予兆のドア
翌日。
立花が教授室のドアを叩くと、中から軽い金属音が返ってきた。
「入っていいぞー……っと、ああ、そこ触らないで。繊細なんだ、これ」
榊は机の上いっぱいに機材を広げ、配線を束ねたり、センサーを並べたり、まるで子どもが秘密基地を作るかのように生き生きとしていた。
「おはようございます。……教授、なんか今日、すごく楽しそうですね」
「楽しくないわけがないだろ。こんな良質なデータ、めったに拾えないからな」
ご機嫌のまま、榊は小さな円盤型センサーを軽く指ではじいた。青いLEDが点滅する。
立花は少し躊躇いながら、椅子に座る榊に問いかけた。
「……教授。ひとつ聞いていいですか」
「ん?」
「これ──その、“霊の科学”って分野に興味を持ったの、どうしてなんです?」
榊の手が、一瞬だけ止まった。
はさみをつまんだ指先が硬直し、しかしすぐに、何でもないように動き出す。
「どうして、ねえ……」
座ったまま、目だけが窓の方へ向いた。
その横顔は、少しだけ遠くを見ているようだった。
だが次の瞬間、榊はひらりと話題を切り替える。
「ま、その話はいい。君にはまだ早い。というより、今は退屈だろうな。十年もすれば面白く聞こえるかもしれんが」
「……はあ」
「それよりだ」
榊は楽しげに片手を叩いた。
「ようやく、正式に言える時代になったんだよ。“霊も物理現象です”ってな」
立花は瞬きをする。
「……あの、いつからそんな感じなんです?」
「ここ十年だ。ほんの最近だよ」
榊は回路基板を指先で撫でながら続ける。
「昔から、一部の学者は“霊的現象は観測できる”と主張していた。だが社会は聞く耳を持たん。オカルト扱い、似非科学扱い。研究費も降りん。論文を出せば笑われ、学会ではつまみ出される」
しかし榊の口調は苦々しさよりも、むしろ晴れ晴れとしていた。
「だがな。観測技術が進んだおかげで、ようやく“否定のしようがない”データが揃ってきた。量子系の揺らぎや局所的な位相干渉──君も昨日見たろ? あれが全部、理論に整合し始めた」
立花は苦笑いをする。
「……いや、僕は見たというか、“起きてた”のは分かりましたけど……仕組みはさっぱりで」
「それでいい。それが普通だ」
榊はにやりと笑ってセンサーを持ち上げた。
「要するにだ。霊は“ようやく科学の舞台に上がった新人”なんだよ。堂々と研究できる。私はそれが嬉しくて仕方ない。これを待ち続けた。何十年もな」
最後の一言だけ、声の奥に静かな熱が宿った。
立花は、言葉を失って沈黙する。
榊はその沈黙など気にも留めない様子で、機器の電源を入れる。
「よし。準備完了だ。昨日の部屋の現象、もう一段深く踏み込むぞ」
教授室に、低い電子音が満ちた。
*
夕方のキャンパス駐車場。榊教授の古めのハッチバックに乗り込むと、車内には薄くコーヒーと電子機器の匂いが漂っていた。助手席のシートは意外に柔らかく、緊張して腰を下ろした立花の身体をゆっくり沈み込ませる。
「──ほら、シートベルト」
「あ、はい」
車が静かに発進すると、窓の外を流れる景色とは裏腹に、立花の表情は硬いままだった。それを横目に見ながら、榊が言った。
「立花君、顔が面白いくらい暗いぞ」
「そりゃ……暗くもなりますよ」
思わず漏らした声には力がなかった。自分の部屋で“あれ”が起きたのだ。あれが本当に霊的な現象なのか、ただの勘違いなのかも分からない。ただ一つ、帰りたくない、という気持ちだけがぴたりと胸に張り付いている。
「そりゃ、まあ……そうだな」と榊は笑ったが、立花にとっては冗談にもならない。
その瞬間だった。
突然、車内のスピーカーから軽快なギターカッティングとシンセのリフが流れ出した。
「……っ! 先生、誰ですか?この曲」
「ん? これか? レイ・パーカーJrさ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
立花は音楽はそれなりに聴く。ジャンルも広い。だが──。
「レイ……誰ですって?」
「レイ・パーカーJr」
今度はゆっくりと名前を口にする。
「聴いたことない名前です」
「そりゃあ、そうさ。もう五十年以上前の曲だからな」
榊はハンドルを軽く叩きながら続ける。
「うちの爺さんが子供の頃好きだったらしくてな。よく話してたよ。しかも曲のタイトルが《ゴーストバスターズ》だなんて、愉快だろ」
「……全然笑えません」
立花は無表情のまま答えた。
軽快なリズムが車内に流れ続ける。
曲名だけは、今の状況にあまりにも不吉すぎた。
*
信号で車が止まった瞬間、立花は意を決したように口を開いた。
「先生、そろそろ教えてください」
榊は横目でちらりと見て、ハンドルの上で指を組む。
「何をだ?」
「ポルターガイストの正体は昨日教えてもらいました。
“空間の揺らぎの偏り”──ですよね」
「その通り」
淡々とした返答。だが立花はそこで終わらせるつもりはなかった。
「じゃあ、なんでその“空間の揺らぎ”なんてものが起きるんですか?」
車内の空気が、わずかに重くなったように思えた。
榊はすぐには答えなかった。口元に手を当て、少しだけ考える素振りを見せる。
やがて前を向いたまま、静かに言った。
「──さっき言ったろう。霊が科学で証明できるようになったのが、ここ十年くらいだと」
「はい」
「言い換えればだな。“まだ十年程度”なんだよ」
立花は言葉の意味を測りかねて黙る。
榊は信号が青に変わると、なめらかに車を走らせながら続けた。
「世間が言う心霊現象なんて、年がら年中どこにでも起きてるわけじゃない。
学問として扱えるほど事例が揃ってるかといえば……まだまだだ」
「だから……原因が分からない?」
「そういうことだ。経験値が足りない。分母が小さい。
“空間の揺らぎ”自体は観測できるようになったが、
なぜ生じるのかまでは説明しきれん」
一拍の間。
「ポルターガイストっつったってな、理由が一つとは限らないんだよ」
榊はそう言うと、微かに口角を上げた。
“分からない”と断言しながら——その声音には、未知の現象に向き合う研究者特有のわくわくした熱が確かに滲んでいた。
「……でも先生」
立花は言い淀んだ。
言うべきか迷ったが、胸の奥に溜まった疑問がじっとしてくれない。
「原因が分からないって……そんな状態で、本当に解決なんて出来るんですか?」
問いを投げたあと、車内の空気がまた少し沈んだ。
榊は真正面を見つめたまま、軽く鼻を鳴らす。
「いい質問だな」
「質問というか……不安というか」
「ああ、分かる。分かるとも。
“原因が分からないのに対処する”ってのは、本来は矛盾してる」
「じゃあ……」
「だがな、立花君」
榊はそこで初めて、少しだけ助手席を向いた。
その眼差しには、昨日も見せたあの奇妙な自信が宿っている。
「解決するために使う“道具”なら、すでにある」
「……道具?」
「昨日、少しだけ見せただろう。あの試作機だ。
霊的現象の“揺らぎ”を捉えて、構造まで割り出す。
完全ではないが、いまある中では最高のやつだ」
「そんなもので、本当に……?」
「本当に、だ。原因が分からなくても“現象そのもの”は捕まえられる。それが今の霊科学のやり方だ」
立花は口をつぐんだ。
安心したわけではない。ただ、その“道具”があることだけは心強かった。
車はゆるやかに大学の裏通りへと入り、住宅街の細い道へと差しかかる。
夕暮れの光が長く伸びた影を道路に落とし、アパート群の壁を赤く染めていた。
「──着いたぞ」
榊がウインカーを出し、立花のアパート前の狭い駐車スペースに車を滑り込ませる。
エンジンが静かに止まった瞬間、
車内の空気は、これから始まる“未知の領域”を前にして、ひりつくような緊張に変わった。
(続く)




