復讐
日曜日の朝十時、志穂は、キッチンで昨日の晩に作ったビーフシチューを温めていた。夫の隆史は居間でヘッドホーンをしながらテレビゲームに夢中になっている。IT会社の管理職の夫とは結婚して七年になるが、いままではごく普通の夫婦だった。
志穂の依頼した興信所の報告書が手元に届くまでは。そこには隆史が若い女性とホテルに入る写真が数枚、ホテルのラウンジでの寄り添う写真がやはり数枚、添えられていた。
--水野ゆりか、という二十三歳の女性です。ウェブデザイナーということですが、ご主人の取引先の社員です。付き合いは去年の年末からだということが、わたしどもの調査で判明しております。
興信所の担当者は、電話でそう報告した。
隆史の帰宅が遅いのは前々からのことで気にはしていなかったが、事情がわかってみると、呆然となった。次にこみ上げてきたのは激しい嫌悪感だった。
証拠を突き付けて、問いただすことも考えてみたが、あとの生活の変化を想像すると、自身の正当性を保つことができるか自信がなかった。
志穂の心は、しばらくは悲しみにしずんでいたが、喪失感のつぎにたどり着いたのは冷たい憎しみの感情だった。
彼女は、エプロンのポケットから取り出した手のひらサイズのプラスチックのケースを開けると、超微細な灰色の粉末が閉じ込められたカプセルをじっと見つめる。
何気なく見ていたネットのあるサイトで知って取り寄せたナノロボットの粉末状のカプセルだった。
昨日の夜も仕事だと言って帰りが遅かった。帰宅したときは食事は済ませてきたと、断った。あの、水野ゆりか、という女性と逢っていたのに違いない。志穂は、隆史がテレビゲームに熱中しているのを確認すると、プラスチックの容器から取り出したカプセルをよそったシチューの皿に混ぜ込んだ。
夫を呼ぶと、食卓に皿を置いた。
志穂は隆史の向かいに座り、
「今日のはよく煮込めたわ」と微笑む。
隆史は満面の笑みで、
「やっぱり君のビーフシチューは最高だよ」と言ってシチューをたいらげた。
その夜、隆史は居間のソファーベッドでテレビを見ながら眠り込んだ。
深夜2時。志穂は夫の穏やかな寝息を確認すると、ベッドに入り、スマートフォンを取り出す。ナノロボット専用アプリを開くと、隆史の体内の臓器が簡略化された立体図で表示されている。
志穂はタップ&ドラッグ操作で「腎臓」のあたりにロボット群を誘導する。
「浮気性の、不真面目な血を濾過している場所。ちょっとだけ、お仕置きをしてちょうだい」
そうつぶやいた彼女がアプリ上の「微細侵襲」の表示をタップすると、居間から「うっ」という微かな呻き声が聞こえる。
隆史は翌朝、
「どうも最近、体がだるくてな…」と体調不良を訴えたが、ナノロボットの存在には全く気づく気配はない。
志穂はその後も、毎日ひとつずつ、隆史の食事にカプセルを混ぜ続けた。そして、毎晩のように、アプリで隆史の体内の『標的』を変えていく。
ある夜は「膀胱」の活動をわずかに妨害し、隆史を頻尿で睡眠不足にさせる。またある夜は「心臓」の鼓動を不安定にし、隆史を突然の動悸に驚かせた。
ある朝、志穂は夫の顔を見ながら言った。
「あなた、この頃顔色が少し悪いわ。病院行ってみたら?」
「うん。そうだな。行ってみるよ」
隆史は病院を訪れたが、ナノレベルの損傷は最新の医療機器でも捉えられない。
「自律神経失調症」「ストレスによるもの」と診断された、と志穂に報告した。成功だったことに志穂は安堵した。これでこの作業が世間に露見する危惧はなくなった。
数週間後。隆史はやつれ、仕事も手につかなくなっていた。リビングで志穂の顔を見るたびに、君はげんきだなぁ、と口にした。
志穂は、そんな隆史の顔を作った笑顔で見つめ返す。
志穂のスマートフォンには、隆史の心臓の鼓動がリアルタイムで表示され続けている。
「この体はもう、私だけのもの。私の操作でしか動けない」
志穂は隆史が二度と裏切らないよう、ナノロボットを「待機モード」に設定し、隆史の体内に残した。隆史は、志穂の機嫌一つで自分の命が左右されるという、目には見えない鎖につながれたまま、日常に放棄された。
志穂はスマートフォンを閉じ、静かに微笑んだ。
「ごめんなさいね、あなた。この便利な制御、私はもう手放せないわ」




