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基準点(リファレンス)

 立花は鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 古い金属音がして、扉が開く。


 扉を開けた瞬間、立花は足を止めた。


 ──違う。


 昨日までの部屋では、なかった。


 ベッドのシーツは皺ひとつなく張られ、枕はきちんと中央に揃えられている。

 床に転がっているはずの衣類は見当たらず、机の上も何もかもが端正に整列していた。


 生活の痕跡が、整理されたのではなく、消されている。


「……こんなはず、ない」


 立花は思わず呟いた。


 榊は部屋に一歩踏み込み、視線だけで全体を測るように見回した。


「君はいつも、こんなに綺麗にするタイプなのか?」


「まさか。お恥ずかしいですけど、いつも散乱していますよ。床なんて、足の踏み場もないくらいで……」


 榊は短く鼻を鳴らした。


「ふむ──」


 ベッドの縁、机の脚、壁際。

 すべてが不自然なほど揃っている。


「では、これはポルターガイストの仕業だな」


「……え?」


「物が勝手に動く現象はな、必ずしも“荒らす”とは限らん。エネルギーが最も安定する配置へ、勝手に寄っていくこともある」


 立花は顔を引きつらせた。


「それって……」


「簡単に言えば、散らかっている方が落ち着かないんだろう。この部屋に起きている“何か”にとってはな」


 榊はどこか愉快そうに言い、肩をすくめた。


「良かったじゃないか。綺麗な部屋で快適に暮らせるぞ」


 立花は笑えなかった。


 自分の知らないうちに、

 部屋が“選び直されている”。


 それが、幽霊よりもずっと現実的で、

 そして逃げ場のない恐怖だった。



 脱ぎ捨てられた服も、散乱した書類もない。靴箱の上には何も置かれておらず、床は妙なほど均一に掃除されている。

 

 生活感がないというより、**“乱れが存在しない”**部屋だった。


 二人は靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。


 ──その瞬間だった。


 チ、と、微かな音がした。


 壁際のアナログ時計。

 秒針が、あり得ない速さで動き出す。


 右ではない。左だ。


 逆回転。

 しかも一秒に一周しかねない速度で、針が狂ったように回転している。


「……っ!」


 立花が息を呑むのと同時に、床に置かれていたクッションが、ふわりと浮いた。


 持ち上げられた、というより──

 重さを失ったような浮き方だった。


 空気の流れもない。

 誰かが触った形跡もない。


 ただ、そこにあるはずの重力だけが、部分的に薄れている。


「……記録開始」


 榊は落ち着いた声で言い、携えていた機器を起動した。

 ディスプレイに数値とグラフが走る。


 クッションはゆっくりと回転し、やがて壁の方へ数センチ移動する。


「こ、これ……」


 立花の喉が鳴った。


「昨日より、はっきり出てるな」


 榊は楽しそうですらあった。


 時計の針はなおも逆走を続け、

 やがて、何事もなかったかのように、すっと通常の動きへ戻る。


 クッションも、重力を思い出したかのように床へ落ちた。


 部屋は再び、異様なほど静かになる。


 立花はその場に立ち尽くしたまま、唾を飲み込んだ。


「……これが」


 言葉が続かない。


「ポルターガイストだ。正確には、“そう呼ばれてきた現象の一つ”だがね」


 榊はディスプレイから目を離さず、続ける。


「怖がるな。少なくとも、意思を持った何かじゃない」


 その言葉が、逆に立花の背筋を冷やした。


 意思がないのに、空間が勝手に狂う。


 それは、幽霊よりもずっと、現実的で、ずっと恐ろしかった。


            *


 榊は機器の表示を確認しながら、ゆっくりと部屋の中央へ歩み出た。


「……やっぱりな」


「やっぱり、って……何がですか」


 立花の声は、思ったよりも震えていた。


 榊は床にしゃがみ込み、クッションが落ちた辺りを指でなぞるように示す。


「発生点が、動いている」

「発生点……?」

「昨日は、ベッドの近くだった。今日は、部屋の中央寄りだ」


 立花は反射的にベッドを見る。

 整えられすぎたシーツが、妙に無機質に見えた。


「普通、心霊現象ってのは“場所”に縛られる。

 井戸だの、廃屋だの、曰く付きの一点にだ」


 榊は立ち上がり、壁際の時計を見上げる。


「だが、これは違う。

 環境条件が揃った場所に、現象が出ている」


「……じゃあ、この部屋全体が……」


「“場”になっている。正確には、なりつつある」


 榊はそう言って、機器の感度を一段階上げた。


 ディスプレイの線が、わずかに揺れる。


「君の部屋はな、面白いくらい均一だ。

 温度差、湿度、質量分布、電磁ノイズ……どれもが妙に整っている」


 立花は思い当たる節がなく、首を振る。


「そんな事、気にしたことも……」


「だろうな。だが“気にしていない”からこそ、揃ってしまう事もある」


 榊は言葉を選ぶように、一拍置いた。


「簡単に言えば、

 揺らぎが逃げ場を失って、溜まっている」


「溜まる……?」


「本来、空間の揺らぎってのは、常に散っている。

 だが、散れない状況になると──」


 その瞬間、

 今度は机の上のペン立てが、かすかに震えた。


 揺れは微細だが、確実だった。


「……っ、また!」


「慌てるな」


 榊は即座に距離を取らせ、立花の肩を軽く押した。


「今はまだ、整理しているだけだ」


「整理……?」


「エネルギーの偏りを、均そうとしている。

 だから物が揃う。動く。浮く」


 榊は、どこか感心したように言う。


「厄介なのはな──」


 言い終わる前に、ペン立ての揺れが止まった。


 部屋は、再び静寂を取り戻す。


「──それが“均しきれなくなった時”だ」


 立花は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「それって……」


「まだ先の話だ。だが、このまま放置すれば、いずれ閾値を越える」


 榊は機器を停止し、深く息を吐いた。


「じゃあ……どうするんですか」


 榊は一瞬だけ、立花を見た。


 研究者の目だった。


「制御する。現象そのものを消すことはできんが、振る舞いを限定することはできる」


 立花は、その言葉を理解できないまま、

 それでも逃げ場がないことだけは、はっきりと悟っていた。


 部屋は、静かだった。


 だがその静けさが、

 次に何が起きるかを待っているように感じられてならなかった。


 榊は機器の設定を切り替え、別のデバイスを鞄から取り出した。

 掌に収まる程度の、金属製の円盤だ。


「それは……?」


「簡易アンカーだ。空間の揺らぎに、基準点を与える」


 榊は床の中央に円盤を置き、スイッチを入れる。

 微かな低音が、床下から響いた……ような気がした。


「大したことはしない。この部屋に“ここが基準だ”って教えるだけだ」


「教える、って……」


「意思はないと言ったろ。だが、振る舞いの癖はある」


 ディスプレイのグラフが、先ほどよりも穏やかに揺れ始める。


「ほら、見ろ」


 立花は息を詰めて周囲を見る。


 時計は、静かだ。

 クッションも、床に留まっている。


 しかし──

 完全に止まったわけではない。


 ペン立てが、ほんの数ミリだけ、円盤の方へ寄った。


「……動いてる」


「ああ。だが“集まってる”」


 榊は満足そうに頷いた。


「散らばっていた揺らぎが、中心を見つけた。

 これで、部屋全体が現象に巻き込まれることはなくなる」


「それって……解決、なんですか?」


 榊は即答しなかった。


「“対処”だ。解決って言葉は、もう少し偉くなってから使う」


 立花は、床に置かれた円盤を見る。

 見た目は、何の変哲もない。


 だが、確かに──

 部屋の空気が変わった。


「今夜は、これで眠れる。ただし──」


 榊は念を押すように言う。


「配置を変えるな。物を増やすな。掃除もしなくていい」


「え、掃除もしちゃダメなんですか?」


「均衡を壊す。皮肉だが、今はこの“異常な秩序”を保った方が安全だ」


 立花は乾いた笑いを漏らした。


「……幽霊より、よっぽど理不尽ですね」


「科学ってのは、たいていそうだ」


 榊はそう言って、機器の電源を落とした。


 部屋は静かだった。

 だが今度は、その静けさに、芯がある。


 少なくとも、空間は、どこへ向かえばいいのかを、理解したようだった。


(続く)


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