表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

リトルジャイアント 世界ヘビー級王者 トミー・バーンズ(1881-1955)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/12/27

 『ハノーヴァーの小さな巨人』と呼ばれたトミー・バーンズは、身長一七〇センチ、体重八〇キロ前後のずんぐりむっくり型で、歴代ヘビー級王者の中では最も背が低い。しかもライトヘビー級リミットの七六キロでヘビー級の防衛戦に臨んだことがある。おそらくこれまで世界戦のリングに上がったヘビー級チャンピオンの中では最軽量記録であろう。

 これほどの小兵であってもバーンズは決して弱いチャンピオンではなかった。当時のヘビー級ボクサーとしては敏捷で、特に前後の動きが速く、ジャブとフェイントで相手の体勢を崩してから、低い体勢で相手の懐に飛び込みざま右ストレートで顎やテンプルを狙い打つのが実に巧みだった。そのせいかKO率も非常に高く、大男たちをバタバタなぎ倒すさまは、さながら一九八〇年代のマイク・タイソンのような痛快さがあった。

 巨漢の英国王者ガンナー・モイアーを敵地ロンドンで迎え撃った五度目の防衛戦では、自らの十ラウンドKO勝ちに四百ポンドを賭け、地元の賭け屋の胴元から見事賭け金をせしめている。


 フランス系カナダ人の家庭に育ったバーンズは十三人兄弟の十二番目で、本名はノア・ブルッソという。

 ボクシングを始めたのは十九歳からだが、元々はラクロスの名手として知られ、プロボクサーになってからも偽名でデトロイトのプロチームに所属していた。そのためフットワークは抜群で、ラストファイトを除いて誰一人彼にテンカウントを聞かせることは出来なかった。

 一九〇二年にミドル級でプロデビューを果たしたバーンズは、わずか一年でミシガン州ミドル級チャンピオンになったが、一九〇四年一月にデトロイトで対戦したベン・オグレディが試合後にパンチのダメージが原因で亡くなると、逃げるように町を去り、ミシガン州王座も捨てて本名のノア・ブルッソからエド・バーンズというリングネームに改名した(その後さらにトミー・バーンズと改名)。

 それまで十九勝二敗(十五KO)一引分と強打者ぶりを発揮していたバーンズが、ここから世界タイトルに挑戦するまで八勝二敗(六KO)六引分と精彩を欠いたのは、ヘビー級進出によるものだけではなく、オグレディを死に至らしめたことが一種のトラウマになっていたのかも知れない。

 世界タイトル獲得は一九〇六年(二月二十三日)、マービン・ハートをアウトボックスして二十ラウンド中、十八ラウンドを抑える圧勝だった。この試合の前まで主にミドル級で戦っていたバーンズは一対二という不利の予想を覆してタイトル奪取に成功したが、チャンピオンになってからもほとんどの試合で挑戦者有利の予想を立てられていた。

 にもかかわらず、現在もヘビー級史上第四位に相当する十一連続防衛の他、ヘビー級タイトルマッチ史上最短KO記録を二度(一ラウンド一分二十八秒)、ヘビー級タイ記録の八連続KO防衛(他にラリー・ホームズ)まで樹立しているのだ。

 平均的なカナダ人より小柄でありながら、ヘビー級相手にこれだけの実績を残しているのだから、さぞかし賭け屋泣かせだったに違いない。

 記録男のバーンズは、年間七度の防衛戦(一九〇八年)や世界戦の全てをアウェイで戦うなど一風変わった記録も多いが、特筆すべきは一日に二度の防衛戦を行い、いずれも一ラウンドKOで仕留めたことであろう。

 世界チャンピオンになってわずか一ヶ月後の一九〇六年三月二十八日、サンディエゴのナショナル・アスレティッククラブで行われた世界タイトル戦は一日に二度の防衛戦という前代未聞の企画だった。挑戦者はいずれも王者より大柄であったため、二人のうちどちらかがタイトルを奪うだろうという下馬評が飛び交う中、バーンズは立て続けにナックアウトで屠り、またしても予想を覆してみせた。

 ただし、今日ではこの試合は見世物的色合いが濃いことからエキジビションと見なす向きが多く、防衛回数には数えられていない。

 この試合を除いてもバーンズの世界戦の通算成績は十一勝一敗一引分(九KO)と歴代王者の中でも際立っている。これは世界戦を十度以上戦ったヘビー級ボクサーの中で最高勝率であると同時に、最高KO率でもあるのだ。

 またバーンズは、この時代には珍しく人種的偏見を持たないボクサーでもあった。

 とりわけヘビー級はボクシング界の頂点に立つ階級であるため、白人が君臨することが常識と見なされており、初代王者のサリヴァンからハートに至るまで王者は有色人種との防衛戦は徹底的に避けてきた。 

 ところがバーンズは、チャンピオンになる以前からいかなる人種とでも戦うことを公言し、実際にインディアンなどの有色人種との対戦もいとわなかった。タイトル獲得後も、ヘビー級初のユダヤ人挑戦者ジューイー・スミスとパリで対戦し、五ラウンドでKOしている。

 「最も優れたボクサーでなければタイトルなんていらない」と豪語していたバーンズは、ヘビー級で初めてカラーラインを破った勇気あるチャンピオンだったが、そのことが自らの優雅なチャンピオン生活を終わらせることにもなった。その運命の相手こそ“最強の黒人”ジャック・ジョンソンである。

 ジョンソンは楽勝できる相手をKOし損ねたり、マービン・ハートのような伏兵に敗れたりと、試合ムラも多かったが、本気でやると対戦相手がいなくなり収入が減ることを恐れていたという声もあるほど実力的には傑出していた。

 さすがのバーンズも、ジョンソンとやれば勝ち目がないことがわかっていたため、イギリス、フランス、アイルランド、オーストラリアと滞在先を変えることで対戦を避けていたが、ボクシングファンだった英国皇太子ジョージ五世(後に国王)から「潔く戦え」とせっつかれたうえ、プロモーターのヒュー・マッキントッシュから三万ドルという過去最高額のファイトマネーを提示されたことで、ついに腹をくくった。

 時に一九〇八年十二月二十六日、シドニーのラッシュカッターズ・ベイアリーナで歴史的一戦の幕が開いた。「ガルベストンの巨人」の異名を取るジョンソンの前では、「小さな巨人」バーンズはいかにも小さく、アメリカのある新聞記者は「巨人とピグミーの戦い」と比喩したほど、両者の体格差は歴然としていた。

 もちろん試合予想は、どうあがいてもバーンズには勝ち目がないというのが圧倒的だった。防衛戦に臨んだチャンピオンの方がこれほど過小評価されたのは、ブラドック対ルイス、バービック対タイソン戦くらいのものであろう。

 ましてやバーンズはしばらく風邪で体調を崩し、三ヶ月前のビル・ラングとの防衛戦より十五ポンドも軽い体重でリングに上がっていたため、スピードもパンチの切れもなく最悪のコンディションだった。

 一ラウンドからアッパーでダウンを奪ったジョンソンは、早くも勝利を確信したのか、以後のラウンドはバーンズを倒すことよりも痛めつけることに専心した。

 バーンズがグロッギーになると手を抜き、少し回復すると再び痛めつけるという繰り返しで、ボクシングの試合というよりもまるで公開私刑のような様相を呈してきた。しかも試合中にもかかわらず、にやにやと笑いながら小さなチャンピオンをからかい続けるのだからたまらない。

 大半が白人の観客席からは大ブーイングが浴びせられたが、ジョンソンはむしろ白人を苛立たせるのを楽しんでいるかのように見えた。結局、十四ラウンドにリングサイドの警官が見るに見かねて強制的に試合を中止するまで残酷なショーは続いたのである。

 「ポリスストップ」という官憲による強制終了で幕を閉じたこの試合の結果は、まだプロボクシングというスポーツが存在しない日本にも伝えられている。押川春浪が主宰する少年雑誌『冒険世界』明治四十二年二月号に「拳闘猛烈奇談」の見出しで二頁に渡ってこの試合の詳細が記されているが、前年末にオーストラリアで行われた試合が早くも紹介されているのには驚く。おそらく日本で世界タイトル戦をリアルタイムで報じた最初の例であろう。日本で本格的な拳闘雑誌が刊行される十年以上も前の話である。

 黒人がボクシング史上初めてヘビー級の頂点に立つというメモリアルファイトも、新チャンピオンのジョンソンがリングマナーの悪さを非難される一方、敗者バーンズも元王者のジェフリーズから「三万ドルと引き換えにプライドを売った」と散々にこきおろされる始末で、後味の悪さだけが目立った。

 しかしジョンソンの世界戦におけるパフォーマンスは、バーンズに対する憎しみからではなかった。黒人差別が厳しい時代にあって、ジョンソンは不当に虐げられている同胞の自尊心を鼓舞するために白人王者を見せしめにしただけのことであって、個人的にはむしろバーンズに敬意を表していた。

 タイトルを獲得した翌年、バンクーバーを訪れたジョンソンは聴衆の前で次のように述べている。

「バーンズは黒人に世界タイトルのチャンスを与えてくれた唯一の白人ヘビー級ボクサーとして賞賛されるべきだ。あなた方カナダ人の一人であるバーンズは、誰もやらなかったことをやったのだ。彼は敗れたが、勇敢だった」と。

 翌年、オーストラリアヘビー級チャンピオンとなったバーンズは、しばらくは同地に滞在したまま現役生活を続けていたが、第一次世界大戦が始まるとカナダに戻り、陸軍に入隊した。カナダ陸軍ではフィットネス・インストラクターを務めていたが、除隊後の再起戦でジョー・ベケット(英連邦ヘビー級王者)にポリスストップのジョンソン戦を除く生涯唯一のKO負けを喫し(七ラウンドKO負け)、引退した。この時すでに三十九歳になっていた。


 バーンズは現役時代からビジネスのセンスに長けていた。世界戦までの全てのマネージメントを自分で行ったばかりか、ロンドンでのラストファイトは自らがプロモートし、二万ドルという世界チャンピオン並みの利益を手にしているほどだ。この商才を生かして引退後はニューヨークでもぐり酒場を経営していたが、世界恐慌のあおりを受けて全財産を失ってしまい、晩年は保険の外交員や警備員をしながら糊口を凌ぐはめになった。

 生涯戦績47勝 4敗(35KO)8分

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ