婚約破棄された夜、世界が変わった
「エリア・フォン・ベルナーデ。本日をもって、貴様との婚約を解消する」
夜会の中央で、婚約者のルドルフ殿下がそう宣言した。
周囲の視線が一斉に私へ集まる。数百人の貴族が固唾を呑んでいた。
加護が一度も反応しないまま、二十年が過ぎていた。この国では加護は力そのものだ。魔獣が跋扈し、瘴気が大地を侵すこの世界で、加護なき者は守られる側に立つしかない。父も母も責めはしなかったが、視線の温度はずっと低かった。婚約が続いていたのも、私への期待ではなく侯爵家の格のためだと、子供の頃から知っていた。
「加護を持たぬ者に、王太子妃の座は相応しくない。それだけだ」
隣に立つ公爵令嬢のセレナが、扇で口元を隠しながら言った。「エリア様ったら可哀想に。二十年も待って、とうとう加護が出なかったなんて」
くすくすと笑い声が広がる。
べつに、いい。今さら傷つく気力もなかった。
「婚約解消、承りました」
静かに礼をした、その瞬間だった。
セレナの背後で、彼女の炎が黒く染まった。瘴気に侵食された禍々しい黒炎が天井へ這い上がり、シャンデリアを飲み込んでいく。招待客が出口へ殺到し、悲鳴と怒号が重なり合った。
私の足は、なぜか動かなかった。
「大丈夫か」
誰かが私の肩を引き寄せた。振り返ると、見知らぬ青年が私を庇うように立っている。
「俺はライナー・フォン・アルゲント。王弟だ。今は動くな」
遠征続きで王都にほとんど顔を出さない、魔獣討伐の最前線に立ち続ける武人として名高い方だ。
「あなたは怖くないのですか」
「怖い。でも、あなたを置いて逃げる気にはなれなかった」
その一言が、胸の奥に落ちた。
次の瞬間、手のひらが温かくなった。淡い金色の光が私たちを包み、黒炎に触れるたびに瘴気を溶かしていく。ぱちん、ぱちん、と弾ける音が連続して、やがて会場全体が柔らかな光に満たされた。
黒炎が、消えた。
「〈愛の加護〉だ」
ライナー殿下が静かに言った。「真に誰かを想う心に応えて発現する、希少な上位加護。愛されるほどに力を増し、あらゆる瘴気を祓う。大陸でも伝説とされている」
「私が……?」
「あなたが、その加護の持ち主だ」
会場がざわめいた。先ほどまで笑っていた貴族たちが、次々と顔色を変えていく。
ルドルフ殿下が青ざめて歩み寄ってきた。「エリア、待ってくれ。婚約のことは——」
「結構です。殿下は私ではなく、加護に用がなかっただけです」
それだけ言って、背を向けた。
後日、セレナの持ち物から瘴気石が見つかった。私の加護を封じようとして、逆に自分の炎を暴走させたのだという。ルドルフ殿下も監督責任を問われ、次期国王の座から一時外されることになったと聞いた。
かつて私を蔑んでいた人々の末路より、あの夜、私を庇ってくれた人のことを、私はずっと考えていた。
◇
ライナー殿下から書状が届いたのは、三日後だった。
「王弟直属の加護使いとして、共に活動していただけないか」
簡潔な文面だった。条件も説明も最小限で、しかし誠実さだけが滲んでいた。
私は即日、承諾の返事を書いた。
東の砦へ移ってからの日々は、慌ただしかった。瘴気溜まりの浄化、魔獣に侵された村の救援、国境沿いの結界強化。毎日のように現場へ赴き、加護を使い続けた。
愛されるほどに力が増す、というのは本当だった。
ライナー殿下が隣にいるだけで、加護の出力が跳ね上がる。それが照れくさくて、最初は殿下の顔をまともに見られなかった。
ひと月が経つ頃には、村一つを覆う瘴気を単独で祓えるようになっていた。
噂はあっという間に広まった。
「東の砦に、〈愛の加護〉持ちがいる」「あの無能令嬢が、まさか」
かつて私を哀れんでいた貴族たちが、今度は媚びるような笑顔を向けてくる。父も母も手紙を寄越してきたが、返事は書かなかった。今さら、だった。
「無理をするな」
砦に戻るたび、ライナー殿下は決まってそう言った。労いでも命令でもなく、ただ心配しているだけの声だった。
ある夜、執務室で報告書を仕上げていると、殿下が入ってきた。
「あなたが来てから、東の領民の被害が半分以下になった。礼を言いたかった」
「お役に立てているなら十分です」
「……自分のために生きることを、あなたはしないのか」
思いがけない問いだった。
加護のために必要とされることに、いつの間にか慣れていた。それで十分だと思っていた。けれど今、目の前のこの人は、加護ではなく私自身に問いかけている。
「……まだ、わかりません」
「そうか。ならゆっくり考えればいい。俺はどこにも行かない」
その夜、私は久しぶりに、加護のことではないことを考えながら眠った。
◇
転機は、半年後に訪れた。
王都から早馬が来た。北の山脈に魔王が現れた、という報せだった。
「大陸全土の瘴気を束ねて動く存在だ。通常の加護では祓えない」
王家の使者がそう告げた瞬間、会議室の全員が私を見た。
〈愛の加護〉ならば、あるいは——という視線だった。
「行きます」
私が言うより先に、ライナー殿下が立ち上がっていた。
「俺も行く。エリアを一人にはしない」
北の山脈は、瘴気で空が黒く染まっていた。魔王は山頂に君臨し、その周囲には無数の魔獣が群れをなしていた。討伐隊の加護使いたちが次々と弾き飛ばされていく。
「エリア」
ライナー殿下が、私の手を握った。
その瞬間、加護が弾けた。
これまでとは比べものにならない光が、私の全身から溢れ出した。愛されるほどに力を増す加護が、今この瞬間、最大まで高まっていた。
光は魔王を包み、瘴気を一枚一枚剥がしていく。魔王が断末魔の叫びを上げ、やがて黒い霧となって消えた。
山頂が、静寂に包まれた。
「……終わった」
私が呟くと、ライナー殿下が静かに言った。
「エリア。俺と結婚してくれ」
唐突だった。あまりにも唐突で、思わず笑ってしまった。
「今ですか。場所を選んでください」
「選んでいたら、また言い損ねる」
まっすぐな目だった。迷いが一つもない目だった。
「……はい」
結婚の儀は、春の王都で執り行われた。かつて婚約破棄された夜会と同じ会場で、今度は誰もが祝福の拍手を送っていた。ルドルフ殿下は末席で青い顔をしていたが、もう関係なかった。
誓いの言葉を交わす瞬間、金色の光がふわりと二人を包んだ。
婚約破棄されたあの夜から、私の人生は確かに変わった。加護のためでも、家のためでもなく、初めて自分のために生きていいのだと、今はそう思っている。
完




