決めていたのだが。
ただ、ロジエ本人を目にしてしまった今は。
真綿で包むようにこの腕の中で守ってやりたいと庇護欲を駆り立てられている。
「そうか。それなら良かった。君の良いと言われる為人を信じて明け透けに書かせて貰ったんだ。さっきも立て続けに三曲も踊るだなんて、反対派にはいい牽制になっただろう。……君にそのつもりがあったかは分からないけれど?」
シエルはくすりと笑みを漏らし、不思議そうに見上げているロジエの頭を撫でる。
確かに彼の言う通り、謀らずとも反対派には牽制になったかもしれない。政略ではなく王子自身が敵国の姫を大事にしたいのだとの意思表示になっただろう。
「改めて訊きたい。ロジエを大事に出来る? 出来ないのであればこの婚約、婚姻は破棄する。そして休戦の為、同じ条件で僕が君の妹を娶るよ」
「リアン…妹はまだ十三で婚姻を結ぶには早すぎる。それに俺はロジエを大切にすると約束できる。幸せにする」
そうだ。幸せにしたいと思う。彼女を幸せにするのは自分でありたいと。そう切に思う。
「信じていいんだよね?」
「勿論。俺はこのような場で嘘はつかない」
「そのようだね。君の瞳は信じられそうだ。……でも、覚えておいて。彼女が泣く様な事があれば僕は報復するよ」
「ああ、俺だって鬼才シエルの怖さは知っているさ」
「はは! そう? まあ、そういう訳だから、ロジエ」
「え? あ、はい?」
二人の遣り取りを驚きで口を挟めないまま聞いていたロジエは声を掛けられて義兄を見上げた。
「婚姻までは半年ある。その間君はサフィラスで過ごすことになるけど嫌な思いをしたり、彼との婚姻をどうしても呑めないようならいつでも言うんだよ?」
婚姻までの半年間という期間はルベウス側の提案だった。一人敵国に嫁ぐことになるロジエの安全の確保と足固めをするためにその間シエル王子も共にサフィラスに滞在させて欲しいというものだ。
その提案に、サフィラス側の一部貴族は信頼していないのかと糾弾する者もいたが、彼はさらりと信頼しているからこそ王太子である自分がサフィラスに滞在するのだと言ってのけた。寝首を掻かれる心配はしていないくらいには信用していると言いたいのだろうか。
ロジエは義兄を見上げていた瞳を憮然としているレクスに移し、視線が絡むと躊躇いがちにそれを逸らせた。
「大丈夫です……きっと……」
俯きがちにそう呟く顔はほんのりと朱に染まっていて。
レクスはロジエの肩に手を置く隣国の王子を払いのけて、彼女を引き寄せたいと思う感情をどうにか抑え込んだのだった。