第6章 未来の婚約者はお姫様
「5月の十二支会議には、シリウス様の婚約者もいらっしゃいますのよ。」
朝の支度中、メイドの何気ない一言が私に刺さった。
「シリウス…様には、婚約者がいるんですか?」
平静を装って質問を返す。
「ええ。正確には、2年後、シリウス様が15歳になられたときに、正式に婚約する『婚約予定者』です。竜族のマリア様。」
メイドはこの手の話が好きらしく、嬉しそうに話を続ける。
「今、神竜の国リントヴルムのフレドリック王は、マリア様の双子のお兄様ですから、まさにお姫様ですわね。」
「マリア様は……今おいくつですか?」
「シリウス様よりも一つ下の12歳だったかと……本当に愛らしくて、天使のような方ですのよ。」
喋りながらも、メイドは全く仕事の手を止めずにてきぱきと動いている。
私は胸のあたりに、冷たい鉛の塊が食い込むのを感じた。
「婚約の予定が決まったのはいつですか?」
「確か3年くらい前ですわ。そのきっかけが…」
ここぞとばかりに、メイドは意気込んで喋り始める。
「マリア様の一目ぼれなんですのよ!」
「一目ぼれ?」
「ええ。シリウス様はそれはそれはお美しいですもの。頭脳明晰で、お強くて、気高くて…」
悲惨な経験を経ても、気品を失わず、大王としての歩みを止めないシリウスの背中が目の前に浮かんだ。
「最初こそ、一過性の子供の熱と思われていたのですが、ずっとシリウス様のことを想い続けるお姿に、とうとう婚約に…というお話なのです。物語のようでしょう?」
メイドはすっかりいい気持ちになっている。
私は、なるべく本心であるように「本当ですね。」と答えて、部屋を出た。
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その後はどうも調子が出ない。
朝食の時は、シリウスに対して、久々に猫族の憎悪と食欲が溢れかえって、多少暴れてしまい、パンをかじった程度で退室せざるを得なくなった。
勉学の時間もイライラし通しで、結局、もう一本鎮静薬を打つ羽目になった。
おかげで激しい睡魔に襲われ、高名な教授の前で、いびきと恥をかいた。
ようやくランチタイムがきて、私は逃げるように大神殿の庭園に飛び出した。
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昨日の大雪で、庭園は深い雪に埋もれている。
静かで趣深いこの景色も今は役に立たず、私は滑らかに積もっている部分を目掛けて、
えい!えい!馬鹿!馬鹿!と、ズボリズボリ足跡をつけた。
「リヒトさん、大丈夫ですか?」
ハッと振り向くと、シリウスが立っていた。
「誰かに、何かされたのですか?」
シリウスは、私がつけた雪の足跡にチラリと目をやる。
「別に何もない……何か用事?」
理不尽な私の苛立ちを気に留める風もなく、シリウスは手に持っていたものを差し出した。
「ランチボックスです。持たずにここに来たでしょう。貴女は朝食もろくに食べていない。どうぞ。」
「大王様が、メイドみたいなことをするな。」
「僕の分もあります。貴女と食べようと思って。」
「大王様が、危険なことをするな。」
「貴女は少し前に、今日2本目の鎮静薬を打ったから大丈夫でしょう。」
「ここは寒い。」
「では、部屋に戻って、一緒に食べましょう。」
シリウスの静かで穏やかな返答に、言いようもない苛立ちが湧いてくる。
自分が惨めでたまらない。
「君は、私なんかと食べる必要ないじゃないか…」
「リヒトさん、今朝から具合が悪そうです。」
「君といると具合が悪いのは、いつもじゃないか!」
私はシリウスを見ていることが耐えられずに、背中を向けた。
「リヒトさん…」
シリウスは諦めずに呼び掛けてくれる。
「僕が、貴女に何かしてしまったでしょうか。」
私の脳裏に、美しいドレスに身を包んだお姫様と、その手を優しく取るシリウス、笑顔で祝う人々のまぶしい光景がサアッと広がった。
その瞬間、私は、シリウスに叫んでいた。
「私が猫族だ!猫族なければ……大王で、無敵で、強くて、頭もよくて…
きれいなお姫様の婚約者までいる君とは、本当は会うことなんてない!!!」
シリウスは表情を動かさず「婚約者…?」とつぶやいたが、私はその後をつがせなかった。
「猫族でなければ、私なんかゴミだ!
今頃、大学の窓際で、人に笑われて生きるゴミに過ぎないんだ!」
私は、私自身の言葉で自分を傷つけながら、言葉を加速させた。
「君には分からないんだ!惨めに生きる私が、もっと惨めになるこの気持ちが!
君には感情がないんだから…」
言ってしまって、私は言葉を失った。
最も言ってはいけない言葉を言った。
しかし、私には、シリウスに謝るどころか、彼を見る勇気もなかった。
「大学の休暇は後三日で終わる。もう、君の前から消えるから…」
私は、シリウスから目を逸らし、飛ぶようにその場を去った。
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夕食は欠席した。どうしても、シリウスに会う勇気が出ない。
シリウスには何の罪もないのに、身勝手で感情的な言葉で、私は彼の心を傷つけた。
どうやって謝ればいいかも分からない。
シリウスは今、何を考えているんだろう…。
夜遅くまで消えないシリウスの部屋の明かりを見ながら、私はほとんど一睡もしなかった。
しかし、夜が明けると、謝る覚悟が決まった。
まずは、シリウスに会って、「ごめんなさい。」を言うのだ。
それから、「感情がない」ことは何も悪くないと伝えて…それから…
しかし、朝食にシリウスは現れなかった。
珍しく、高熱を出して寝込んでいるという。
「昨日の午後は夕方まで予定がなかったのですが…ずっと、雪が積もっている庭園にいらっしゃったようで…」
「まあ、どうなさったんでしょう。それでお風邪を召したのね。」
ロベルト様とステファニー様の会話が、目の前を滑っていく。
ロベルト様はちらりと私を見て心配そうに声を掛けた。
「おや、リヒトさん。食が進みませんね。」
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次の日も、その次の日も、シリウスは自室から出てこなかった。
必要な執務は自室で行っているようで、公務上はそれほど大きな問題は生じていない。
でも、会わない時間が長くなるほど、謝罪の言葉は行き場を失う。
そして、明日は、大学の休暇の最終日……この再生計画期間が終わる日。
もう、謝罪の機会すらなくなってしまうのだ。
夜、私は、月明かりの中で、手紙を書いた。
”貴方は何も悪くない。
全部私が悪いのです。
本当にごめんなさい。”
一文字一文字、心を込めて書いた手紙を渡そうと、そっとシリウスの部屋に近づいた。
しかし、執務を続けようとするシリウスに対し、必死に休ませようとする人々の声を聞くと、
手紙を握りしめ、ただ黙って立ち去るほかなかった。




