旧校舎の猫である。まだ名前はない。
放課後。
猫のことを職員室へ報告すると、対応は思ったよりもスムーズだった。
「えぇ、旧校舎ですか……確かに立ち入りは禁止ですが、動物がいるとなると話は別ですね。保護団体に連絡しておきます。」
教師の冷静な反応に、伏見は何度も頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました……」
「まあ、次からはちゃんと相談してね」と、教師は柔らかく諭すように言った。
一件落着。そう思えた。
校門を出て、帰り道。
馬場、治人、伏見の三人は並んで歩いていた。斜め後ろには青木と諸星。夢咲は文化部の仕事で遅れていた。
「結局、隠れて餌あげてたのか。やるじゃん、伏見。」
馬場がからかうように笑うと、伏見はふっと表情をゆるめた。
「でも……怒られるかもって、怖かったです。」
「そりゃ怒るよ。危ないし。……でも、ちゃんと理由があるなら、それでいい。」
治人の言葉に、伏見は驚いたように彼を見た。
「古賀先輩、優しいですね。」
その目がまっすぐすぎて、治人は少し視線を逸らす。
「べ、別に……普通だよ。」
横で青木がちらりとその様子を見て、ほんの少しだけ、表情を曇らせた。
その翌日。
昼休み。
いつものように、クラスのざわめきの中、治人たちは弁当を囲んでいた。
「伏見ちゃん、今日は購買行ったのかな?」
青木がぽつりと聞くと、諸星が首を横に振る。
「違う、さっき教室出てったよ。一人で。」
「え?また?」
馬場は黙って席を立った。
「……行ってみる。」
治人もつられるように立ち上がる。
「俺も。」
「待って、気をつけてね」と夢咲が微笑んで送り出した。
旧校舎。
扉の前まで来たところで、馬場が小さく手を止めた。
「……入るの、ちょっと嫌だな。」
「それでも行くんだろ?」
「ま、な。」
ドアを開けると、予想通りの光景が広がっていた。
埃っぽい廊下の奥、ひとつだけ開いた教室のドア。
そこには、昨日と同じようにしゃがみこんで猫と向き合う伏見の姿があった。
しかし、今日は様子が違っていた。
猫の姿は見えず、伏見の目だけが何かをじっと見つめていた。ぼんやりと、誰かを待つような、あるいは考え事をしているような、静かな表情。
「……伏見?」
治人が声をかけると、彼女は小さく肩を跳ねさせて振り返った。
「あっ……先輩、来てくれたんですね。」
「猫は?」
「……今日はいないみたい。昨日のことで、怖がっちゃったのかも……」
治人が何かを言おうとしたが、馬場が先に口を開いた。
「なんか……お前、ひとりでこういうとこ来るの、慣れてるよな。」
伏見は一瞬だけ表情を止めた。
でも、すぐに笑った。
「うーん、そうかも。ちょっと落ち着くんです、こういうところ。」
治人はその言葉にひっかかりを感じた。
けれど、今はそれを口にするタイミングではない気がして、ただ頷いた。
「……じゃあ、猫、また戻ってくるといいな。」
「はい。」
伏見の笑顔は、やけに純粋で、でもどこか遠い。
風が吹き込んだ。窓の隙間から、外の木々が揺れているのが見えた。
その音の中で、三人の影だけが古びた床に、長く伸びていた——。




