悪夢からの解放
『ここどこ? 誰かっ、誰か助けて……』
馬車に乗せられて、知らない山道を走っている。
「はあっ、はあっ、夢か……」
クライヴは勢いよく飛び起きた。
この不快感、久しぶりだ。リリーと結婚してから、あの日の夢を見ることもすっかり無くなっていたのに。
クライヴは顔を歪める。
「失礼いたします」
そのとき、扉が開き、イザックが部屋に入って来た。
「起きていらっしゃったのですね、お返事がなかったので、まだ眠っていらっしゃるのかと。って、どうされました? 酷い顔ですよ」
「はぁ……少し夢見が悪くてな」
そう告げるとイザックは心配そうな眼差しを向ける。
「朝食をご用意いたします」
「今日はいい」
「ですが……」
「そんな気分じゃない」
「……かしこまりました」
イザックはこれ以上言っても無駄だと悟ったのか、もう何も言うことなく部屋を出て行った。
**********
「どうしたものか」
イザックはクライヴの姿を見て、ぼそっと呟く。これではまるでリリアーナが来る前の重苦しい空気を纏ったクライヴのようだと感じていた。
一心不乱に仕事をし、積み重ねられていた書類が次から次へと片付いていく。それ自体は良いことなのだが、問題は昼食にも全く手を付けなかったことだ。困ったイザックはリリアーナの元を訪ねた。
「奥様、少々よろしいでしょうか?」
「あらイザック、どうしたの?」
「殿下にまた料理を作って頂けないかと」
「料理を? もしかしてまた」
「はい、朝食も昼食も召し上がってくださらず」
「そんな……。体調がお悪いの?」
リリアーナは心配そうに眉を下げて尋ねる。
「いえ、おそらくは心の問題かと」
「えっ」
リリアーナは予想だにしていなかった言葉を告げられ、目を瞬いた。
「以前、奥様のお料理は召し上がってくださいましたから、もしやと」
「分かったわ。そうだわ、クライヴ様は甘いものはお好き?」
「はい、幼い頃から好んで食べていらっしゃいました」
「そう。なら今回はお菓子にしようかしら」
「お菓子ですか?」
「ええ、甘いものを食べるとね、気分が晴れやかになるのよ。簡単に食べられるものの方がいいでしょうから、クッキーにでもしましょうか」
「お願いします、奥様。どうか殿下をお救いください」
「任せてちょうだい。きっと気分も良くなるわ」
心配そうにしているイザックを安心させるためにも、敢えてリリアーナは明るく言った。
**********
糖分たっぷりのクッキーが仕上がった。
「ありがとうございます。さあ、直接お渡しして来てください」
「えっ!? でも……」
「奥様なら大丈夫です」
イザックは自信満々な様子で言う。
執務室になんて入っても大丈夫なのかしら? でもイザックがここまで言うのならきっと大丈夫なのよね。
「分かったわ、お渡しして来るわね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
ノックをするが返事がなかった。『返事がなければ勝手に開けてくださっても構いませんから』というイザックの言葉を信じ、思い切って扉を開ける。すると、黙々と仕事をするクライヴの姿が目に入った。心なしか顔色も悪い。
「クライヴ様、リリアーナでございます」
……返事が来ないわ。
「あっ、あのっ!! クライヴ様、お食事されませんか?」
「……だから要らないと言って」
そこでクライヴは漸く顔を上げた。
「!? リリー!?」
クライヴは驚き、ずざざっと効果音が聞こえてきそうなほど身体を後ろに反らす。
「へ?」
い、今リリーって。
クライヴはしまったという顔をして、顔を逸らした。
「えっと……どうしてここに?」
「食事を取られていないとお聞きしたんです。とりあえずお菓子でもいかがですか?」
「お菓子? リリアーナが作ったのか?」
「はい」
今度はリリアーナ……。
リリーと呼んでもらえないことが残念だと感じてしまった。こんな気持ちは初めてで、これが何なのかよく分からなかった。
「あの、良かったらリリーと呼んでくださいませんか?」
「えっ、いいのか!?」
クライヴは心底驚いた様子で言う。
「はい。家族はみんなそう呼びますし」
「家族……。そうだな、俺たちは家族だ。リリーと呼ばせてもらう」
心なしか嬉しそうだった。
「リリーも俺のことをイヴと呼んでくれないか?」
「えっ!? いっ、いえっ、そういうわけにはいきませんっ!!」
慌てて首を横に振るが、その反応にクライヴはしゅんと悲しそうな顔を見せた。
「……だめか?」
こんなに悲しそうなお顔されたらいいえなんて言えないわ……。
「分かりました。で、では……イヴ様」
「イヴでいい」
「ええっ!?」
「なっ、リリー」
リリアーナがそう呼ぶのを楽しみに待っている空気をひしひしと感じた。
「……イ、イヴ」
思い切って愛称で名を呼んだ。
「ああっ!!」
クライヴはパアッと嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
ううっ、眩しいっ!!
そうお呼びしただけで、こんなに喜んでくださるなんて、むずむずしてなんだか気持ちが落ち着かないわ。
「えっと、これをどうぞ」
未だ渡せていなかったクッキーを渡した。
「ああ、ありがとう」
クライヴは受け取ると、早速一つ手に取り、口に入れた。
「甘いな」
「もしかしてお口に合いませんでしたか?」
心配になって慌てて声をかける。
「いや、美味しい。俺の好きな味だ」
クライヴは優しく微笑んだ。
「良かったです」
そう言いはしたが、リリアーナの目にはクライヴがクッキーを見て、何かを懐かしんでいるように見えた。遠い何か、それが何なのかは分からなかったが、なぜか心がもやもやした。
ちなみにこの後、クライヴはイザックに、リリアーナはマイラに、愛称で呼んでもらえたと嬉しそうに話し、二人は微笑ましく聞いていた。




