ある王女の幸福
彼にとって、お父様の剣であり盾である事がどれほどの意味を持つのか、わたくしは知っていたのです。
エドガーは、幼い頃よりその魔力によって恐れられてきたと聞きました。誰もが彼の膨大な魔力を恐れ、両親すら彼を忌避していたと。彼の挙動の一つ一つに周囲は怯えていたのだと言います。
だから、なのでしょう。エドガーは自分自身に対して無頓着な所がありました。罵声を浴びても、怯えられても、特別何かを感じる事はないようでした。むしろ、納得すらしていたように思います。そこに、悲哀や孤独を感じる事も無く。あるとき空を見ている彼に何をしているのかと問えば、そのまま『暇なので空を見ています』と返って来た事がありました。彼は、持て余した時間に『したい』と思う事も無いのです。
エドガーは、自分が何もしない事が、何も思わない事が、周囲の人々の安寧だと感じているようでした。
そんな、それまで人々からの嫌悪しか集めていなかった魔力が、お父様によって初めてその価値を見出されました。誰からも忌避されながらも彼自身を構成するに不可欠だった魔力は、初めて意味と使命を得たのです。おそらくそれは、彼自身の意味と使命でもあったのでしょう。
エドガーにとって、お父様の剣であり盾である事は、間違いなく生き甲斐でした。
まるで、それ以外の価値などないかのように、彼は盲目的に魔術を振るっているように見えました。どのような怪我を負っても、どのような危険な目に遭っても、彼は充足を感じているようでした。
だからこそ、わたくしは分かっていました。エドガーが、お父様に背く事は出来ません。そしてわたくしは、彼を支える主軸を奪ってまで共に在りたいとも思いません。
エドガーがわたくしを愛していると言ってくれました。それだけで、十分です。共に在る事が出来ずとも、彼に愛されていると思いながら生きていけるのなら、それは間違いなく幸福でしょう。
それなのに、
「え、エドガー、お願いです。離して下さい」
「嫌です。絶対嫌です」
「我儘言わないで下さい……」
エドガーがわたくしを抱えたまま離してくれないのです。ほとんどお城の外に出た事の無いわたくしは歩くのが遅いのかもしれませんが、それにしても、このままでは王城での心象は悪くなるばかりです。
どうしてこうなったのか。クリスお兄様の側近であるハロルド様が現われてから様子がおかしいのです。何故か、その………ここ一体の地形が変わり、それにハロルド様が巻き込まれていたのですが。
「エドガー、君のそれはまるで、小さな子どもが宝物を取られまいと必死に手の中に閉じ込めているようだね」
お兄様は漏らすような笑い声を上げました。お優しくて、どこか空恐ろしさも感じさせるお兄様。今はお兄様の瞳から厳しさは取り払われ、揶揄するようにエドガーへ目を向けていました。
わたくしはそれどころではない、と理解しながらも胸が高鳴ってしまいます。わたくしがエドガーの『宝物』だなんて。
「いけませんか?」
「僕はとやかく言うつもりはないよ。ただ、」
エドガーの警戒するような返答に、クリスお兄様は軽やかに仰いました。
「その宝物が生き物だった場合、大抵力加減を間違って絞めちゃうよね、首」
お兄様は、恐ろしい。
「クローディア様!」
何故か小さな裏門からお城に戻り、泣きながらわたくしを迎えてくれたのは、侍女のシェーラでした。優しくて、温かいシェーラにこんな顔をさせているのはわたくしなのです。分かっていながら今回の事を実行に移したとはいえ、胸が痛みました。
「ごめんなさい、シェーラ」
「謝らないで下さいまし。シェーラは、クローディア様がご無事ならそれで良いのです」
優しいシェーラ。いつもわたくしの事を考えてくれる人。姉がいたらきっと、彼女のようなのだと思います。
シェーラは感極まったように涙を流していましたが、エドガーやお兄様など、共に戻ってきた人々の姿を確認し、目元を拭ってすぐに控え目な笑顔を取り繕いました。数秒前まで泣いていた人とは思えないような、完璧な表情でした。彼女は優しいばかりでは無く、優秀な侍女であるのです。
「クローディア様は陛下への謁見の前に御着替えをなさいませ。湯浴みの準備は整っております」
確かに外から戻ったこの姿では、お父様に謁見する事は許されません。わたくしがシェーラと共に一度部屋へと戻ろうとすれば、再びエドガーに腕を掴まれました。
「エドガー?」
「…………………」
「…………また、すぐにお会い出来ますわ」
微笑めば、エドガーはようやく手を離してくれました。彼も、ここで別れを惜しんだ所で何も変わらない事は、よく分かっているのでしょう。
彼の不安そうな、頼りない瞳を初めて見ました。そんな姿も愛おしく、可愛いと思ってしまえるわたくしは、本当に幸せ者です。
だから、大丈夫。わたくしは、この先に何が待ち受けていても平気。その為に、せめてエドガーの安寧だけは守れるように立ち回らなければ、とわたくしは固く決意しておりました。
そう、決意していたのです。当然、別れも覚悟しておりました。
「クローディア、おまえに告げた結婚相手とは、そこの魔術師。エドガー・ラドクリフだったのだ」
エドガーの結婚の許可を乞う言葉に応える、お父様の御言葉の意味が理解できませんでした。わたくしの結婚相手がエドガー・ラドクリフ。それはつまり、お父様のご意向としては、わたくしとエドガーの結婚を望まれているということで。
という事は、あら?わたくし、これまで何をしていたのでしょうか?わたくしの決意とは一体何の為に?そもそも決意の必要性すら無かったのではないでしょうか?
不意に、クリスお兄様と目が合いました。迎えに来て下さったときの様子でもちろん反対されるのだと思っていたお兄様が、お父様に対してエドガーを擁護するような発言をしていたので、不思議に思っていました。
クリスお兄様をそのまま見詰めていれば、お兄様の口元がにっと釣り上がっていきました。お兄様らしい、口元だけでひどく楽しそうな笑顔でした。
わたくしは、悟ります。お兄様は全て承知の上での事だったのでしょう。
あまりの現実に眩暈がして、気が遠くなってしまったわたくしは悪くないのだと、そう信じたいものです。
予想外な現実からいくつかの季節を越え、その日はシェーラ達にお願いして、いつもより念入りに湯浴みをしました。侍女達は皆笑顔でわたくしの身体を磨き、丁寧に髪に櫛を通し、香料を馴染ませ、綺麗に結い上げます。お顔には白粉をのせ、頬紅をほんのりと滲ませると、いつもより少しはっきりした口紅を塗りました。
この日の為に仕立てた新しいドレスに袖を通し、コルセットを締め、レースのグローブを嵌めて、お揃いの靴を履きました。あとは、髪をお花やヴェールで飾れば完成です。
鏡越しに目が合ったシェーラが、嬉しそうな笑顔をわたくしに向けました。
「シェーラの方が嬉しそうなくらいですね」
「だって、クローディア様があまりにお美しいのですから」
シェーラは仕上げにわたくしの髪を整えながら、口にします。
「輝くようにお美しいのは、クローディア様が心から幸福を感じてらっしゃるからです。シェーラは嬉しいのです。クローディア様の侍女として、こんなに嬉しい事はありません」
出来栄えに満足そうに微笑んだシェーラは、わたくしのすぐそばで膝をつきました。心からわたくしの幸福を願ってくれているのだと分かる彼女の優しさに、わたくしは知らずの内に涙を流していました。
そんなわたくしに、シェーラはやはりどこまでも温かく、まるで姉のように微笑むのです。
「クローディア様、笑って下さい」
ああ、本当にもう。わたくしはなんて幸せ者なのでしょうか。
支度が整い、王城内にある教会の控えの間に向かうと、そこにはすでにエドガーが立っていました。彼は驚いたように珍しく目を丸くしています。
「お待たせ致しました。どこかおかしいでしょうか?」
「とんでもない………白くて、眩暈がしそうです」
「それは、エドガーも同じではありませんか」
わたくしはくすりと笑いました。そんな感想を求めていた訳ではないけれど、何だか彼らしい意見だと思います。
わたくし達は、揃いの白い意匠に身を包んでいました。この日の為に用意されたわたくし達の為だけの、婚礼衣装です。あの、お父様の真意を知った日に婚約を交わし、この日とうとう、わたくしは本当にエドガーのお嫁さんになれるのです。
「似合いませんか?」
「いえ、あの………すごく、お綺麗です。あんまりにお似合いで、緊張してきました」
そうは言いながらも、その緊張が全く顔に滲まないエドガーに、わたくしはまた可笑しくなって笑います。彼はどこか困ったように首を傾げました。
「私では不釣り合いです。先程もオズワルドに『白が似合わないにも程がある』と言われたのです」
「まあ」
友人だからこそ出てくる憎まれ口のようなものでしょうが、エドガーは本当に戸惑っているようでした。わたくしは彼の腕に触れて、首を横に振りました。
「わたくしの隣でそれを着て下さる方に、貴方以上の人はいません」
エドガーはそれでも悩ましげに眉を寄せましたが、やがて緩やかに肩の力を抜きました。
わたくしはそんな彼に対し少し距離を取って、真っ直ぐに彼を見つめます。
「あのとき言えなかった言葉を、今お伝えしてもよろしいでしょうか?」
「それがクローディア様のお言葉であるならば、何なりと」
エドガーは当然のように了承してくれました。そろそろ挙式が始まる時間です。どうしても、それまでに伝えておきたい言葉がありました。
「あのときのわたくしは憶病で、素直に貴方にこの手を伸ばす事さえ出来ませんでした。だから、今言わせて下さい」
エドガーの瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。彼の、この瞳が好きでした。わたくしから目を逸らさず、いつもわたくしの事を見付けてくれる目。時折滲む寂しさが愛おしかった。本当は優しい人なのに、それを上手に表現できない不器用な人。それでも、一輪の花で慰めてくれようとしてくれる、わたくしの魔術師。
いつも、貴方の背を見送っておりました。バルコニーからその背を見詰めていました。けれど、どうか。これからは真っ直ぐに目を合わせて、貴方を見送りたいのです。
「わたくしは、エドガー・ラドクリフを愛しています。エドガー、わたくしとずっと一緒にいてくれますか」
彼は、真剣な顔でわたくしの前に握った拳を差し出しました。手を開けば、中から一輪の純白の花が姿を現します。見た事の無い、硝子のように繊細で美しい花でした。
「例えこの命尽きたとしても、私の魂はクローディア様と共に」
エドガーの手から、花はわたくしの手へと移り、その繊細な美しさに涙が溢れてきました。何だか今日は、泣いてばかりいます。彼はわたくしの涙に余程驚いてしまった様子で慌てふためき、一頻り戸惑った後、涙を拭うようにわたくしの頬に触れました。不器用なその指の感触を、とても好きだと思いました。
「死んでしまっては、嫌です」
そう言えば、彼は一瞬きょとんとしたようですが、すぐに笑顔を浮かべました。滅多に表情を変えない彼が浮かべる、ぎこちない笑顔でした。
「愛しております、クローディア様」
ある国に、ある王女様がおりました。美しくお優しい王女様でした。けれど、孤独で寂しがりの王女様でした。王女様は、毎日泣いてばかりいました。
ある国に、ある魔術師がおりました。その強大な力故に、人々から忌避される冷たい魔術師でした。魔術師はいつも、人々から恐れられていました。
あるとき、王女様と魔術師が出逢います。魔術師は、泣いている王女様に一輪の花を贈ったのです。魔術師は、恐ろしい魔術師でしたが、その本当は優しい魔術師だったのです。
王女様は魔術師の隠された優しさに、魔術師は王女様の自身を恐れない温かさに、次第に想い合うようになりました。
これはただ、それだけのお話。
読了ありがとうございます。
これにて完結です。こんなにいちゃラブしてんのたぶん始めて書いたよ!
最後は少し駆け足かな、と思ったのですが、書きたかったものは全て書けました。ダラッとしてしまう方が好きではないですし。
とりあえずは、クローディアのウェディングドレス書けましたので。特に描写はしてないですけどね。
エドガーが王家入りでも構わないのですが、クローディアの幸せを考えたらラドクリフ家に入って義母と過ごし、夫の帰りを持つ平穏な日々の方が幸せそうなので、彼女は降嫁されます。
マーナとはすぐに打ち解けるのでしょうが、ダグラスからはしばらく最大限の気を使われそうです。頑張れ。
今後、しばらく先にはなるでしょうが、ハロルドの叶わない恋のお話とか、クローディアとマーナのお話とか書いてみたいです。希望だけで終わらない事を願います。
最後になりましたが、ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。読者様のご声援で成り立っていると言っても過言ではありません。
本当にありがとうございました。