ある侍女の心配
私が行儀見習いとして出仕し、王女殿下であらせられるクローディア様付きの侍女となったのは、私が十四歳、あのお方が十二歳のときの事でした。
未だ子どもと呼ばれる年齢のあのお方は、けれどやはりただの子どもではなく、どこまでも完璧に微笑まれるそのお姿は、『王女』以外の何者でもありませんでした。
柔和な容姿に、どこか超然とした雰囲気を纏うクローディア様は、息を呑む私にこうおっしゃいました。
『何かと肩身の狭い思いをさせる事もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願い致します』
この世の穢れなど何一つ知らないような、楽園に住む妖精のように可憐でいて神聖なクローディア様は、夢幻のような美しさで、残酷な現実を滲ませました。
クローディア様のご生母様で在らせられる方は、我が国と長きに渡り戦争を繰り返して来た隣国の姫君でした。共に血で血を洗うような歴史を積み上げて来た隣国の姫君を、我が国はけして歓迎しませんでした。それをけして表立って口にする事はなくとも、そうした負の感情は肌で感じてしまうものです。
だから私は、奇跡のようだと思いました。
クローディア様のその御心は、自身の立場をしっかりと理解しながらも、他者からの悪意を無言で受け止めながらも、どこまでも清いまま。純粋さを忘れず、臣下や国民を心から愛し、陛下を尊敬し、私共侍女にさえ労いの御言葉を掛けて下さいます。
そのお立場の複雑さを思えば、人生に拗ねたとして、誰がそれを責められるでしょう。他人を恨んだとして、誰がそれを否定できるでしょう。
そんな中、クローディア様は現実というものを理解した上で、心清らかに過ごされているのです。
それが出来るクローディア様のその御心の強さに、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。あの方の純粋さは無知ゆえではなく、その聡明さによるものです。
それを理解したとき、私は強く自分を恥じました。私はあの方に比べ、あまりに愚かで、弱い。
だからこそ、私は願ったのです。どうか、クローディア様のお役に立ちたい、と。
それは、羨望であり、憧れであり、崇拝――――でした。
私がクローディア様のその御心の在り処を知るまで、それほど時間は掛かりませんでした。
クローディア様は、大人しい姫君です。時折お散歩と称して城内を歩くくらいで、大抵の一日を自室で過ごし、勉学に勤め、ご趣味でもあられる刺繍をするくらいでした。
その刺繍には花が描かれる事が多く、時にはこの国で見た事も無い花が描かれていました。私が、何の花ですか?と問いかければ、何故かクローディア様は顔を真っ赤にして、幸せそうにその刺繍に顔を埋めるのでした。
クローディア様は、度々バルコニーに出ては、広い空に想いを馳せておられるようでした。どこか焦がれるような目で外の世界を見回すお姿に、私は遣る瀬無い気持ちでお側に控えていたものです。
クローディア様は、籠の中の鳥のようでした。誰もが羨むような、一見美しく、快適で整えられたその身にも部屋にも、あの方の自由はありません。クローディア様はこの国で一番の贅沢を享受する事ができても、その心のままに外へ踏み出す事は許されないのです。
そして、クローディア様自身、それを望んではならない、と理解しておられました。
そんな、あるときの事です。いつものようにバルコニーに出て外を眺めるクローディア様が、常らしからぬ挙動を見せたのは。
突然、勢いよくしゃがみ込みました。まるで、手すりの柱に身を隠すように。そのまましばらく停止して、お声を掛けようとした頃、そろそろと立ち上がりました。お目元だけを手すりの上から覗かせて、下を覗き込んで、更には手のひらをお顔の横で下に向かって振りました。
私は、クローディア様の行動に興味を持ち、思わず手すりの隙間からその視線の先を窺いました。クローディア様のお部屋は王城の中でも中程の高さにありますが、城の外周を歩く人物の姿を視認する事は出来ました。
そこにいたのは、エドガー・ラドクリフ。
魔術師団長ダグラス・ラドクリフの養子にして、史上最年少で魔術師団入りを果たした天才と謳われるが、同時にそれだけの力を持ちながら冷酷な心を持つと恐れられる魔術師。
遠目にしか見た事はありませんでしたが、すぐに分かりました。それほど、かの人の恐ろしさは誰もが知る所でした。
私は、息を呑んでクローディア様のお顔を窺います。そのお顔は、赤く染まりながらも、幸福そうに緩んでいました。いつもの王女様然とした美しい横顔ではなく、まるで普通の少女のような。そう、まるで恋をする乙女のような―――――
私は、眩暈がするようでした。
エドガー・ラドクリフと言えば、ろくな噂を聞かない魔術師でした。
国王陛下の信が篤く、有能な魔術師である事も有名です。けれどそれ以上に、その恐ろしさの方があからさまに広まっていました。
腕の一振りで百の兵を退け、瞬きの後にはその地を焦土に変えてしまうとか。目を合わせた者は呪われるとか。幼少期にはすでにその才を発揮し、生まれた村を滅ぼし掛けてその地を追われたとか。恐ろしい噂には事欠かない人物です。
私は、クローディア様のあのお顔を拝見して、いたく心配になりました。クローディア様は、騙されているのではないか、と。もしくは、その年頃の少女によくある憧れによる勘違いではないのか、と。
だって、あのたおやかな姫君が、近付いて良いような男ではない。
私は、一人決意を固めました。私が、クローディア様をお守りする。あの聡明なお方が、こんな事で進むべき道を見失ってはいけないのです。
私はまず、敵を知る為にエドガー・ラドクリフと懇意にしていると噂される人物を訪ねました。都合の良い事に、その人物とは私の母方の従兄妹であるオズワルド・ハーシェルでした。目付きと性格と根性が悪いと有名な騎士です。私は、この男は騎士よりも山賊の方が似合う、と常々思っておりました。
エドガー・ラドクリフについて尋ねる私に、オズワルドは非常に苦々しい顔をしました。まるで、口内炎が出来てしまったかのような、偏頭痛に悩まされているかのような、そういう日常的な忌々しさを感じさせる表情でした。
オズワルドは言いました。
『あの男に興味を持つな、シェーラ。あの男は人の神経を逆なでする事に関しては天賦の才を発揮する男だぞ』
しかし、その後すぐに何かに気付いたように、私が現在クローディア様の侍女をしている事を確認すると、至極面倒くさそうに溜息をつき、肩を落としました。
『尚更放っておけ。少なくとも、あの男が王女をどうこうしようって事はねえ』
何故そんな事が分かるのか、としつこく食い下がっても、結局オズワルドは詳しく教えてはくれませんでした。俺にあいつの話をさせるな、と言うばかりで上手く逃げられてしまいました。
もちろん、私よりも長くクローディア様に仕え、乳母でもあり侍女でもある上司にも相談はしました。しかし、彼女はあまりにもあっけらかんと肩を竦めたのです。
『心配する事はないわ。シェーラはこれまで通り、クローディア様をお支えして差し上げれば良いのよ』
それは、答えになっていませんでした。どうして、心配せずにいられましょうか。相手はあの、悪名高きエドガー・ラドクリフなのです。
しかし、私の心配が杞憂であると判明するのもまた、そう時間は掛かりませんでした。
あるとき、不意にクローディア様が姿を消されました。時折ある事で、すぐに戻られるから安心して待ちなさい、と宥められたのですが、私はどうにも心配でクローディア様を探しに出掛けました。
見付けたその場では、クローディア様が見た事も無いような厳しい顔で、凛とした背でエドガー・ラドクリフを庇うようにその場に立っていました。相対していた者達は、その気迫に押されたように去っていきます。
それを見届け、エドガー・ラドクリフを振り返ったクローディア様は、まるで子どものように滂沱の涙を流していました。
私は、柱の陰に隠れて様子を窺いながら、何故かその場に出ていく事が出来ませんでした。場違いであると、心のどこかで気付いていたのでしょう。
『貴方が、泣かないからです』
どうして泣くのか、というエドガー・ラドクリフの言葉に、クローディア様は切なげに応えました。しゃくり上げながら、苦しげに。
私は、それに戸惑うエドガー・ラドクリフに驚きました。無表情ながら、彼からクローディア様を気遣う言葉や、慌てる様子が伝わって来たからです。随分想像とは違っていました。
そして、続けられた言葉は、
『実の両親も常々私を恐ろしい、気持ち悪いと言っておりました。つまり、彼らの言葉は単なる事実なのです。むしろ、そのように感じている私に話しかけるのですから、いやはや、彼らの心の広さには感服致します』
私は思わずずっこけそうになりました。それは、優しさではありません。嫌味だろうとは思うのに、その声音には心からの感心が籠っているように聞こえてなりません。いえ、そんなまさか。もしそうだとすれば、どれほど鈍いのか。
そんな言葉で安心できるはずもなく、案の定、クローディア様は俯いて更に深い悲しみに陥ってしまったようでした。
エドガー・ラドクリフは、途方に暮れた様子でした。私は、どこか呆れたような心地にもなりました。一体、彼のどこが無表情で冷徹なのか。表情が動かないだけで、こんなに情けない顔をする男もそうそういない事でしょう。
困り果てた様子のエドガー・ラドクリフは、何も無い所から花冠を出し、それをクローディア様の頭の上に載せました。こんなに可愛らしい魔術の使い方を、初めて見ました。普段、その力は敵を薙ぎ払う為に使われると、もっぱらの噂ですのに。
『どうか、これで泣きやんで下さい。私は、貴女に泣かれてしまうとどうすれば良いのか分からなくなってしまうのです』
それは、クローディア様の御心を揺らすに十分だったのでしょう。クローディア様は目を見開き、瞳を震わせ、エドガー・ラドクリフに手を伸ばしました。彼の頭を、まるで小さな子どもを抱くように抱え込み、どうしようもない想いを吐き出すように泣いていました。
私は、足音を立てないようにその場を去りました。
人を噂や見た目で判断した事を恥じて、主の気持ちも考えずに行動した事を反省しました。同時に、正しくその人物を見る事が出来る主に、更なる尊敬を抱きました。私がすべき事は、がむしゃらにクローディア様を守ろうとするのではなく、信じてその御心を支える事だったのでしょう。ようやく、上司の言葉の意味が分かりました。
クローディア様の幸福がそれならば、私は永遠に続く事を願います。
それなのに。
「シェーラ、泣かないで下さい」
「泣いて、おりません」
泣きそうな顔をしている自覚はありました。それでも侍女の矜持として、なんとか主の前で在るからと堪えているのに、クローディア様は穏やかに微笑んでそう言うのです。
先程、クローディア様から婚礼が決まったというお話を窺いました。まだお相手も、日取りも知らされてはいないそうです。けれど、婚礼の決定はそれだけで絶望的でした。
クローディア様は、エドガー・ラドクリフに恋をしているのです。
おそらく、初めから分かっていたのでしょう。叶わぬ恋であると。クローディア様はこの国の王女様で、エドガー・ラドクリフはただの魔術師でしかないのです。釣り合いがとれぬ事など明白でした。
それでも、止められない恋、だったのでしょう。
私がクローディア様にお仕えするようになって、早四年が経ちました。私はその間、ずっとお二人を見て来たのです。
戦場に赴くエドガー・ラドクリフを、クローディア様は涙を堪えて見送りました。彼の無事を祈り、眠れない日々を過ごしました。怪我をしていれば心配して、無傷であれば安堵して泣いておられました。どこにでもいる少女のように、寂しがって悲しんで、嫉妬して恥ずかしがって、幸せそうに微笑んで。
けれどもう、それも全て終わりを迎えるのです。
「クローディア様」
「何ですか、シェーラ」
「泣いて下さい」
クローディア様は一瞬だけ瞳を揺らしましたが、すぐにそれを押し込めるように笑顔へと変えられました。強い人。強くて哀しいお方。
だから貴女に、幸せになって欲しかったのです。
エドガー・ラドクリフがクローディア様を攫って姿を消したのだと分かったとき、私はそのまま誰も知らない世界の果てで、お二人が心穏やかに過ごす事を願いました。私は王女様ではなく、一人の女の子の幸福を願っていたのです。
だから、昼過ぎに見付けたお手紙を陛下にお届けした際、告げられた真実に開いた口が塞がりませんでした。
「クローディアは、エドガー・ラドクリフに嫁がせるつもりだったのだ」
陛下の前でへたり込んでしまった私を、一体誰が責められるでしょう。私は、この命を懸けてお二人の自由を懇願するつもりだったのです。オズワルドに支えられながら、私は目の前が真っ暗になりました。
私とクローディア様の悲しみは、クローディア様の悲壮な決意は、一体何の為に行われたのでしょう。お二人は今、一体何から逃げているのか。
呆然としている内に、お二人の捜索隊が組まれる事になったようです。三日で戻るとは記されておりますが、悠長にそれを待つ訳には行かないのでしょう。
私は、妙に嬉々とした様子のオズワルドを出発前に呼びとめました。捜索隊のはずが、まるで戦争にでも赴きそうな程立派な装備であるのは、どういう事でしょうか。剣を磨いては凶悪に笑っていた事も気に掛かります。
「当てはあるの?」
「ダグラス様に御心当たりがあるらしい。それも正確な場所までは分からんらしいから、しらみつぶしにはなるがな」
おそらく、私が不安そうな顔をしていたのでしょう。大変珍しく、オズワルドが穏やかな調子で微笑み、私の頭を撫でました。
「安心しろ。必ず、この俺が、一番に、見付けてやる」
ぞくり。何故でしょう。妙に力の入った口調に悪寒がしました。普段、性格の悪さが滲み出るような笑い方しかしないオズワルドが、貴重な微笑みを浮かべているのに。
私は不安を増長させながらも、その正体を明確に掴めないまま捜索隊の一行を見送りました。私は堪らず願います。
クローディア様、どうかご無事で、と。
読んでいただきありがとうございました。
エドガーの評判の悪さは、尋常じゃないレベルです。本人にも責任はあります。
クローディアは見えない護衛と、ふらりと姿を消す時は大抵エドガーと合流しているので安心、と特別探されない。一人になりたいときくらいある、と他の侍女たちは見送っている。
シェーラ:思ったより猪突猛進になりました。まあ、十四歳という若さだったので。今はむしろ落ち着いている。というか枯れている。結婚願望が根絶しており、生涯クローディアに仕えたいと考えている。オズワルドには気に掛けられている。エドガーの残念さには薄々感づいている。そして他の誰よりもドン引きしている。でも、それでクローディアが幸せなら良い、と思う。気が強い。