第5章 忘れない、人生の最後のページを開く瞬間も
湿った、薄暗くて、薄汚い洞穴。
6歳の僕は、鎖に繋がれていて、口には猿ぐつわが固く巻き付けられている。
誘拐されてから382日と11時間8分だ。
僕はまだ神通力を使いこなせていない。
身動き取れず、口を塞がれていれば、何もできないただの子供だ。
「毎度のことだが、ゴテスベルク…神の山を開放するか?」
ランタンの光が顔に寄せられ、取り囲んだ大人の一人が私の髪を引き掴む。
僕が反応しないと「強情な大王様だ。」と唾を吐き、床に叩きつけて蹴り回す。
「さて、【確認】も終わった…」
粘着くような卑猥な声が響く。
「今日も楽しみましょう、大王様?」
「お綺麗な大王様もお待ちかねでしょう。」
「死なせるな。順番を回せよ?」
幾つもの、黒いおぞましい手が、僕に伸びる。
神通力が使おうにも、助けを呼ぼうにも、声が出ない。
誰か…誰か…!!!
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…目を覚ますとベッドの上だった。
いつも見る、誘拐戦争の悪夢だ。
夢の中の僕は、恐怖と嫌悪で身悶えしているが、目を覚ました現実の僕は、もう何も感じない。
「またあの夢を見たな。」という事実を確認するだけだ。
起床するとすぐ、大王としての一日が始まる。
僕は、予定を確実にこなし、一日が過ぎる。この繰り返しだ。
喜びも哀しみも、楽しみも怒りもない。
生きる意味も、死ぬ意味も見い出せない。
しかし、僕がこの毎日を過ごす限り、少なくともツヴェルフェトは平安を保つ。
僕はツヴェルフェトの大王であり、平安を保つ責務がある。
僕はそれを理解している。
僕がこの理解を維持する限り…つまり、いつの日か僕が狂気に走らない限り、
僕は生きて、同じような毎日を過ごしていくだろう。
僕の人生が一冊の本だとすれば、「毎日」「毎日」、一枚一枚ページがめくられて「始まり」の方が分厚く重なっていき、「終わり」が近付いてくる。
僕の「毎日」には、それだけの意味しかなかった。
…リヒトさんが来るまでは。
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リヒトさんは、僕の「毎日」を一新した。
リヒトさんは猫族の生き残りで、十二支会議が決定した僕の感情の再生計画のために探し出された人だ。
この再生計画については、その意義も危険性も理解した上で僕も承諾していたし、大晦日の夜に、ツヴェルフェト大学に異質な光を見出したのも僕だ。
僕自身が、感情を取り戻したいと願っているわけではない。
僕にとってこの計画は、他の執務と横並びの、大王の役目の一つに過ぎなかった。
だから、猫族が発見されたとの報を得て、謁見室に向かったときも、全く何も感じていなかった。
でも、謁見室で初めて見たリヒトさんの、それほど僕と変わらない背丈、弱々しくて細い体。
想像していた猫族は、もっと獰猛で、貪欲で、敏捷さに溢れている人物だったし、そもそも女の子だと思っていなかったから、意表を突かれた。
しかし、次の瞬間、その女の子が、態度を急変させて僕を襲ってきたのだ。
大神殿の謁見室の高い天井に届くほど跳躍して、ピタリと僕を見据えて飛び掛かる姿は…
…極限的に美しかった。
今後何があっても、きっと死ぬまで、
この人生の最後のページを開く瞬間も、
あのときのリヒトさんの姿を忘れないと、僕は思う。
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その後、傷を治療している間も、リヒトさんが、僕の生死をひどく心配して、
僕が生きていると分かると泣き崩れたとか、
処刑の日まで僕の快癒を祈ると言っているとか、
意表を突かれることばかりが耳に入る。
猫族は、その人自体がどれほど人格者であっても、例外なく、
「神鼠を憎悪し、食べることを欲する」という属性に縛られるはず。
現に彼女だって、僕を見た瞬間に襲い掛かってきたではないか。
話によると、もともと重病のようだし、急に大神殿に連行されているのだし…
もっと泣いて、叫んで、混乱して、怯えてもよいのではないか?
あんなに…頼りなげで、危うそうな女性なのだ…
…気づけば僕は、侍従たちを振り切って、リヒトさんがいる部屋のドアを開けていた。
その時…久々の感情、「恐怖」を実感しながら触れた彼女の口元は、
溶けてしまいそうなほど柔らかくて、当初「恐怖」を確認するために触れたはずなのに、僕は…
…僕は、自制心が飛びそうなほど「ゾクゾク」してしまったのだ。
僕は、すぐに部屋を追い出されてしまったが、その後、リヒトさんは、再生計画への協力を承諾してくれた。
リヒトさんは、彼女が承諾することで、僕が「幸せになるか」どうかに、ひどくこだわったという。
どうしてそこにこだわるのか、僕にはよく分からない。
完全無欠の慈母の心を持つ人なのか、極端な変人なのか…この猫族の少女のことが全く分からない。
何も分からないけれど、僕はあの少女…
…襲い掛かる姿が美しくて、柔らかい唇を持つ、不可思議なリヒトさんに、囚われてしまったのだ。
永遠のように。
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そこからだ。僕の「毎日」が一新されたのは。
鎮静剤の効果があまり出なかった当初は、食事一つで大騒動。
理性が吹き飛んだリヒトさんが、テーブルクロスを力一杯引っ張って、皿もグラスも燭台も全て床に落としたときは、僕を守ろうとした衛兵の一人が水に滑って転ぶし、他の衛兵も巻き込まれてひっくり返るし、ステファニーは母親のごとき勢いでリヒトさんを叱り飛ばすし、ロベルトは死守したパンを妙に落ち着いて食べているしで、まるで喜劇を見ているかのよう。
猫族の力にいっそ感心してしまったものだ。
講義の時間。
リヒトさんはツヴェルフェト大学に入ったエクウスの俊才と聞いていたから、
色々と「前のめり」なのかと思ったらそうでもなく、
手を胸の前で組んで、目を輝かせて、先生と僕との質疑応答を聞いている。
その視線を少しでも長く浴びていたくて、思わず僕の方が「前のめり」になり、
気づけば未解決の問題を証明してしまったこともある。
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ある時…再生計画を知らない(当然、この計画は限られた人間しか知らない)事務官らが、
「リヒト嬢が来たのは、シリウス様が色気づいたからだ。」
「シリウス様は、朝から晩までリヒト嬢をそばに置き、執務に影響が出ている。」
というくだらない嘘八百を、もっともらしく話しているのを偶然聞いた。
でも、感情のない僕は、何も感じない。面倒だから、そのまま立ち去ろうとした。
しかし、その事務官たちの近くにリヒトさんがいたのだ。
「私、思ってたんです。どうして、「あの人たち」は、誰かを貶めないと満足できないんだろうって。」
彼女は、必死な様子で言葉を続ける。
「軽い世間話や冗談の皮をかぶって、シリウス…様を貶めるくらいなら…」
声の震えを隠すように言い切った。
「『リヒト嬢が色気づいて、朝から晩までシリウス様を追いかけています。』
…これでどうですか?
ただ…大王様の名誉にかけて、「執務に影響が出ている」の点だけは撤回を。」
気付かれないように執務室に戻ると、僕はドサリと椅子に腰を下ろし、額の刻印に手をやった。
本当に…不可思議な人だ。
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でも、鎮静剤の効果が薄れてくると…リヒトさんは、僕を憎々しそうに見て、乱暴なことを言う。
それが本能の為せる業ということをよく理解しているはずなのに、それが彼女の本心ではないかと思うこともある。
でも、リヒトさんの行動が「本能」か「本心」かなどと考えることに、何の意味があるだろう。
彼女は十二支からの依頼により、再生計画のために、僕と過ごしているだけ。
そう…計画が終われば、リヒトさんはここからいなくなるのだから。
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こんな風に、彼女の言動一つ一つで、僕の考え事は増え、行動も変わる。
「毎日」という一ページをめくることに、体温があるような気がするんだ。




