少しだけ
翌日、昼休み。
教室の窓からは、5月の穏やかな陽射しが差し込んでいる。木々の緑も少しずつ濃くなり、風がカーテンをふわりと揺らしていた。
夢咲は席に座ったまま、おっとりとした口調で弁当箱を広げていた。
「今日は購買行かないの?」青木が尋ねると、夢咲はゆっくり首を横に振る。
「ううん。昨日のうちに準備してきたの。」
それを聞いて、諸星と治人がさりげなく視線を交わす。
そして、伏見が立ち上がる。
「わたし、ちょっと用事あるんで……すぐ戻りますね!」
明るい笑顔を浮かべながら手を振り、教室を出て行った。
その一瞬を逃さず、馬場が立ち上がる。
「様子見てくるわ。さすがに気になるし。」
「俺も行く。」
治人も席を立ち、二人で教室を抜け出す。青木と諸星は少し心配そうに見送った。
廊下に出ると、伏見の姿はもう見えなかった。
「足速いな、あいつ……」と呟く馬場の横で、治人が静かに前を見据える。
二人は無言のまま、昨日のことを思い出しながら歩を進める。やがて、旧校舎へと続く通路が視界に入った。
そこには、昨日と同じように少し開いた扉。そして——中に入っていく伏見の背中。
「やっぱりここか。」馬場が眉をひそめる。
二人は声をかけず、気づかれないよう距離を取りながら、そっと後を追った。
旧校舎の中は薄暗く、埃の匂いが鼻につく。窓の隙間から差す光が、床の板の傷を浮かび上がらせていた。
ギィ…という扉のきしむ音。
その奥の教室で、伏見が何かに話しかけていた。
「……よしよし、大丈夫、もうちょっとでご飯持ってくるからね。」
低く優しい声。その目線の先に、小さく動く白い影。
猫だった。
細くて汚れた毛並みのその猫は、伏見の足元に丸くなって座っている。
馬場が思わず声をかけた。「おい、伏見。」
「えっ!?」
振り向いた伏見は驚いた顔で目を丸くする。
「……どうしてここに……?」
「こっちのセリフだっての。なにしてんだよ、こんなとこで。」
治人もそっと近づいて、猫に目をやる。
「その猫、ずっとここに?」
伏見はしばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「はい……先週、たまたま見つけて……ずっと隠れてここにいたみたいで。人に慣れてなくて、でも放っておけなくて……」
「だったらなんで言わなかったんだよ。」
「迷惑かけたくなくて……私、一年だし、勝手なことしたら……」
伏見は視線を落とし、猫をそっと撫でる。
馬場は少し呆れたようにため息をついた。
「バカ。勝手なのは確かだけどさ……困ってるなら相談しろよ。」
治人もうなずいた。
「このままじゃ、その猫だって危ないだろ? ちゃんと、先生に話そう。」
伏見は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
猫が小さく鳴いた。午後の光が差し込む旧校舎で、その声だけが響いた。
けれど治人は、ふと感じた。
——この子、ただの「いい子」ってだけじゃない。
どこか、違和感が残る。それはほんの小さなひっかかり。けれど、確かに心の奥に刻まれていた。
 




