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ある伯爵の生涯




俺は元々、エドガー・ラドクリフが嫌いであった。

理由は実に単純明快。彼が『彼女』の嫌う平民だったからだ。また、『彼女』の計画を阻んだ憎き仇でもある。


女に左右されるのか、と好きなだけ罵れば良い。甘んじて受け入れよう。何故なら事実だからだ。俺の心は、思考は、一挙手一投足は、全て『彼女』に因って決定する。

しかし、残念ながらそれは彼女が望んでの事では無い。この心を『彼女』に捧げると誓ったあの幼い日に、自らでそう決めたのだ。


俺の全ては『彼女』の為に。


何て幸せな、何て愚かな決意。『彼女』はけしてこの手に入らないのに。けして、手の届かない御方であるのに。

それでも、愛していた。例えこの心が、どんなにか身の程知らずで傲慢なものであったとしても、隠しようのない心で俺は、『彼女』を愛している。


「いやぁ、数々の令嬢を虜にしているハロルドの本命が、まさかあの母上とは誰も想像だにしないだろうね」


唯一俺の心の在り処を知るクリス様が、嘲笑交じりに口にする。彼は『彼女』と確執がある為に、いつだって『彼女』の話をするとこの調子だった。おそらく、より近しい間柄であるからこそ、確執も顕著なものとなるのだろう。

そう、俺が愛しているのはクリス様のお母上、王妃様であった。









王妃―――アビゲイル様に対する世間の評価は往々にして酷い。

王妃として、貴族として文句のつけようのない完璧な振る舞いに対し、情が無い、氷のよう、側妃であるラナ様とは大違いである、と口々に囁き合う。彼女自身もそれを助長させるように、高貴な身分であるという事を殊更示していた。


けれど、皆は知らないのだ。あの、美しい人が、どこまでも気高い人が、一人の人間であるという事を。喜怒哀楽を持ち、その上で王妃としてあるべき姿であるその覚悟を。

俺が初めてアビゲイル様に出逢ったとき、彼女は泣いていた。


五歳のとき、初めて訪れた王城で俺は迷子になっていた。父は知り合いと立ち話をしており、つまらなくなってしまった幼い俺は、ふらふらとその場を離れてしまったのだ。

庭園の奥へ、奥へ。我が国の王城は裏手からの敵の侵入を防ぐために、城の中に森がある。人工的な森の、その片隅だった。誰も目を向けないような日陰の場所に彼女はいた。


この国で最も高貴な女性である、アビゲイル様が纏うに相応しい豪奢なドレスが、その森にいやに不似合いだった。木を背に立ち、その極上の絹糸のような白金の髪を風に遊ばれ、白磁の頬は滑らかだが血色が無く、伏せられた瞼の長い睫毛の間から、涙が零れ落ちた。空に向かって顔を上げており、その頬を伝う事なく、涙は目じりに向かって流れて行く。頬を離れてはらはらと舞う涙が、彼女の肩に落ちる姿がひどく幻想的だった事を、よく覚えている。


幼いながらに、俺は息を呑んでその様子に魅入った。あまりに美しく、同時に氷を張った水面のような緊張感があった。今にも壊れてしまいそうな、残酷な美しさ。


俺は当時、彼女が誰であるかなど知らなかった。何せ、城に訪れたのはこの日が初めてで、俺は国王陛下の顔すらこの日初めて知ったのだ。

だから、今泣いているその人に、不躾にも目が離せなかった。アビゲイル様は俺に気付き目を開けると、ふと振り返る。


『何を見ているの。無礼者』


その、迷いの無い心根を示すような眉の形、薄く引き結ばれた唇に相応しい冷たい声だった。色の薄い青い瞳は、空ではなく氷の色だと思った。

俺は氷像のように美しかった彼女が動いた事に驚いて、同時に彼女は涙を流す人間だったのだと理解した。すると、泣いていたのはきっと哀しい事があったのだろうと思った。


俺は、年の離れた姉に可愛がられて育った。その姉に、繰り返し教えられていたのだ。泣いている女の子がいたら優しく出来る人になってね、と。

だから俺は、忠実に姉の教えを実行した。目の前の女性を慰めなければならない、と妙な使命感に駆られて周囲を見渡し、やがて目に付いた一輪の花を引っこ抜いた。


確か、豪奢では無いが明るい花だったと思う。普段アビゲイル様が目にする事のないような、些細な花だった。

それを差し出した俺に、アビゲイル様はすっと目を細めた。何かを見定めるように、俺を探ろうとするように。膠着状態が続き、冷や汗を流し始めた頃、優雅な足取りでこちらに近付いてきた彼女はわずかに身を屈め、その花を手に取った。


『せっかくなので、貰っておくわ』


アビゲイル様は引き抜いたばかりで土に汚れたその花を受け取り、ふと微笑んだのだ。まるで、零すように。その微笑みは気を抜いた自身を戒めるように、次の瞬間には消えてしまった。


けれど、俺は確かに見た。あの静謐なアビゲイル様が見せた、一瞬の微笑。温かい、心ある人間だからこそ浮かべる事の出来る、優しい瞳。そして、顔を歪める事も無く、目を伏せるだけでただ流れ落ちる涙を。


俺は、そのとき恋に落ちた。誰が否定しようと、例え一生叶う事のないものだとしても、俺はおこがましくもあの御方への愛に、生涯を捧げると決めた。









それから、俺はあの御方だけを目指して走り続けた。

あの御方が王妃であられるアビゲイル様であると知り、打ちひしがれた事も一度や二度ではない。若い頃には、何とか忘れる事が出来ないものかと苦悩した事もあった。けれど、あの出逢い以降、俺の心にはいつもアビゲイル様がいた。今の俺を作っているのはアビゲイル様なのだ、と気付いたとき、俺はこの恋に殉ずる覚悟を決めた。


幼い頃より俺は、アビゲイル様に相応しくあるようにと勤勉に生活した。彼女を守れるようにと剣を振るった。生まれだけは変えられないからと、せめて貴族の男としてあるべき紳士を目指した。

彼女の為に生きたかった。けれど、それを許される立場にはけして辿りつけない。それならばせめて、彼女の為に死にたいとさえ思う。彼女を何かの理由にする事すら、許されないと理解しながらも。


「見た?君へ向ける、あの虫けらを見るような目。それでも好きだなんて言うのかい?」


そう、嫌悪も露わに口にするのはクリスティアン王子殿下、アビゲイル様のただ一人のご子息である。しかし、その彼はアビゲイル様の素晴らしさを一切理解してくれない。

あの後、アビゲイル様とは何度か目が合った事もあるのだが、その都度冷たく目を逸らされた。今では、俺も幼い頃の面影が無くなってしまい、彼女には覚えてもらえてもいない事だろう。


「私は伯爵位こそ戴いておりますが、それでもあの御方にすれば十分に虫けらでしょう」

「うわぁ、実に気持ち悪い。君を見ていると愛とは病気なのだとしみじみ思うよ」


クリス様は、普段の飄々とした様子もかなぐり捨てて、自身の両腕を擦る。まるで寒気でも感じたような仕草だった。

思えば、こうしてクリス様の御許に呼ばれるようになったのも、彼女が切っ掛けだった。俺が一時期騎士として王城へ出仕していた頃、突然彼の自室に呼び出された。そこで笑顔で問い詰められたのだ。誰にも悟られないように、と潜ませていた俺の視線は、人一倍他者の意識に敏感なクリス様にあっさりと見破られてしまった。


「とんだ被虐主義だよね。君に懸想するご令嬢たちの悲鳴が聞こえてくるようだよ」


随分な言いようである。かつて、アビゲイル様に従順で、国王陛下となるべくひた向きに努力していたクリス様だが、どうやらあの忌まわしい魔術師によって悪い方に開き直ってしまい、以来彼女とは犬猿の仲となっている。アビゲイル様自身も、より周囲に対して頑なになってしまったようだ。


「私に虐げられる趣味はございませんが」

「嘘を吐くんじゃないよ。もしそうなら、何かしらの理由を付けて僕の呼び出しから逃げるだろう」


その言葉に、俺に対する嫌がらせとしか思えないあれやこれらは意識的に行われていた、という哀しい真実が判明した。


「まあ、逃げられるものなら逃げたいのですが…」


俺はクリス様に改めて視線を向け、そのお姿をしげしげと眺める。

クリス様は、男性でありながら中性的で繊細な顔立ちをしていた。白金色の髪を伸ばせば、男装の麗人といった様相となるだろう。魔術研究に没頭するあまり部屋に籠りきりの肌は白くきめ細やかで、手足もしなやか。加えて、水色の瞳が神秘的である。


クリス様はアビゲイル様によく似ていた。その黙っていれば怜悧な面立ちも、排他的な視線も。時折見せる氷のような無表情は、まさしく生き映しだった。陛下の面影などまるで見えない。だからこそ、俺は彼のそばにいても必要以上に胸が痛む事はなかった。


「………ああ、そうか。この容姿だからね」


クリス様は俺の言わんとする事に気付いたのだろう。恐ろしく冷たい無表情となった。その怜悧な容姿でそんな表情をされると空恐ろしささえあったが、よりアビゲイル様の面影を感じさせる。そう言えば、更にクリス様の機嫌が下降する事は明白なので口にはしないが。


そう、アビゲイル様によく似たクリス様に『お願い』をされれば、それがお願いの皮を被った理不尽な要求であったとしても、無碍にできなかった。クリス様もそれを自覚して俺を顎で使っているのである。


「本当に君は可哀想な奴だね、ハロルド」


まるで心からの憐れみを込めるようにクリス様は囁く。流石に、声はアビゲイル様と比べてずっと低い男性のものだが、不思議と彼の言葉は胸の奥に静かに降り積もる。

俺は、自分を可哀想などと思えない。心から人を愛し、生涯を捧げる事はある種の幸せである。俺の愛はけして報われないが、アビゲイル様を愛する事こそが、俺の幸福なのだ。

そして、クリス様の嘲弄を込めた嘯きは、瞬きの間に立ち消える。


「でも僕には関係ないよね。という訳で今度はラドクリフ家への届け物を頼まれてもらおうか」


クリス様はいつも通りの意地の悪さを微笑で隠してしまうと、あの無自覚な敵意を向けて来る魔術師の本拠地へ向かう事を要求してきた。


俺の思いなど、全てを理解した上で利用する事に躊躇いの無いクリス様にだけは、アビゲイル様も性格に関して言われたくない事だろう。











読んでいただいてありがとうございます。

正妃は寒気がするような美女。側妃ラナは肝っ玉女子。そしてそこに挟まれる良心的で苦労症陛下。それを愛と嫉妬と憎しみに彩られながら見つめているのがハロルド。


初めは同じ年頃の公爵令嬢とか、切ない系恋物語のはずが、何故こうなった。そもそも初期は私の脳内で普通にスマートな人でした。

クリスはもやしっ子。面白い事でも無ければ、魔術関連の資料に埋もれている。母親に対して憎しみにも近い感情がある。父親には無関心。



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