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観測者

北鴎工科大学・情報物理工学部三号館の最上階には、

“榊研究室”とプレートの貼られた一角がある。

 教授は量子情報物理学を専門としており、大学では


「情報場理論(Information Field Theory)」

「非古典物理入門」

「量子計測の基礎」


 といった、学生にとっては取るだけで胃が痛くなるような講義を担当している。


 しかし──立花彰は、そのどれも履修していなかった。


 彼は工学部に籍こそ置くものの、専攻は 建築情報デザイン。

 プログラミングと意匠設計を合わせた新興分野で、

「量子」や「素粒子」の領域とは無縁に近い。


 本来なら榊教授と交わることはほぼない。

 だが半年前、学部横断の基礎セミナーで榊の話を聞き、

 立花はなぜか一言一句を逃すまいと前のめりになっていた。


 榊の語る“観測されていない情報の存在”は、

 建築の持つ空間性とどこか響き合った。


 理由は分からない。

 ただ、直感だけが「この人の話をもっと聞くべきだ」と告げていた。


 その直感が、今ようやく正体を現し始めている。


 ⸻


 研究室を出て、廊下に足を踏み出したところで、

 榊が言った。


「……立花君、君の部屋は大学からどれくらいだ?」


「歩いて十五分くらいです。駅の北側なので」


「そうか。今日は時間がある。今から行こう」


 あまりに自然に言われ、立花は思わず立ち止まった。


「い、今からですか?」


「現象というものはな、時間が経てば痕跡が薄れる。

 特に“情報場の歪み”は再構成されやすい。

 現地を見るなら早い方がいい」


 淡々とした声なのに、逆らえない圧があった。


「でも……先生がわざわざそんな……」


「気にするな。研究というのは、現象を追いかけるのが第一だ」


 榊はそう言うと、すでにエレベーターホールに向かって歩き出していた。

 立花は慌てて後を追う。


 ⸻


 エレベーターの扉が閉まると、密室のような静寂が落ちた。

 階数表示がゆっくり下がっていく中、立花は勇気を出して尋ねた。


「……あの、先生。僕、建築なんで……

 量子とか、素粒子とか、全然知らなくて。

 それでも、先生の研究って理解できるものなんでしょうか」


 榊はわずかに首をかしげ、表情だけで微笑んだ。


「専門を知らないのは構わん。むしろ、それがいい」


「いい……?」


「知識がある者は、自分の“理解できる範囲”に現象を押し込めようとする。だが君には、それがない。見たものを、そのまま見られる。それだけで、十分に価値がある」


 立花は返す言葉を失った。

 認められたような、見透かされたような、不思議な感覚が胸に広がる。


 ⸻


 エレベーターが一階に着き、自動扉が開いた。

 夕暮れ前の冷たい風が吹き込み、

 二人は無言のままキャンパスを抜けていく。


 榊は歩く速度が一定で、ゆっくりでもなく速くもない。

 立花が焦っているのが分かっているような、

 しかし急かすでもない歩幅だった。


 その穏やかさが、逆に胸をざわつかせる。


(本当に……部屋で起きたあれを、説明できるのだろうか)


(いや……説明なんてしてほしくない気もする……)


 建物の陰影が長く伸び、住宅街が夕色に沈み始めた頃、

 榊がふと言った。


「それとな、君の部屋で起きたことは、決して珍しい現象ではない」


「えっ……?」


「珍しいのは──“観測者”が君だったということだ」


 立花は足を止めかけた。

 榊は振り返らず、そのまま先を進んでいく。


 灰色の風が吹き抜け、

 二人の影が細く細く伸びていく。


 立花の部屋は、この先の角を曲がったところにあった。


 夕暮れの光が細長い廊下をオレンジ色に染めていた。

 マンションの三階。立花のワンルームの前に立つと、榊教授はスラックスのポケットから、手のひら大の白いデバイスを取り出した。


「それ……何ですか?」


「簡易フィールドスキャナ。市販品じゃない。研究室の試作機だよ」


 榊はカードキーのように薄い機器をドアの表面にかざす。

 ピッ、と電子音。続いて、微細な振動。

 小さな画面に、紺色の背景に白い線が浮き上がった。


「……やっぱり、残ってるな」


「な、何が残ってるんですか」


「痕跡だよ。量子揺らぎの──通常の生活では絶対に出ない振幅だ」


 立花は喉を鳴らした。

 榊はデバイスを閉じ、淡々と続けた。


「ポルターガイストの原因は“念”じゃない。外部からの干渉だ。

 電子や素粒子のスピン、場の偏り。人はそれを霊と呼ぶだけ」


 そう言いながら、榊はドアノブに手をかけた。


「じゃあ──開けようか。

 何が『動かした』のか、確かめに行くぞ」


 立花の手が震えた。だが榊は構わずドアを押し開ける。


 その瞬間、部屋の空気が波打った。


 狭いワンルームの内部。

 散らかった書類の上を、うっすら白い風の渦が滑るように走り──


 手鍋が、宙に浮いた。


 銀色に光る鍋底が、ゆっくりと天井の方へ持ち上がり、

 まるで透明な手で支えられているように、ふわり、と回転する。


「……っ、で、出た……!」


 立花は声にならない声を漏らし後ずさる。


 一方の榊は、小さく口角を上げた。


「ほう。早速の歓迎だな」


 鍋がギシ、と不気味な音を立てて回転数を上げる。


 榊は楽しげに目を細めた。


「さて、ここからが本番だ。立花君──逃げるなよ」


 立花のワンルームの前に立つと、榊教授はジャケットの内側から

金属光沢の薄いプレート型デバイスを取り出した。

中央のインジケータが、脈打つように青白く点滅している。


「……それ、初めて見ました」


「そりゃあ、そうさ。研究室の試作機だからな」


 榊はプレートをドアに軽く押し当てた。

 静かな振動とともに、画面に細く揺れる線が描かれる。


「やっぱり出てるな。通常の生活空間ではあり得ない値だ」


「な、何の値なんです?」


「素粒子のスピン配置の偏り。

 本来ランダムに散らばるはずのところが、局所的に“そろって”いる」


 立花は息をのむ。榊は続けた。


「意図的に──だ」


 そう言ってドアノブを回し、押し開ける。


 室内の空気が、わずかにうねるように動いた。

 温度が変わったわけでもないのに、風が横切ったような錯覚が生まれる。


 散らかったワンルームの奥で──


手鍋が、静かに浮いていた。


 天井へ向けて飛ぶのでもなく、襲ってくる気配もない。

 ただ重力を一部だけ無視するように、一定の高さで水平を保ち、

 ゆっくりと定点に留まっている。


「……っ、せ、先生……これ……!」


 立花の声が震える。


 一方の榊は、鍋の周囲の空間を覗き込むように眺め、

小さく口角を上げた。


「きれいだな。典型的な場の乱れだ。“押されなくても位置が変わる物体”という意味では教科書通りだよ」


「怖くないんですか」


「怖がるには惜しい。これだけ整ったデータは滅多に見られないんだ。むしろ感謝すべき状況だよ、立花君」


 研究者特有の、純粋な興奮が声に滲んでいた。


 榊は再び試作機の電源を入れ直し、鍋に向けて静かにかざした。


「さて。何が分かるかな」


(続く)



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