ある魔術師の苦悩
思い返せば納得する事ばかりであった。
遠くからこちらを見詰める視線に心は安らぎ、小さな花のような控え目な笑顔に胸が躍った。躊躇わずに自身に触れる手は温かく、私を守るように立つ背は凛としていて、抱きしめる温度にどうしたいのかも分からない衝動が灯った。
私は、愛していたのだ。以前からずっと。恐れ多くも、クローディア様を。一介の魔術師が、呪われた分際で。
それにようやく気付き、口に出して伝え、慌ててクローディア様から距離を取った。彼女の大きな瞳が、今にも泣きそうに潤む。
生まれて初めて、恐ろしいと思った。
人から拒絶される事には慣れている。それを気にした事はなかった。この国の人々は忌むべき私にも気安く話し掛けてくれる、優しい人々がほとんどだったからだ。いかに私が忌避の対象であるか、わざわざ丁寧に教えてくれるのだ。手間であるだろうに、有難い事である。
だから私は、自身が拒絶されても仕方ないのだと知る事が出来ていた。それなのに、今初めて恐れたのだ。
私は、クローディア様に拒絶されてしまえば、どうなってしまうのか分からない。
心の中にぽっかりと大きな穴があり、そこに引きずり込まれてしまうような気がした。
「エドガー…」
クローディア様の静かな声に、恐る恐る目を向ける。彼女は、不安そうに私を見上げていた。口を開きかけて一度は噤み、今度こそ言葉を発する。
「愛していると言って下さったお言葉が本心なら、どうかわたくしを恐れないで。わたくしはただ、貴方を愛しているだけ。貴方に愛されたい、だけ」
クローディア様のこちらを見詰める目が、あまりに真っ直ぐで、心臓が潰れてしまうのではないかと思った。まるで、全てを見透かすような、マーナのように穏やかで、けれど違う熱の籠った瞳が、私の指先を震えさせる。
恐れるように指を伸ばし、彼女が一歩私に近付く。私の手を両手で包み込んで、自らの頬へ導く。私の手がクローディア様の頬に触れれば、彼女は嬉しそうに破顔した。
「幸せですわ。エドガー、愛しています」
その華奢な指の感触が、手のひらの温もりが、微笑みの優しさが、私の呼吸を止める。堪らなくなったものを吐き出して、今度こそ私の方からクローディア様を抱きしめた。
ああ、そうか。そうだったのか。
私は、生まれて初めて人々の笑顔の意味を知る。いつだってマーナが温かかった理由を知る。
人を愛するという事は、人に愛されるという事は、こんなにも幸福だったのか。
「エドガー、苦しいです」
そう言いながらも同じように力を込めてくれるクローディア様に、加減など出来ようはずもなかった。力を緩めてしまえば、きっと泣きそうになっているこの顔が、見付かってしまう事だろう。
――――――はてさて、そんな幸福を手にしたのは良いものの、問題は山積している。
まずは現状である。あのときは混乱のあまりにクローディア様を攫ってしまい、何とか円満に城へ戻らなければと思っていたが、今の私は彼女への愛を自覚してしまった。結論から言おう。帰したくない。
戻れば、まず間違いなく私とクローディア様は引き離される事だろう。私は王女殿下を攫った一級犯罪者、クローディア様はすぐにでも陛下のご用意した男に嫁がされるはずだ。城に戻った瞬間が今生の別れとなる。何より、彼女が見知らぬ男の下に行く事が堪え難い。想像するだけで目の前が真っ赤になりそうだった。
しかし、同時に私は陛下に返しようも無い恩がある。偉大なる国王陛下に忠誠を誓い、陛下の為に魔術を振るう事が私の生き甲斐であり、使命だった。陛下に背くような事があれば、迷わずこの首を差し出すべきだと思っていた。
けれど、愛してしまった。私は、クローディア様への愛と、陛下への忠誠で身動きが取れなくなっていた。
そんな私を、彼女は責めるでもなく受け止めてくれる。
「エドガーが決めて下さい。わたくしは、貴方が愛して下さるなら、どんな結末でも幸せですから」
うっかり衝動的に抱きしめてしまったのは余談である。
そうして、幸福に浸りながらも頭を悩ませていたときだった。この隠れ家の周りに張り巡らせていた私の魔術が、侵入者の存在を教えて来たのは。
しかし、心配は御無用。侵入者を自動的に排除する魔術を仕掛けていた。大抵の者はこれにより難なく撃退されるはずである。
「そっこかぁあああああああああああ!!」
そのはずが、雄たけびが聞こえる。それと同時に魔術の基盤を壊された事が分かった。次いで、隠れ家が派手に揺れた。私は反射的にクローディア様を守る為に抱え上げ、家まで崩されてはかなわない、とそのまま隠れ家から飛び出した。もちろん、その際に侵入者の動きを封じる為の魔術も忘れない。
砂埃の舞う中、私の魔術である光の矢によって地面に縫い付けられた人物の姿が、明らかとなる。私は、その姿を認めて目を丸くした。
「………何をやっているんだ?オズワルド」
光の矢によって地面に縫いとめられていたのは、我が友であるオズワルド・ハーシェルだった。彼はマントや服の裾の隙間を綺麗に貫かれていた。肉体に突き刺さるのをギリギリで避けていた彼に、心から感心する。
光の矢を消してやれば、オズワルドは無言のまま剣を振り上げて襲いかかって来た。いつもの彼の戯れのようだが、今はクローディア様の御前である。戯れで許す訳にはいかないだろう。
「オズワルド、場を弁えろ」
私は光の帯を盾に変え、彼の剣を受け止める。それによって弾けた盾は光の刃となってオズワルドに向かっていった。
剣を向けられた際、短い悲鳴を上げてクローディア様が私にしがみ付く。正直、オズワルドの剣より頬が緩みそうになるのを抑えるのに必死だった。
「ちっ!」
オズワルドは舌打ちして距離を取る。感じが悪いので止めろとよく注意するのだが、なかなか直そうとしない。
「何で光属性ばっかなんだよ!似合ってねーんだよこの根暗が!」
相変わらず酷い言いようである。私のどこが根暗だと言うのか。朝陽と共に目覚める、という生活習慣がすっかり身に付いている、健康優良児だというのに。師など感極まった様子で、前向きだ、と評してくれるのだ。
「よくここが分かったな」
おそらく、おおまかな場所は師から聞いて来たのだろうが、魔術を解くにはその基盤を壊す必要がある。
「あん?んなもん勘だ、勘」
冗談のような言葉だが、オズワルドの場合、冗談とも言いきれないから恐ろしい。彼には魔術適性が一切ない。しかし、それ故に魔術の磁場を『何かあそこ気持ち悪い』と違和感として認識する事ができ、ほぼ勘だけでその位置への攻撃に移る。その度胸といい、ある種の才能といえるだろう。
「さぁて、覚悟は良いな。城に戻るぞ。もちろん、殿下もご一緒にだ」
オズワルドの言葉に、クローディア様が震える。私にも焦りが湧き上がって来た。あまりに慣れた展開にすっかり和んでしまっていたが、私の隠れ家が見付かり、彼がここにいるという事は、理由は一つしか考えられない。オズワルドは、我々を連れ戻しに来たのだ。
「待ってくれ、オズワルド。しばし時間を…」
「アホかボケ。どんだけ俺が振り回されたと思ってる。誰がんなもんやるかよ」
「…………………すまない」
私は、抱え上げるクローディア様のお顔を自身の肩口に押さえつける。砂埃から庇うためだ。私は空いている方の手をオズワルドへ向けた。
「………おい。おい、ふざけんなよ」
オズワルドは頬を引き攣らせていた。私はその結果を見る前にこの身を翻す。きっと今頃、隆起した大地がオズワルドに襲いかかっている事だろう。
森の中、転移もせずにクローディア様を抱えて走り抜けながら、私は答えの出ない思考に迷い込んでいた。
このまま逃げ続けて何になると言うのだ。それならばいっそ、覚悟を決めて城に戻り、この命を掛けて陛下に直談判するべきではないのか。少なくとも、臣下としてそちらの方が陛下への忠義は果たせるように思う。
そうするならば、このまま逃げ続けて仮に追手に捕まるよりは、自ら戻った方が心象は良いはずだ。
「………エドガー?」
けれど、と間近にあるクローディア様の顔に目を向ける。この、愛しい人と引き離されてしまう可能性を思うと、恐ろしくて仕方がないのだ。他人を愛する事が、こんなにも私を憶病にするなど、思いもしなかった。
そのとき、ぞわりと寒気が背中を駆け抜ける。振り返れば私の影が肥大化し、こちらに襲い掛かろうとしていた。私は咄嗟に光の球体を作り出し、その影を呑みこんで消すとその場から勢いよく距離を取る。
「エドガー、背後ががら空きではないか」
木の陰から姿を現したのは、我が師であった。影を操る魔術は、師の得意とするものである。
「殿下をお連れして、城に戻りなさい。今なら、陛下もお許し下さる」
師は、いたく哀しげにそう口にした。師は厳しい人である。冷酷な魔術師と言われていた。その実、マーナを大切にし、私の事をいつでも気にかけて下っている事を知っている。その師に、今のような顔をさせているのかと思うと、胸が痛んだ。
「お待ちください。どうか、今一時の猶予を」
「ならん。これ以上陛下を煩わせる事は出来ん」
「そうそう。父上はいたくご立腹であらせられるよ」
重苦しい空気の中で軽やかな声が割り込んだ。いつ見ても涼やかな空気を纏う、クリスティアン王子である。師が素早く彼のそばに控えた。クリスティアン様はいつも通りの、口元だけはひどく楽しそうな微笑みを浮かべている。
「さあ、追いかけっこは終わりだ。エドガー・ラドクリフよ。そしてクローディア。無責任な行いは、楽しかったかい?」
クリスティアン様の言葉に、腕の中のクローディア様が身体を振るわせる。彼女は、責任感の強い人間だ。この国の王女としての責務をいつも念頭に置いている。思えば、今回のこの状況は、そんなクローディア様が初めて自分自身を押し通していたのだ。
私は、じりじりと後ずさる。クリスティアン様に攻撃を向けるなど言語道断であり、最早城に戻るか、転移を使い本格的に逃亡を開始する選択しかなかった。
そんな私の胸を、クローディア様がそっと押して距離を取った。
「ごめんなさい、お兄様。わたくし、お城の外を見てみたいなどと我儘を申しました。すぐに戻ります」
「クローディア様…っ!」
「エドガーも付き合わせてしまってごめんなさい。王女のわたくしに命令されてしまえば、貴方は逆らえないのに。無理を言いましたわ」
そう言って、クローディア様は微笑む。それは、私を突き放す為の微笑みだった。彼女を連れ去ってしまったのは私であるのに、まるで自分だけが悪いように。
「お兄様、どうかエドガーの事はご寛恕下さいませ。わたくしの我儘に付き合い罰を受けるなど、あまりに報われません」
「もちろんだよ、クローディア。僕はね、君がこちらに戻れば文句はないんだよ」
クリスティアン様は柔らかく口にする。あの方らしい、異母妹想いの優しい声音だった。
「ごめんなさい…」
クローディア様は私を見上げ、その瞳に別れを滲ませる。そのときようやく気付いた。彼女はどんな結末でも幸福だと言った。その結末とは、きっとこの状況の事だったのだ。彼女は初めから夢だけを見て、思い出を胸に全てを無かった事にするつもりだった。私がクローディア様を選ぶなどと、欠片ほども思っていなかったのだろう。
思えば、クローディア様は昔からそうだった。何も手に入らない事が当たり前であるように、何かを手にする事を諦めている。だから、私はクローディア様に花を贈った。彼女が唯一望むのはいつも、野に咲くようなささやかな花ばかりだったのだ。
私は、この手を永遠にすり抜けて行こうとするクローディア様の手を、確固たる意思を持って掴んだ。
「は、放して下さい」
「放しません」
クローディア様の瞳が、怯えるように揺れる。私はそれでもその手を離さなかった。
「覚悟が決まりました。共に城に戻りましょう。陛下に結婚の許可を願い出ます」
「な、何をおっしゃいますの?許されるはずがありません」
「言ってみなければわかりません。それに決めました。必ず許可を頂きます」
考えてみれば簡単な事だ。私は陛下に忠誠を誓い、ご恩返しをしなければならない。けれど、クローディア様を手離したくない。その二つを叶える為には、陛下に御認め頂ければ良いだけの話である。
私は、何も諦めない。だから、彼女にも諦めて欲しくなかった。
「な、何を根拠に………」
クローディア様は、今にも泣き出しそうな頼りない表情で私とクリスティアン様の顔を交互に伺う。せっかく、私に責がいかないようにしたのに、とでもお思いだろう。そんなもの、嬉しくなどないのだ。
「根拠などありません。けれど貴女を愛しています。無理を通すには十分すぎる理由です」
クローディア様は言葉を発そうとして口を開き、しかし言葉にならないとでもいうように閉口した。そして、とうとうその大きな瞳から、一筋の涙が頬を滑り落ちる。次にその場に響いたのはそんな彼女の声ではなく、クリスティアン様の笑い声だった。
「あっはっは!いやあ、実に愉快だよ。エドガー、さすが僕が見込んだ男だ。では、その無理とやらをぜひ通してもらおうじゃないか」
クリスティアン様が身を翻し、それに師が従う。一瞬だけ向けられた師の複雑な視線に胸が痛んだ。
掴んでいた手を離しても、クローディア様はもう離れて行こうとはしなかった。代わりに彼女の方から私のローブの裾を掴み、そっと目を伏せる。目を閉じて、息苦しそうに囁いた。
「ごめんなさい、エドガー」
謝られたい訳ではないのだと、そう伝えようとしたときだった。
見覚えのある人物が現われた。しかし、見覚えがあると分かっても、その人物が誰かまでは分からない。
「クリス様!無理矢理連れて来ておいて姿を消すのはお止め………」
ただ、一つ言える事は、私は三秒ほど自我を無くし、気付いたときは大地が少々歪んでいたのである。
読んでいただきありがとうございます。
誰も真実を教えてくれない件について。
オズワルド→そんな事よりぼこりたい
ダグラス→うっかり
クリスティアン→テヘぺロ
ハロルドは、ぶっちゃけ三人での捜索隊は侘しいと思って追加されました。四人も大差ないですが。せっかくなのでオチに。