六月とラムネ
まるで昨日の肌寒さが嘘のように、太陽は容赦なく空から降り注いでいた。湿気を帯びた空気が肌にまとわりつくようで、制服の襟がやけに重たく感じる。梅雨の合間の、束の間の晴れ間。だが、それは快晴というよりも、雨を含んだ空気ごと蒸し上げるような、鬱屈とした熱だった。
そんな朝の教室で、青木実はひとり、机に肘をつきながらカバンからプリントを引っ張り出していた。汗ばんだ指先が紙に貼りついて、軽く舌打ちする。周囲のざわめきはまだ始業前の自由な空気をまとっており、彼女の声は自然とその中に紛れていった。
「まず実力テスト…は置いといて、修学旅行でしょ、期末テスト…も置いといて、体育祭でしょ、文化祭もある…」
ぽつり、ぽつりと青木は数えるように言葉を並べる。まるで、カレンダーの予定を心の中で指差しながらめくっていくような口調だった。だが、ふとその声が止まる。
彼女の視線の先には、窓の外、風に揺れるグラウンドの青い芝があった。陽光に照らされたその景色の中で、まるで“何か”を思い出したように、青木の目元がわずかに揺れた。
——きっとこれから忙しくなる。なのに、どうしてこんなに時間が止まって見えるんだろう。
自分でも説明のできない思いが胸の奥に沈殿していく。ただのいつもの日常とは少し違う。行事の中ではもっとも華やかで、もっとも「誰かといる」ことが求められる舞台。青木の手が、思わずプリントを握りしめた。
そのとき、ガラリと教室のドアが開き、古賀治人が入ってきた。青木の目が自然とそちらを追う。
彼は別に特別な顔もせず、いつものように鞄を机に置き、椅子に腰かけた。ただ、それだけの仕草に、青木の中の何かがまた、静かにざわついた。
——どうして、あの人のことになると、行事の一つ一つが意味を持ってしまうんだろう。
彼女はもう一度プリントに目を落とした。滲んだ文字。汗のせいなのか、それとも、別の何かか。
やがてチャイムが鳴り、教室の喧騒が静まりかける中、青木は小さくつぶやいた。
「…今日はちゃんと言えたら良いな」
その声は誰に届くこともなく、ただ、湿った空気の中に溶けていった。
***
窓際の席で、古賀治人は黙々と問題集を解いていた。
放課後の教室はまばらにしか人がいない。テスト前とはいえ、家で勉強する派閥も多いからだ。
背後の扉が静かに開く音がして、彼はちらりとそちらに目をやる。
「あ、やっぱりいた!」
短く切った青髪が揺れて、青木実が小さな笑顔を浮かべていた。
「いつもの踊り場にもいなかったから…図書室も保健室も見たんだからね」
「……なんでそんなとこ探すんだよ」
治人は苦笑しながら、シャープペンの芯を出す。青木は当然のように彼の隣の席に腰を下ろした。
「ここが一番落ち着くんでしょ? 踊り場と同じくらい。いつも、黙ってそういうとこにいるんだよね、古賀君って」
「……お前、よく見てんな」
「見てるよ。友達だから」
さらりとそう言って、青木は自分の筆箱を開けた。中からラムネの小袋が出てくる。
「ほら。糖分補給にどうぞ。脳にいいらしいよ?」
「ラムネなんて小学生かよ」
そう言いながらも、治人は差し出された粒をひとつ指先でつまんだ。ほんの少し甘くて、懐かしい味。
「ねえ」
ふいに、青木の声が少し小さくなる。
「今日って、六月の暑さじゃないよね」
窓から入る風は、生ぬるいくせにやけに重たくて、肌にまとわりつく。
教室の中はまだ静かで、扇風機の回る音が、時間だけをぐるぐると撫でていた。
治人はノートに視線を落としたまま、ぼんやりと答える。
「……一昨日の雨のせいで湿気がひどいからな」
ころん、としたガラスの瓶に、小さな気泡がたまっている。中のビー玉が、彼女の手の動きに合わせてカラカラと鳴った。
「うん。こう、服も頭も、まとまらない感じ。季節って、こういう日もあるんだね」
青木は机に頬をつけるようにして、遠くを見た。
まだ本格的な夏ではない。でも、どこか“はじまりそうで、はじまらない”空気が、教室の隅にたまっている。
治人はそれ以上、何も言わなかった。
青木もまた、言葉を探すでもなく、ただその間を受け入れていた。
——そういうところだ。
たまに、誰よりまっすぐで、誰より不器用なところ。
 




