「放っておけるわけないじゃない」
「……ねえ、ママ、どこ?」
エリーゼは悲しげに、――それでも必死に母を探し、歩いていた。
絶望の淵へ立たされた我が子に、どう声をかけたらよいものか。――エリーゼの父、ジークハルトは、思い悩んでいた。
やがて、エリーゼは問う。
わずかな光を求めて。
「……パパ。ママはどこへ行ったの?」
――その問いに、父は。
――ただ、黙って首を振るだけだった。
その日、エリーゼは、世界に対し絶望した。
☆
ジョンとエリーゼ、そしてモニカは、ブルーハーロンに乗り、渓谷の中を飛行していた。操舵役は、龍と話せる少女モニカに任せていた。
ごつごつとした岩肌を器用にくぐり、前へ前へと進んでいた。この渓谷の狭さなら、空賊の船は入ってくる心配はない。生身で追ってきたとしても、ブルーハーロンの速度に追いつくことはないだろう。
とはいえ、決して余裕があるわけではない。できるだけ穏便にことを運び、国立第四魔法学校に向かわなければ。
「……一つだけ、聞かせてください」
モニカが、ジョンとエリーゼに問う。二人はモニカの方へ顔を向けた。
「……純粋に疑問なんです。なぜ、あなたたちは、そこまでして私を助けようとしているのですか?」
モニカの目は真剣そのものだった。その質問に、ジョンは「なに言ってんだ」と当たり前のように答える。
「一人の女の子を救えないヤツが、世界を変えられるはずないだろ?」
「世界を……変える……?」
モニカの目が大きく開かれる。それはまるで、今まで聞いたことはあっても、決して口にする者はいなかった、途方もない野望だった。続けてエリーゼもモニカに笑いかける。
「嘘みたいでしょう? 本気なのよ、この男」
「……そんなこと、できるわけ……」
「ないと思うか?」挑発する素振りを見せるジョン。「だったら見ていろ。実際にやっちまう俺を」
「……ずいぶんと、自信があるみたいですね」
「おかしいか?」
「いえ」
モニカは首を振る。彼女は嗤わず、――それどころか、とても温かみのある表情で、心の底から、称賛した。
「素晴らしいと思います。見ているだけなんてもったいない。あなたが本当にそう望むのであれば、お手伝いしたいくらいです」
モニカの微笑みに、ジョンは両手を叩いて答える。
「よし、分かった。お前、俺の学校に入学して来い。編入でもいいぞ。そしたら真っ先に俺の同好会に来ることだな。歓迎してやる」
「……まあ、まだ同好会はできてないけどね」
エリーゼのツッコミに、ジョンは「一言多いんだよ」と口を尖らせた。モニカはそんなエリーゼに訊く。
「エリーゼさんは、なんで私に力を貸してくださるのですか? こんなどんくさい女に?」
「どんくさいって自覚はあるのね……。ま、そうねえ」
エリーゼは、どこか遠くを見ながらモニカに答えた。
――過去の闇を、抱えながら。
「……あなたを見てると、昔の私を思い出すのよ。ひどく鬱屈した環境にいて、現在を変えることができず、変えようと努力することすらも放棄していた過去の自分を。
……そんなの、放っておけるわけないじゃない。意地でも国へ帰してやるんだから」
しんみりとした気分になっているエリーゼに、ジョンが無粋なツッコミをする。
「なんかお前が言うとあれだな、強制送還みたいだな」
「私なんか悪いことしました?」
「よーし、あとでお説教タイムだかんな」
エリーゼは頬を膨らませたが、暗い雰囲気になりそうだったところをうまくジョンが茶化してくれたわけで、そこまで不快な気持ちにはなっていなかった。むしろホッとしているぐらいだった。それから、エリーゼはジョンに尋ねた。
「あとどれくらいで着きそうなの?」
「分からん。地図の更新もまだされてないようだし、今どこにいるのかも分からない」
「ちょっと渓谷の外へ出てみたら? 通信が届く範囲で」
「やっぱりそうするしかねえかなあ。それ、すっげーリスクが伴うんだよな。空賊に見つかるかもしれない」
「空賊がどこに居るか、分からないんですか? 何か、音とか、匂いとか、そういう前兆みたいなの、無いんですか?」
モニカの質問に、ジョンは腕を組んだ。
「どうだかなあ……。それこそ、船が大破してたりとかなら話は別だが、……この風だ、さすがに判別は出来ないだろう」
「ハル、何か感じませんか?」
モニカが見知らぬ名を呼んだ。エリーゼは首を傾げる。
「……ハル? ハルって誰よ?」
「この子の名前です」モニカはやや得意げに龍の背中をぺちぺちと叩いた。「さっき付けました。ブルーハーロンだから、ハル」
「……あまり関連性は無いようだけど」
「漆黒の妖精(笑)が何を言う」
「蹴落とすわよ、この龍から」
「冗談だって! ホントに蹴ろうとすんなよ!」
「……この子も『ハル』って名前、気に入ってるみたいですけど」
モニカも妙に張り合った。ひょっとして女の子は皆ネーミングセンスというモノにこだわりがあるのだろうか、とジョンは首を捻った。
「……それで」エリーゼはモニカに訊ねる。「そのハルって子、なんて言ってるの?」
「……結構遠くから、船独特の異臭が漂ってくるそうです。風が強いせいで、どの方角からかまでは判別できないそうですけど」
「……どうやら、そう遠くない場所にいるみたいね」
「俺らよりも後ろの方を飛んでくれてたらいいんだがな、そう上手くはいかねえよな……」
「ハル、ありがとう」
モニカはハルの背中を撫でた。その指先が、先ほど砲撃が当たってしまった部分に触れ、ハルは僅かに体を震わせた。龍の治癒能力は大したもので、もうだいぶ傷は塞がっていたのだが、その痛々しい痕は未だハッキリと残っていた。
――みんな、みんな頑張っているんだ。
モニカは、自身の境遇を嘆いてばかりで、結局は現実から目を背けるだけだった自分を深く後悔した。
――なんとしても、生き残らなければ。
モニカはそう、肚を決めた。
――どんなことがあっても、絶対に生き延びて見せる。
モニカの心に、固い意志が宿った。
……と、そこで、不意にジョンが声を漏らした。
「――ん」
「どうしたの?」エリーゼがそれに気づく。「地図の現在地、更新された?」
「……いや、違う」
ジョンは首を横に振り否定した。
じゃあなんなの、と、エリーゼはジョンの言葉を待ったが、その続きが出て来ない。さすがのモニカもしびれを切らした。
「どうしたんですか、ジョンさん、黙っちゃって」
モニカとしては、特に大きな不安も無く尋ねたのであったが、ジョンの青ざめた表情を見て、異変を察した。エリーゼは、恐る恐る、といった調子で尋ねる。
「……どうしたの、何かあったの?」
「……」
ジョンはなにも言わない。……いや、何も言わないのではない。
――自分たちの進路に、大きな穴があった。
そのことに、気付いてしまったのだ。
「……あのさ、エリーゼ、モニカ、質問するぞ」
「……なによ、急に畏まっちゃって」
「どうかしたんですか、ジョンさん?」
「……あのさ、俺たち、なんで渓谷の中をハルに乗って飛んでると思う?」
「じれったいわねえ、結論から先に言いなさいよ。それでも貴方、ダイナの人間なの?」
「えーっと、この渓谷は船が入るには狭すぎて、かつ、人が走ると龍に追いつけないという、絶妙な場所だからですよね?」
「モニカ、貴方も真面目に答えなくていいのに。ジョン、つまり、貴方は何が言いたいの?」
「……その、さ、俺たちさ、モニカの言う通り、この辺は比較的安全であるから、こうして飛んでるじゃん?」
「そうね、それがなにか?」
「その前提条件が崩れるようなこと、あるんですか?」
「そんなのあるわけ……。
……え、ちょ、ちょ、ちょっと、待って……?」
エリーゼはタカを括っていたが、――しかし、この渓谷がずっと続いているという前提条件を確認してもなお、ある可能性が浮かび上がることに気づく。
「……その、さ、地図見て、気づいたんだけど……」
ジョンが嫌な汗を垂らしながら、2人に告げる。
「……この先の渓谷、船が入れるくらい幅が広いんだわ……」
「………………は?」
「え、…………」
エリーゼとモニカは、共に目を見開いて黙った。
直後に押し寄せる、不安。いつかは空賊の目の前に出ることを覚悟していたが、なにぶん急すぎた。まだ心の準備ができていない、といった様子だ。
「……どうするんですか、これ」
「……どうすんのよ、これ……」
「……どうしよう、これ……」
3人が3人共、不安な顔つきでお互いの顔を見合う。まるで打開策が無いようだ。
……やがて、エリーゼの感情のタガが外れた。
「ちょ、ジョ、ジョン!? なんでそのこともっと早く気づかないの!?」
「仕方ねーだろ! この地図拡大しないとどのくらいの幅か分からねーんだよ!」
「お、おおお落ちちゅいいいいいいいいああああ!!」
『お前が一番落ち着け!!』
「ご、ごめんさあい!!」
モニカが頭を抑える。
――その、瞬間。
モニカの頭上を、大砲の弾が飛んでいった。
「――ッ!」
ジョンが瞠目してその光景を見やる。モニカの髪が吹き上がり、遅れて風圧が彼女を襲う。ジョンが咄嗟にモニカを抱きかかえ、吹き飛んでしまうのを防いだ。
エリーゼは遥か前方を見た。
――目の前に、空賊の船があった。
船体の両側で岩肌を削りつつ、強引にこちらへ向かってくる。
「もう来てる!?」
「マジかよなにやってんだ無茶な!」
エリーゼとジョンが悲鳴を上げた。さすがに広い渓谷といえど、船が通るには若干狭かったらしい。いまにも渓谷にはさまりそうだ。
……が、それでも、死にもの狂いで向かって来る船の推力は凄まじい。船体が削れるのも意に介さず、ハルめがけて特攻していく。
「このままじゃぶつかるわよ!」
「モニカごと潰すつもりか!?」
ジョンは我が目を疑った。手に入れられないのなら、殺してしまえと、それくらい空賊は、よくも悪くもモニカを重要視しているようだった。正直なところ、ジョンには、それが正気の沙汰である様には到底思えなかった。
ジョンは悲鳴のように叫ぶ。
「飛べェ! ハルゥ!」
「ハル! 飛んで! 上へ!」
グオオオオオオ! と、ハルが声を轟かせた。翼を大きく羽ばたかせ、急上昇する。深い深い渓谷を、地上へ向かい上り詰める。
「じ、Gが! Gが掛かるぅ~!!」
「我慢しなさい!」
急激な気圧の変化に、モニカが悲鳴を上げた。しかしこれに関しては耐えてもらうほかない。モニカは歯を食いしばって痺れる身体と頭痛を堪えた。
激しい風圧を堪えながら、それでもジョンは前を見る。
「もう少しで地上へ出る!」
「まだまだ飛ぶぞ! 空へ!」
ハルは一直線に飛び、やがて地上の光がジョンたちを襲った。
「うお、眩しッ!」
先ほどまでほの暗い谷の底に居たためか、太陽光に目が眩んだ。ハルも僅かに目を細めたが、龍はそういったことに慣れているようで、すぐさま体制を整えた。
「ジョンさん、今度はどちらへ!?」
「クロフォードの方向だ!」ジョンは急いで周囲を見回す。「えーっと、太陽の方向はあっちだから……! こっち向きだ、モニカ!」
「ハル! あっちへ飛んでください! 船を避けながら!」
モニカの指示に呼応し、ハルが声を張り上げた。身体が大きく振動し、ハルの全身の筋肉が張りつめた。そこから一気に速度を上げ、モニカは生身で受けるには相当無理がある風圧に潰されそうになった。ジョンがモニカの前へ出て、なんとか緩和しようとする。
「モニカ、大丈夫か!?」
「このくらい、へっちゃらです!」
「よく言った!」
ハルは雲を突き抜け、空を疾走していく。
途中、周囲に危険がないか目配していたエリーゼは、不意にジョンに向かい叫んだ。
「ジョン、あれ!」
「え!?」
ジョンはエリーゼの指差した方向、ハルの向きと反対方向を見る。そこには空賊の船がもう一隻、空を飛んでいた。どうやら龍の存在に気づいたようで、大きく舵をとり、ジョンたちに向かって突っ込んでくる進路をとった。
「向かって来るわ!」
「ったくなんでこんなピンチのときにィ!」
「どうするんですか、ジョンさん!」
「歯が立たねえよ、あんなの! 逃げるに決まってんだろ!」
「ハル! 逃げるよ! 私を信じて!」
ハルは空賊を振り切らんと全速力で空を飛ぶが、なかなか距離を離せない。それどころか、むしろどんどんハルとの距離を詰めてきた。
「追いつかれるわよ!」エリーゼが叫ぶ。「このまんまじゃ! どうするの!?」
「ハル! 何か必殺技とかねえのかよ!」
「炎の息を吐いたり!? それって使えるんですか!?」
「やってみねえことには分から――」
「また来るわ!」
ジョンの言葉を遮って、エリーゼが指示を出した。モニカがそれを反射的にハルに伝える。
「ハル! 左に逸れて!」
回避行動をハルに伝えるモニカ。ハルが体を捩じり、左にそれる。――その瞬間、一瞬前までハルの居た場所を、大きな黒い鉄球が横切っていった。大砲だ。
ジョンは冷や汗を流す。先ほど、ブルーハーロンに直撃したあの弾丸。あの攻撃をもう一度喰らうとなると、今度こそただではすみそうにない。ブルーハーロンの身体がもたない。
「あの船ぶっ壊すことできねえのかよ!?」
「逃げるのが精一杯で後ろを向く余裕がないそうです!」
「ジョン!」エリーゼが叫ぶ。「また撃って来るわ!」
「あーッ、たく!」
ジョンがハルの上に立ち、剣を携える。両目でしっかりと、空賊の飛空艇の大砲を見据えた。
そして、両腕に力を漲らせる。ここが正念場だとでも言いたげに。
「男は度胸だ! 気合いで乗り越えるんだよッ!」
「なにをする気!?」
「弾が無かったら――」
空賊が大砲を撃つ。超速度でこちらへと飛来する。モニカはハルにギリギリで避けるように細かく指示を出した。
ジョンが剣を握り、そして振った。
「――打ち返すんだよ!!」
ゴン、と、ジョンの剣と大砲の弾が衝突する。ジョンの両手に伝わる振動。腕ごと持ってかれそうなほどの圧力。ジョンは気合いで振り切る。
「飛べえええええええええええええ!!」
ガキン、と大砲の弾を撃ち返した。
「ウソぉ!?」
「ふええ!?」
エリーゼとモニカが共に驚愕の声を上げた。こんな破天荒なことをされたら無理もない。
さすがの空賊もこれは予想外だったようで、旋回も迎撃も出来なかった。空賊船の看板に弾が落ち、そして爆発した。
「やるじゃない!」
エリーゼがジョンを称賛する。だが、ジョンの表情は苦渋に満ちていた。
「ジョンさん!?」
モニカがジョンの容態を心配する。……いくら魔導人形を使用しているからといっても、先ほどの反撃はさすがに相当な無理があったようだ。
ジョンの両腕がひどく痙攣している。崩壊寸前だ。辛うじて剣は握れるが、あの大砲の弾をもう一度打ち返すことは出来そうにない。
「……」
ジョンは左腕を抑える。血管が浮き出て、筋肉が悲鳴を上げているのが見て取れた。じんじんとした激痛に苛まれる。それを気合いで押し込めるのがジョンという男であるが、さすがに限界が近いようだ。
「ジョンさん!」
モニカはハルから落ちないように気を付けつつ、ジョンの両腕に手を伸ばした。
「じっとしててください」
モニカは真剣な表情で、魔力を両手に集中していった。
「うまくできるか分からないけれど……」
モニカの治癒魔法が、ジョンの両腕を癒していく。ジョンの両腕の脈打つような痛みが、徐々に引いていった。これがモニカの治癒能力というものなのか。
……だが、やはり生身での魔法は出力が弱く、回復の速度はあまり早くなかった。それでも、再び剣が振れる程度には両腕の感覚が戻ってきていた。
モニカが息を吐き、魔法の使用を終えた。申し訳なさそうに、自身の無力さを恥じる。
「……すみません、こんなことしか出来なくて」
「いや、サンキュな。おかげでだいぶ良くなった」
ジョンはモニカに礼を言い、それから後方を見据えた。先ほどからハル目掛けて大砲を撃っている空賊船は、急の奇襲に混乱しているようで、大きく蛇行し、速度も停滞していた。しかし、すぐに持ち直し、またこちらへ飛んでくることは明白だった。
更に眼下には、渓谷の中へと突撃してきた空賊船が見える。また、ジョンの記憶に依れば、モニカを助けたときは3隻の空賊船が見えていたから、恐らくもう1隻、こちらに船が来るだろう。今ここを飛んでいるかは定かでないにしても、直にやってくるだろうことは容易に想像できる。
――どうするか。
――なにが、最善の択か。
迷っている暇はない。この逡巡に速攻でケリを付けなくてはならない。
ややあって、ジョンは答えを決める。これしかない、……とは言い切れないが、悩んでいる暇はない。今考え得る最善と思われる選択肢を信じよう。
ジョンは覚悟を決め、エリーゼに告げた。
「……エリーゼ」
「なに?」
エリーゼはジョンの顔を覗いた。ジョンはいつになく真剣だった。
「……モニカとハルのこと、頼んだぞ」
「――えっ?」
――それって、どういう意味?
エリーゼには、そのことを訊く余裕すら与えらえれなかった。
「じゃあな!」
そう言って、ジョンは。
ハルから、飛び降りた。
 




