第14章 リヒトさんは、何も悪くない
あの日、ツヴェルフェト大学から二人で帰ったとき、僕は、リヒトさんを得たと思ったのだ。
彼女は、「大神殿に帰りたい」と言ってくれた。
僕のそばに戻って来てくれた。
泣きながら、僕に気持ちをさらけ出してくれた。
それが、震えるほど嬉しかった。
そして、その喜びを、僕は彼女に伝えたのだ。
「僕は嬉しいです……貴女と共に大神殿に帰ることが。」…と。
そうしたら、彼女は涙を流したのだ。
そして、僕に、顔と体を寄せてくれて、
僕も彼女に寄り添って…
夕暮れの一番星の下、これからは、ずっと二人で歩んでゆくと、僕は思ったんだ。
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それがどうだ。
それからのリヒトさんは、再生計画に妙に積極的で、自分でもあれこれと提案するようになった。
人間の感情を分析した表を作成して、今はコレコレが再生できた、次はドレソレが目標だ、などと言った時には心底…
…心底腹が立った。
その馬鹿げた表のうち、「喜」が「再生済」になっていることに至っては、最悪だ。
まさか、僕が、あの一番星の下で、共に帰れることが嬉しい、と言ったことで「表が埋まった」とでも?
僕は、リヒトさんを置いて席を立ってしまった。
彼女の落ち込む顔が目に浮かぶようだったが、とても耐えられなかった。
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この2ヶ月間、リヒトさんと僕は、一事が万事この調子。
リヒトさんは借りてきた猫のよう。
僕は反抗期の幼児のよう。
彼女の気が変わったのか?
どこかですれ違ったのか?
いや、あの一番星の下の僕の喜びは、そもそも勘違いだったのか?
リヒトさんに会うたび、彼女が懸命に再生計画を進めようとするたび、
僕の苛立ちは募っていった。
ロベルトとステファニーも、どうして彼女を止めないのか。
僕の苛立ちには気づいているはず…
…しかし、彼らの対応は当然だ。
再生計画を立てたのは十二支、
利用している猫族は協力的、
実際に僕の感情も再生され(この計画においては「苛立ち」もまた望ましい感情なのだ)ているのだから。
リヒトさんは間違っていない。
しかし、彼女に裏切られた気がする。
一緒にいると苛立って、
その一方で、絶対に手離さない。
夜な夜な夢に見るのに、
昼は目を合わすこともろくにできない。
明日から春の十二支会議が始まるという夜、
僕は、そっと一枚の手紙を取り出した。
”シリウスへ
貴方は何も悪くない。
全部私が悪いのです。
本当にごめんなさい。
リヒト”
ロベルトから、僕に会わないままリヒトさんが大学に戻ったと聞いてすぐ、
彼女の部屋に走り込んだときに見つけた、僕への、彼女からの手紙。
これを読んだ僕は、従僕も親衛隊も振り払って、
単騎、全力で、ツヴェルフェト大学に向かったのだ。
僕は手紙に手を当てた。
温かい気がする。
こんな優しい女性に、どうして僕は、全力で優しくできないのか。
どうして………
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次の日、各王たちへの挨拶のため、謁見の間に入ってきたリヒトさんを見て、
気恥ずかしい話だが、僕の胸は、高鳴るだけ高鳴った。
いつもは平民服を通しているリヒトさんが、控えめながらも、正装していたのだ。
なんて可愛いんだろう!
なんて可愛いんだろう!
各王の手前、平静を装っていたが、
僕は、ここ2ヶ月ほどの空白を埋めるかのように、穴が開くほど彼女を見つめた。
その後は、久しぶりに獣化したリヒトさんに襲われたり、
制服に身を包んで懸命に仕事をする、可愛いリヒトさんの姿を見られたりと、
久々に、「妙に頑張るリヒトさん」から解放され、会う時間は少ないのに、大いに満足していた。
リヒトさんが書記担当となる会議など、否応なく身が入るし、
職員室の近くを通るタイミングでは、聞こえるかもしれないと期待して、あえて大きい声で話してみたりと、
まったく大王らしからぬ行動をしていたと思う。
それに…リヒトさんたちが、朝の訓練場に「覗き」に来たとき。
ツムギとクロエは、神通力で周囲から自分たちを遮断していると思っていただろうが、
そういった類のものですら、神鼠の僕には通じない。
そのおかげで、僕は、風を受けて広がる「リヒトさん」を、
下から見上げる恩恵に与ったわけなのだ。
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園遊会が始まる。
思惑渦巻く社交の場は嫌いだ。でも、大王の役割だから仕方がない。
顔と名前と関係と人柄と要望と苦情と敵味方の別を、一人ひとり記憶し、変更について更新する作業だ。
「シリウス様」
フレドリックの隣でマリアが礼をする。
「お久しぶりです。お元気でしたか。」
と機械的に口にしたが、ふと、何か絶対に忘れてはいけないことを忘れている気がした。
記憶を司る神通力を持つ僕が、である。
続いて進み出たのは、フレドリックとマリアの両親。
「マリアは今日お会いできることを本当に楽しみにしていたのです。
いつも、シリウス様のお話ばかり。」
「礼儀作法、勉強、教養…本当に、親も驚くほど、毎日熱心なのです。」
「婚約の日までに、シリウス様に恥じない女性になる、と、まあ、それはもう一生懸命で。」
その瞬間、脳髄に槍が刺さったような衝撃を受けた。
…【婚約】…?
僕は初めて会った人を見るようにマリアを見た。
そうだった。2年後に、僕は、この人と「婚約」する「予定」なのだ。
………猫族なければ、大王で、無敵で、強くて、頭もよくて…きれいなお姫様の婚約者までいる君とは、本当は会うことなんてない!
………君には分からないんだ!惨めに生きる私が、もっと惨めになるこの気持ちが!
………もう君の前から消えるから…
リヒトさんの声が、泣きそうな彼女の表情と共に、竜巻のように僕の脳裏を駆け巡った。
その間もリュウザキ夫妻は満面の笑みだ。
「婚約してからですと、時間が少なくて、十分な王妃教育ができないですもの。ねえ?」
「お、お母様!まだ婚約もしていないのに、王妃などと…」
…【王妃】…?
つまり、数年後、僕は、マリアと結婚して、
「ずっと二人で歩んでゆく」ことを神に誓うのか?
そうだ。そうなんだ。
婚約は…たといそれが「予定」に過ぎないとしても、
子供の僕が、その意味を深く理解せずにいたとしても、
僕がマリアと結婚して共に歩むことを、周囲に確信させる力を持っているんだ。
僕の立っている地盤がグラグラと崩れ落ちた。
地獄の魔物に激しく肩を揺さぶられているようだ。
謝るべきなのは僕だ!
”貴女は何も悪くない。
全部僕が悪いのです。
本当にごめんなさい。”
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その時、回廊からこちらを見るリヒトさんが見えたのだ。
中座して、ほとんど走るように向かうと…
…リヒトさんは泣いていて、テオがそれを慰めていた。
そして、テオは彼女の手を取り、
彼女はテオと去っていった。
その二人の後ろ姿に、僕は声を掛けることもできなかった。




