揺らぎの正体
翌日、立花は教授室の椅子に浅く腰掛け、榊の操作するモニターを凝視していた。
画面には、昨夜の部屋で記録された数値が並んでいる。
「……正直に言うとだな」
榊はマウスを止め、立花の方を見た。
「君の部屋で起きていた現象は、“霊”なんて大層なものじゃない」
「……え?」
「もっと単純で、もっと厄介な──物理現象だ」
榊は立ち上がり、教授室の窓際に置かれた観葉植物を指した。
「風が吹けば、葉は揺れる。
揺れ方に規則がなくても、それは“意思”じゃない」
今度は、立花の手元にあるペンを軽く転がす。
「机が少し傾いていれば、ペンは勝手に動く。
これも幽霊じゃない」
榊はモニターに視線を戻した。
「君の部屋で起きていたのは、
極めて微弱な空間エネルギーの偏在だ」
「……エネルギー、ですか」
「そう。
本来は均等に散らばって、観測すらできないレベルの“揺らぎ”が、たまたま条件の良い空間で、溜まった」
榊は指を一本立てる。
「物が少ない。
構造が単純。
温度差も湿度差も小さい。
つまり、“散らばる理由がなかった”」
立花は、あの異様に整った部屋を思い出す。
「だから……動いた?」
「動いたし、整えた」
榊は淡々と言った。
「エネルギーは、安定を求める。
だから物を動かし、重心を揃え、
結果として“綺麗な部屋”を作った」
立花は、思わず苦笑した。
「……じゃあ、幽霊が掃除してくれたわけじゃないんですね」
「残念ながらな」
榊も小さく笑った。
「ただの科学的な運動だ。
意思も、感情も、恨みもない」
榊は椅子に腰を下ろし、穏やかな声で続ける。
「だから安心していい。
君の部屋は、もう“場”として落ち着いた。
住み続けて問題はない」
立花は、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりと抜けていくのを感じた。
「……僕、今回の一件で、世界が変わったような気がします」
榊は、その言葉に苦笑した。
「立花君、これくらいで世界が変わってしまっては困る。私から言わせれば、今回のケースは下の中だよ」
立花は、固まった。
「……今、“今回のケースは”って……?」
「ああ」
榊は、何でもないことのように言う。
立花は、その一音だけで胸の奥がざわついた。
否定も驚きも含まれていない。
まるで「今日は雨だな」と言うのと同じ調子だった。
榊はデータを保存し終えると、椅子の背に体を預け、指で机を軽く叩く。
そこには緊張の名残も、達成感もない。
ただ、一つの作業が終わった後の、研究者特有の区切りだけがあった。
「それじゃあ、先生は……」
「今までにもこんな事があったか?だって?」
榊は立花の言葉を先回りするように、静かに続けた。
「言っただろう。説明のつかない“データの歪み”に触れた経験は、研究者なら誰でも一度はある」
キーボードを叩きながら、付け加える。
「何なら、数週間前にも別の心霊現象に携わったよ」
立花は、言葉を失った。
幽霊。
心霊現象。
テレビの中だけの話だと思っていたものが、
研究室の“日常業務”として存在している。
「……こんなに、世の中に出回ってるんですか」
榊は、肩をすくめた。
「出回っているんじゃない。見えていなかっただけだ」
その言葉を聞きながら、立花は思った。
世界は変わっていない。
ただ、自分の見ている範囲が──
少し、広がってしまっただけなのだと。
「もう一つ、いいですか?」
立花は照れ臭そうに笑いながら尋ねた。
「何だ?」
「どうして、僕が体調不良や飲み過ぎで欠席したのではないと?」
「あれはもっと単純な理由だ。科学でも何でもない。ただの観察眼さ」
榊は笑いながら答えた。
「まず、体調不良にしては特有の目の隈がなく、肌荒れもしていなかった。したがってこれは嘘。そして飲み過ぎだと答えた時、君は一瞬考えてから答えた。しかも、“これでいいか”を確かめるような間だった」
立花は、視線を逸らしてから、ゆっくりと瞬きをした。
「したがって、これも嘘。そして何より──」
榊は一旦言葉を切ってから、立花を見た。
「君の目の奥底に、我々研究者が知る瞳の動きを見た。
“心霊現象”を見てしまった者の、怖れの目だ」
立花は、息を呑んだ。
あの夜、誰にも言えなかった感覚を、この男は一目で見抜いていた。
「先生……」
立花は、はっきりとした畏敬の念を抱いた。
「また、来てもいいですか」
榊は少しだけ驚いた顔をし、それから穏やかに笑った。
「君にも専攻があるだろう。就活もしなくちゃいけない。だが──」
一拍置いて、肩をすくめる。
「息抜きしたければ、いつでも歓迎するよ」
その言葉を聞きながら立花は思った。
世界は、やはり変わっていない。
ただ──
自分が、戻れなくなっただけなのだ。
(終わり)




