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閾値

 宙に浮いた手鍋は、依然として静かに水平を保っていた。

 重力をわずかに裏切ったその状態は、しかし恐怖よりも、“実験室の異常値”に近い静謐さがあった。


 榊は手鍋の周囲を巡ると、試作機のプレートを構えた。


「……よし、第一波形を固定する。立花君、そこから動かないで」


「は、はい」


 プレートの端が淡い光を放ち、鍋の周囲に薄膜めいた揺らぎが現れた。

 空気がわずかに帯電しているのか、皮膚がチリ、と震える。


「揺らぎの中心……偏りはベクトルの向きが固定化している。つまりこれは“持続干渉型”。一時的な現象じゃない」


「それ、どういう意味なんです?」


「誰かが──“押し続けている”ということだ。

 ここにいない、どこかから」


 立花の背筋がぞわりとした。


 そのときだった。


 カタン……カタ、ッ──


 部屋の隅、プリンターの上に置かれた未開封のペットボトルが、

 ゆっくりと横倒しになった。

 誰も触っていない。床も揺れていない。

 だが倒れたボトルは、そのまま浮き上がった。


「ま……また別の……!」


 ボトルは5センチほど浮き、手鍋の方へ吸い寄せられるように滑っていく。

 榊はプレートをすぐにそちらへ向け、険しい顔で数値を追う。


「……おかしい。干渉源が増えてる?」


 プレートの表示が、まるで鼓動のように速く明滅する。


「立花君、君の言っていた“テレビが点いたり消えたり”っていうのも、同時刻の現象だったんだな?」


「はい……!」


「だとすれば、この部屋には複数の干渉点がある。

 単独の現象じゃない。むしろ──」


 榊が言い終える前に、机の上のシャープペンが

 カタリ、と回転して立ち上がった。


 芯の細いシャープペンが、まるで糸で吊られたかのように直立し、

 中心点を軸に回転し始める。


「……回転加速度まで出るのか。これは……」


 榊はプレートの表示を確認し、顔をしかめた。


「総合振幅、閾値しきいちを超えそうだ」


「閾値?」


「“無害”と断言できる範囲の上限だよ。これ以上は、干渉の方向が予測できなくなる」


 ペットボトルは手鍋の近くでふらふらと揺れ、

 シャープペンは空中でスッ、と水平移動を始めた。


 明らかに、現象の“濃度”が上がっている。


「……ちょっと厄介だな。こんな短時間でここまで増幅するとは」


「せ、先生!?」


「退くぞ」


 榊は突然きっぱりと言い、プレートを閉じてポケットにしまう。


「で、でもまだ調べるって──」


「安全管理は研究の基本だ。

 今のこれは、私たちに対して反応している可能性がある。一旦、場の外に出る」


 その瞬間、手鍋がわずかに振動した。

 天井でも床でもない、“横”へ動こうとしたのだ。


 部屋の空気がほんの一瞬、沈黙したように感じた。


 榊は立花の肩を軽く押し、ドアへ向かわせる。


「急げ。ここは──まだ安定していない」


 二人が部屋を出た途端、

 背後でカタッという物音が響いた。


 しかし榊は振り返らなかった。


「大丈夫だ。戻ってくる。

 ただし、正しい手順を踏んでからだ」


 立花は喉を鳴らし、黙って頷いた。

 ドアが静かに閉まる。


 榊はポケットの中の試作機を軽く叩き、ため息とも笑いともつかぬ息を漏らした。


「……想定より一桁、大きいな。いや、面白くなってきたと言うべきか」


            *

 夜の北鴎工科大学。

 研究棟の一室だけが、蛍光灯の白い光をまだ保っていた。


 榊教授の教授室。

 積み上がった論文の束と、三台のモニター。

 その中央の画面には、先ほど立花の部屋で取得したデータが波形と点の集合として無機質に並んでいる。


「……さて。まずは時系列の相関を取る」


 榊は椅子に深く腰を下ろし、

 キーボードを打つ指は機械のように迷いがない。


 一方の立花は、入口近くの椅子に正座に近い姿勢で座っていた。


「先生、あの……つまり、何が起きてたんです?」


 榊は画面から目を離さない。


「“力”が加わっていた。だが、加える主体がいない。

だから、物理的には説明がつかないように見える」


「ですよね」


「だがその“力”を数字にすると、ちゃんと現れている。

 ここを見ろ」


 画面には、粒子のスピン状態や密度揺らぎが時系列で示されている。

 当然、立花には呪文のようにしか見えない。


「ここが……こう……なんですね」


「分かってない顔だな。正直でよろしい」


 榊はふっと笑ったあと、椅子を回して立花の方を向いた。


「じゃあ、例え話で行こう。立花君、スピーカーの“ハウリング”って知ってるか?」


「あの、キイィィってやつですか?」


「そう。それだ。マイクが拾った音がスピーカーから出て、それをまたマイクが拾って……音が勝手に増幅する現象だ」


「はい」


「君の部屋で起きていたのは、あれの“物質版”だ」


 立花はぽかんとした。


「ハウリングの……物質版?」


「空間のゆらぎが自己増幅している。

 本来なら、一瞬で消えるはずの“スピンの偏り”が、

 勝手にまた偏りを生む。その繰り返しだ」


「…………なるほど……分からないです」


「だろうな。じゃあもっと身近な話にしよう」


 榊は机の上に置かれた 消しゴム を指差した。


「この消しゴム、普通は触らない限り動かない。

 だが、もし空気がほんの一瞬だけ押したら?」


「ちょっと動きます」


「その“ちょっと”が、なぜかまた別の“ちょっと”を生む。その次がまた次を生む。気づけば動き続けてしまう。誰も押してないのに」


「……あっ、それって……」


「そう。君の部屋の鍋だ。手で触れていないのに、なぜか押し続けられているような状態になっていた」


 立花は背筋に寒気が走った。


「じゃあ、押してるのは……何なんです?」


 榊は笑わなかった。

 代わりに、画面の一点を指で叩く。


「“空間そのもの”だよ」


「……空間が押してる?」


「正確には、空間の“揺らぎの偏り”だ。そこに何かが関与している可能性は高い。だが、それが霊か、人為か、自然現象かはまだ言えない」


 榊は再びデータに目を戻す。


「ただし、分かったことが一つある。──あの部屋の現象は、まだ終わっていない。」


 立花は喉を鳴らした。


「で、でも……先生、一度退いたじゃないですか。危ないって」


「危険ではない。まだな。ただ、君の部屋の現象は自己増幅型だ。近づけば近づくほど、私たち自身が“刺激”になる」


「刺激……」


「ハウリングと同じだと言ったろう?マイクが近いと、音が増幅しやすい。私たちは、あの現象にとっての“マイク”なんだ」


 立花はぞっとした。


「じゃあ、僕……部屋に戻ったらどうなるんです?」


 榊はディスプレイに映るデータを睨みながら言った。


「それを確かめるために、明日もう一度行く。ただし──今度は準備をしてだ」


「準備……ですか」


「ああ。相手が何であれ、“見える形”にしてやらないと話にならない」


 榊の声は低く、しかしどこか楽しげだった。


「ようやく、本題に入れる」


(続く)


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