1 どんぶらことただ流れて来て
そこは一般住宅の地下室とは思えない造りで。
大型モニターとスピーカーが設置され。真新しいミキサーが並ぶポジションに。
壁にはずらりとギター類が掛かって、電子ピアノとドラムセットも最高級。
ここだけ見たら都会のスタジオ。大阪の端っこの田舎町とは思えない。
「竜さん、今日はこんな感じで。明日のテストん時また寄らせて貰いますんで」
作業服姿のガッシリした男が、依頼主に声を掛ける。
「おう。どおもなあ。テストは晶の状況次第なんで明日にならんかも知れん。
こっちから連絡するんで待っとってくれるか?」
「はい。ただ外出とる時が多いんで。お待たせすることになって貰うたらスンマセン」
「当然やろ。他のお客サンを大事にせんとな」
「はい。お陰様で思うてたより順調です」
「ははは!そら良かったな。
そんなナリやから、客も寄って来ンか思うてたのにな」
言葉上は、依頼主と作業員の会話だけれど。
依頼者の竜太郎は、派手な柄シャツに薄い色のサングラスで。頭脳派ヤクザみたいだし。
作業服の百樹は、刈上げに金髪のマンバンと顎鬚で。まるで眼つきの悪い武闘派ヤクザ。
シチュエーションが薄明るい地下室だと。ヤバイ取引中な雰囲気増し増し。
そこへひょこっと、もう1人作業員が顔を出した。
こっちは細身でブルーアッシュに染めた長髪を縛っていて、ヤンキー崩れぽい。
ただ。眼鏡の下の、切れ長の瞳には人懐こさがあってかなり整った顔立ちだから。
他の2人よりはお客受けは良いかも知れない。
「ほんならケーブルは仮止めにしときますね。テスト後に固定しましょか」
「それでエエけど。引っ掛けンよおにしとってくれな。
晶はよお躓いたりコケたりするんや」
「判りました。ちょお余分出てまうけど。壁に沿わしときます」
「頼むワ」
作業員が床に這いつくばってケーブルを引く様子を見ながら、竜太郎は百樹に話掛ける。
「マジな話、こン場所でやって行けそうなんか?」
「はい。有難いことに1日3件は呼んで貰うてます。高齢者や戸建てが多いんで。
電気工事で一度呼んで貰うたら、二度三度声掛かるし。
じーちゃんばーちゃん繋がりで次ン家紹介して貰うたり。
ほんまこんなナリなんで。髪、黒に染め直そか思うてましたけど。
何ンやかえって面白ろがられてます。
娘とSkypeすんのに使い方判らんて依頼受けて。ニコが同ンなじ家に何回もお邪魔しとったら。
すっかり可愛がられて貰うて。そこのばーちゃん、白髪にニコみたいなメッシュ入れてもて。
2人のピース写真を娘ン送った言うてましたワ」
「ははは!そらエエわ!孫扱いやな。
土地に根降ろして生活造り上げて来た年輪持ちは強いモンな。
オレらみたいな根無し草相手に、何ンも怖ぁ無いんやろな」
ゴツイ体格の百樹は声を上げて笑いはしないけれど。
少し口角が上がった笑みになって。照れたように顎鬚をちょいちょいと掻く。
その左小指は短い。テーピングで誤魔化してはあるけれど。
静かに防音扉が開いて、高校生くらいの男子が顔を覗かせた。
「竜ちゃん、設置終わった?
みんなで食事するのにお寿司何人前注文すればイイのかな?って晶がウロウロしてるよ。
晶に注文させると、またすごいコトになっちゃうから。竜ちゃん見てあげてよ」
「そらヤバイな。
どおや?2人とも飯食う時間あるんか?」
「すんません。せっかくですが次の予定あるんで」
「そおやろな。ほんなら飯は次の機会や。そン時はちゃんと旨い療養食準備しとくワ」
「ありがとうございます。せやけど体調もしっかり安定しとるんで。
お気遣い頂くんは勿体無い話ですワ」
大きな身体を2つ折りにして、百樹は深々と竜太郎に頭を下げた。
後部スペースにぎっしりと工事道具やケーブルなんかを詰め込んだミニバンに乗り込み。
百樹と似古は能良家を後にした。
「すごい家やったなあ。
もおバンドは解散したんか思うてたけど。また復活すンやろか?
オレ古いCD持っとおんで。晶さん、今度サインしてくれへんかなあ」
ハンドルを握る似古はウキウキ声。
「晶さんに直接モノ言うなや。竜さんに筋通せよ」
「えっ!無理無理無理!あン人に話なんか出来んワ!
オレ、よおミキシングスペースから出られんかった。竜太郎さんの圧にビビったもん。
過去形の噂しか知らんけど。あーゆー判りにくい人はマジ怖い。
絶対怒らせたらアカン人やろ。お近づきにはなりたあナイ人や」
「まあ否定はせんけど。
そンでも必ず筋通っとお人や。ちゃんと正面から話すれば、聴いてくれる人やで。
オレみたいなんでも場所借りて商売成り立っとおんのは。竜さんのお陰や」
助手席で目を閉じながら、百樹がゆっくりと応えると。
似古はちょっとスネた顔になってしまう。
「そおかも知れんけど。
それだけでも無いやろ。
モモちゃんはよおやっとるやんか。1日おきに透析通って。
午後からは毎日お客さんトコ行って仕事して。
頼まれた仕事だけや無うて。棚直したり、重いベッド動かしたり。優しいやん。
せやから見た目カンケー無しに、お客さんも増えてきたんやろ」
「愛想のエエおまえも居るしな」
百樹は指を伸ばして、似古の左耳にある銀のフープピアスにちょいと触れる。
「お客ンとこ着いたら起こしてくれ」
「家戻って休んだ方がエエんちゃう?」
「配線にタンス動かす予定やから、オレも行かんと」
「ん。なるべくスムーズに済まそおな」
似古は薄くて形の良い唇をきゅっと結び、ナビに従ってハンドルを切った。
古い畳敷の部屋なので、鍵付きのドアなんか無い。
黄ばんだ襖がスパーン!と開かれると同時に大きな声が響く。
「ほれ百架!起きんか!遅刻するで」
「ああ?」
スマホのアラームはまだ鳴ってない。
クセ毛でぼさぼさくるんくるんな髪を掻きながら、百架は布団からにじり出て。
仁王立ちの祖父を見上げる。
「自転車のパンク直してへんやろ。走っても学校ギリギリやろが」
「げっ。そおやった」
「編入したてで遅刻すんなや。
雑煮作ってあるんで、しっかり餅食って行け」
「朝から餅…腹重いワ」
「あほ。餅やから、腹持ちエエんや。シャレちゃうで。
おまえン父親は、毎朝餅食うて出掛けとったワ」
毎朝トレーニングを欠かさなかったアスリートの父親と一緒にすな、と思いつつ。
百架は大きな身体をノソリと動かして、起き上がろうとしたら。
その背中と肩にキジトラ2匹がジャンプ。
「いっ痛ててっ。ちょお爪立てんなや」
「早お起きて。そいつらにも朝飯やったって」
1匹はポンポンみたいに短く丸まったしっぽを百架の顔に押し当てて来て。
もう1匹は長いけれど先っぽが曲がった鍵しっぽ。それで背中をべしべし叩く。
「学校行くワケちゃうんに。何ンでおまえらはそお早起きやねん。
母ちゃんは?もお出勤したん?」
「夜勤やから帰って来てへん」
「あーそやったなあ」
鍵しっぽに緑色の瞳の『ずんだ』も。丸しっぽに褐色の瞳の『みたらし』も。
すごく懐っこくて、普段なら母親にべったりだけど。
看護師で忙しい母親が不在の時は仕方ないと思ってか。百架に絡んでくる。
この春、高校進学に合わせて母親と百架は祖父宅へ引っ越して来たばかり。
まだろくに知り合いも無いツマラナイ日常の中。
ずんだとみたらしの存在だけは温かくて。大事にしたい。
「しゃあないなあ。起きるかあ」
2匹を肩に乗せたまま、自分の布団を丸めて壁際に寄せると。
百架はのっしのっしと台所へ向かった。
今回の引っ越しの理由は、母親曰く。
早くに祖母が亡くなって、長く独り暮らしの祖父がそろそろ心配だからとか。
祖父宅の近くで、母親にとって今より好待遇の勤務先が見つかったからとか。
父親の新しい勤務先が神奈川で、単身赴任するしか無いからとか。
色々と事情が重なったコトもあるけれど。
その存在すら知らなかった、母親の弟のコトが一番の理由だと。
百架は思っているし。そう思いたい。
「あんなあ。
今まで言うてへんかったけど。あんたには叔父さんがひとり居るねん。
つまり私の弟や。ヤンチャが過ぎてな、高校卒業前に家出して貰うて。
その先は何処で何しとるんか全然知らんかってんけど。
この間、病院の知り合い絡みで近況が耳に入って来てなあ。
腎臓病が進行しとって、血液透析しとるらしい。亡くなったばあちゃんと一緒や。
じいちゃん家の近くの総合病院は、ばあちゃんも最期までお世話ンなったトコやし。
弟もな、こっち来させて。まあ目ぇ届く範囲で生活して貰おかて話なったんや。
弟のな、身勝手さは今でも腹立つけど。
私も職業柄その大変さが解るし。
何よりじいちゃんが、ばあちゃんと同じ病気で苦労する姿を放っておけへん言うし。
そやから私はじいちゃん家に行って。弟の様子見ながら仕事するつもりやけど。
あんたはどおする?お父さんと一緒に神奈川行くんも有りやで?
そしたらこれからもハンド教えて貰えるで?」
それまで他人事みたいに聞こえていた母親の話だけど。
最後の一言だけが百架の心臓に突き刺さった。
「行かん。もおハンドは辞めたんや。
オレは父ちゃんとはちゃう。いつまでも結果の出えへんコトに時間使うつもり無いワ。
現実見て。高校卒業したら手に職付けて。まともに生きるワ」
「親に向かって!何ンよ!その言い方っ」
そこからは気の強い母親と大喧嘩になったけれど。
父親はちょっと寂しい笑みを浮かべながら、母親を慰めて。
そして反論は一言も無く、ただじっと。そっぽを向いている百架を見つめていた。
百架の父親は、一度だけ日本代表にも選ばれたコトがあるハンドボール選手。
でもずっと控え選手で、代表の公式戦には出ていない。
それでもHBが好きで好きで。
実業団で競技を続け。それも契約終了になってからはクラブチームでコーチ兼選手になり。
昨年とうとう引退した所で、神奈川のHB有名高校の助監督として声が掛かった。
HBを続けられるならと、父親に迷いは無かったし。
ずっと父親を応援していた母親はバンザイ三唱で大賛成。
でも百架は複雑なキモチで。それはどちらかと言うと、怒りに似たキモチ。
だから引越しの理由を突き詰めると。父親を否定する言葉ばかり出て来そうで。
もう何も話したく無くて。
父親が神奈川へ出発する日も、玄関のドアが閉まるまでそっぽを向き続けた。
振り返ると、ずっとHBは身近だった。子供の頃は地元クラブに入っていたし。
父親の実業団戦を観に行ったり。家族で衛星放送の海外リーグを大騒ぎで観戦したり。
好きであればある程、段々と現実が解ってしまう。
どれだけ一生懸命やっても。一握りのスーパー選手とその他の違いは歴然で。
どれだけ時間を掛け、収入や立場を犠牲にしても。手が届かないモノは遠いまま。
いつかは自分で、夢の最終回を決めなければいけない。
それが現実社会で生きると言うコトのはず。
(母ちゃんがじいちゃんと同居すんのは、生活費を押さえる為やろ。
わざわざ勤め先変わるんは、父ちゃんが家族の為に稼ごうとせんからや)
そお思い始めると。
何ンだかもおむしゃくしゃして。
引越しの時にHBのシューズもウェアも何もかも。ゴミ袋に突っ込んで捨てて来た。
そのゴミ袋には、父親との思い出も押し込んだつもり。
(父ちゃんも。いつまでもあんな父ちゃんを応援しとる母ちゃんも。大アホや。
何ンでいつまでも。エエ歳なっても。ヒトリ勝手に夢ばっか追いかけとるんや。
全然理解出来ん!オレはそおは成らん。いつまでもアホのままで居られるか!)
だから、誰も知り合いが居ない場所なら。過去と繋がらない場所なら。
新しく何かを始められるはずと、この地方都市の男子校へ編入したのだけれど。
そう簡単に心機一転とはならなかった。
祖父宅には、父親現役時代の試合がビデオテープで残っているし。
父親が自主練出来るようにと、畑の一部を潰して作った芝の練習場がそのままだし。
何かにつけて祖父は「おまえの父親は昔はな」とイチイチ比べて説教するし。
そして何よりも。
編入早々からHB同好会の部員達に入部を迫られるのがホントにうざい。
今日登校して。どうやったら部員と鉢合わせせずに済ませよか。
みたらしとずんだの皿にカリカリを盛りながら、百架ははああとタメ息をついていた。
「おにしまくーん。探しとったんやでー」
「今日な、おじいさんの練習場使わせて貰う日やねん。一緒に練習しよおや」
休み時間は教科室に居残ったり、裏の駐輪場で時間を潰したり。コソコソしたけれど。
とうとう昼休み、百架は同学年のHB部員に捕まった。
「こないだも言うたけど。オレもおハンド辞めたんで」
ほんとは、構うなボケ!と押しのけたい。でもさすがに編入生の立場だから我慢する。
中高一貫のこの学校で、今年の高校編入は6名だけ。無益に敵は作りたくない。
そんな渋い表情の百架を3人が取り囲む。
大中小と身長はバラバラだけど。3人とも俊敏そうな体つきで如何にもコートプレーヤー。
GKをしていた百架は、3人に比べるとひときわ身体が大きくて。
だから同好会メンバーにとっては、百架が経験者と言う理由以外にも。
この恵まれたフィジカルを戦力に加えたいと思うのは当然だった。
「せやけど他にするコト無いやん?暇やろ?
鬼島のじいちゃん家の周り畑ばっかやし」
「そおそお。
鬼島くんは立っとるだけでエエし。オレら勝手にシュート練習しとくんで」
言葉穏やかに誘いつつ、猿橋と犬塚はじりじりと距離を縮めて来るし。
背の低い雉場だけは無言でずっと百架を見上げて睨んでるし。
視線を逸らし続けていた百架も、そろそろ限界。ムスっとした声で言い返す。
「ほんま、こないだも言うたけど。
ガキん時のコトとかよお覚えてへんし。高校ンなってまで引っ張らんでもエエやろ。
どっちか言うたらオレ。
ハンドばっかしとったコト後悔しとるんや。
中学まで続けとっても、何ンかが手に入ったワケちゃうし。
これからはバイトもして。無駄に使うて来た分を取り戻すんや」
「ほんっまにヤな奴なったなーーー!」
雉場が爆発したような大声を上げたので、他の生徒からも一斉に視線が集中する。
それでもお構いなしに雉場はプンスカ怒る。
「夏休みも冬休みも。おまえがじいちゃん家に来る時はいっつも。
おまえが先頭切ってボール回しとったやないか。芝生で擦り傷だらけンなっても。
大声掛け合うて、笑うて。
そんでヘトヘトんなったら、ばあちゃんが焼いてくれた餅みんなで腹いっぱい喰うて。
ほんでまた次の休みな言うて。おまえが来るン楽しみにしとったのに。
カンタンに後悔とか無駄とか言うな!ボケっ!!」
溜め込んでいたムカツキを一気に吐き出したかと思うと。
まるでDFを突破するように、雉場は体を当てて百架の脇をすり抜ける。
そして無様にも。百架はそのボディコンタクトでよろけてステーンと転がった。
それは。
つい雉場の視線と足先向きに反応してしまい、百架が少し右荷重になったところで。
フェイントで、雉場が予想とは逆の左側をすり抜けたから。
ひっくり返った百架はめちゃめちゃ恥ずかしくて、額に汗が浮かぶ。
(あ、あんなベタなフェイントに引っ掛かって貰うた…)
同じように猿橋も犬塚も、この展開が意外過ぎて。気の毒そうに百架を見下ろす。
「ハンド辞めたンほんまやねんなあ」
「めっちゃ錆び着いとおやん。せっかくなあ…何ンや勿体無いなあ」
助け起こそうと伸ばされた猿橋の手を払い。百架は2人に背を向けて教室を出る。
(そおや、どおせ。オレはこの程度や。
もおコレであいつらも声掛けて来えへんやろ!)
このところ波のように繰り返していたイライラがMAXに膨れ上がる。
いったい。いつまでこんな惨めなうねりの中で溺れていないといけないのか。
何もかもイヤになって。百架はそのまま午後の授業をフケて家へ帰った。
祖父が、父親の為に造ったHB練習場を横切る。
よく手入れされた柔らかい芝生に、紅白縞のゴールポール代わりの木枠。
確かに子供の頃、里帰りするとココで近所の子達と遊んだけれど。
相手の顔も名前ももうぼんやり。その中に雉場が居たかどうか覚えていない。
どうして今でもこんなに整備しているのか、引越した時は不思議だったけれど。
HB同好会の練習場として開放しているらしい。
メンバーは中学生7名高校生6名で、高校公式戦には出られないし。
学校の体育館は週1回しか使えない。
唯一のGKはまだ中等部生だから。身長がある猿橋が臨時GKする状態だし。
(楽しいだけのオママゴトやんけ)心の中で毒付くけれど。
そんなメンバーに転がされてしまったのは、自分だから。ただただ情けない。
(放課後、あいつらココ来るんなら。今のうちにパンク直さんと)
祖父に見つかると学校サボリを怒られるので、そおっと車庫へ回る。
そして通学チャリと、パンク修理用のパッチや空気入れを外へ持ち出そうとして。
車庫の裏手でひとりの男と鉢合わせてしまった。
「あ、も。百樹さん…」
「何ンや。こんな昼間に。フケて来たんか」
口元は軽く笑っているけれど。百樹の細めた瞳が鋭く突き刺さる。
身長はほぼ同じなのに。母親の弟と言うこの男は威圧感がスゴくて。
引越してから数回は顔を会わせていても、未だに百架は固まってしまう。
今も返す言葉が見つからず。ただ緊張の生唾をごくりと飲み込む。
「チャリの、パンク直さんといかんので…」
ごにょごにょと小さく応えると。百樹が1歩足を進めた。
「パンク?見せてみい」
「やっ!別に。自分で出来るンで。エエですからっ」
「せやけどソレ、レンチ2個要るやろ。
反対側から固定せんとハブ外せへんタイプや。
さっきフェンス修理すンに工具箱、向こう持ってったんで。ちょお待ち」
古い通学チャリの後輪をじっと見て、百樹が表の庭の方へ行こうとしたら。
反対側からもうひとり男が出て来た。
「モモちゃん、呼んだ?」
その人物と真正面から目が合って。百架の心臓は一瞬止まった。
ずっと汗まみれでHBばっかりやって来て。
今の学校も、マジメで明るく一生懸命な奴らが多くて。
何ンと言うか。まあ地方都市の健全な男子学生な毎日。
そんな百架の日々に、この2人は今まで知らなかった空気を持って来た。
叔父が裏社会の人物みたいな迫力が有るだけでも、ドラマっぽいのに。
目の前に居る男は、更に非日常的で。
びっくりするくらい整った顔で、切れ長の目には甘い色気が漂っている。
このところ何かにつけてイライラしてカッコ悪い自分を感じていただけに。
何ンだかこの2人だけが特別な登場人物に感じて。
そして益々自分がドンくさくて、この状況に相応しくない脇役に思えて。
百架は恥ずかしくて動けない。
「このコがモモちゃんの甥っ子なん?
背え同んなじくらいや。大きいな。それより何より声がよお似とお。
オレ今モモちゃんしか居らんで、オレんこと呼んだんか思うたのに」
「ああ。レンチが2個言うたからな」
百樹が小さく笑う。
「甥っ子くんも名前に『百』付くん?」
「おう。ももか、や」
「うわ混乱しそおや。おじいさんが百成さんで。お姉さんが百枝さんで。
モモだらけやあ。
ももかクン。オレな、モモちゃんと一緒に仕事しとお似古言うねん。
話には聞いとったけど。初めましてやんな。よろしくなあ」
美形が笑顔を作ると。その切れ長の瞳が艶ぽく細められてなまめかしい。
その妖しい雰囲気を断ち切るには、もう視線を逸らすだけでは足りなくて。
百架はぷいと斜め下に首を曲げてしまう。
「ニコ、おまえのヤンキー崩れなカッコに拒否反応や」
「えええ?どこがアカンのやろ?オレ怖あ無いんやで。ほんまに」
「これ以上悪い印象残す前に帰るで。じいちゃんに挨拶して来い」
「印象悪いンはモモちゃんだけやろ。ほんならまたなあ、ももかクン」
ひらひらと手を振ると。2人は並んで母屋の方へ行ってしまった。
無言のままそおっと顔を上げて、百架は2人の後ろ姿を見送る。
(結構歳離れてそおやのに。仲良えンがよお伝わって来んなあ)
そんなコトをぼんやり思いながら母親の話を思い出す。
叔父には男性のパートナーが居て、もうずっと長く一緒に暮らしている。
腹膜透析をしていた頃はその補助もして、叔父に寄り添ってくれた人。
だから祖父宅の近所に呼び寄せるにしても。
2人一緒に暮らせる状況を用意せんとなあと、祖父と母親は話していた。
(あのヒトが。叔父さんのカレシなんかあ。
あーゆーヒトなら。確かにスキになってまうかも知れんよなあ)
その後も、なかなか百架の心臓はドキドキが収まらなくて。
手慣れているパンク修理がいつも以上に時間が掛かってしまった。
夕方になると。
ほんとにHB同好会の連中がランニングしながらやって来た。
荷物運ぶ係の5台のチャリは、前カゴと荷台にカバンやリュックが山盛り。
じいちゃーんこんちはー!今日もありがとおございまーす!
そんな挨拶をしながらストレッチを始め。コーンを並べてステップターン。
元は畑だった場所だから土は固過ぎないし。
よく手入れされた芝生は平に切り揃えられて、程よい柔らかさ。
ちゃんと軸足が安定するので、みな思い切ってステップ踏んでジャンプ出来る。
同好会メンバーが到着する前にパンク修理を終らせて。
百架は2階の窓から少しだけ顔を出して、練習風景を見下ろしている。
頭の上にはみたらしが乗っかって。百架のくるくるクセ毛で遊んでいるから。
多分連中からは、窓際の猫だけが見えるはず。
(さすがに雉場は一番上手いワ。
猿橋はなあ、いくら即席GK言うても。ちょお使えんよなあ。
正GKは…アレ中等部か?まだまだパワー足りてへんな)
正式な学校部活動では無いから、大会には出られないし。
せいぜい地域クラブのリーグ戦に参戦するくらい。
そんなレベルで一体何が楽しいのやら。何ンのために練習するんだか。
ついついムッツリ顔になって。批判的な言葉ばかりが百架の頭を巡る。
(こんな大声出して。ご近所さんからクレーム出るんちゃうか?)
メンバーがあまりにも活き活きと盛り上がって動き回っているので。
更に意地悪な思いになっていると。
背後でスパーン!と襖が開けられる。
「百架っ!ボケっとしとんなら手伝え!餅丸めるでっ」
「痛っ」
「みゃああああ!」
振り返ると。祖父がねじり鉢巻きに割烹着姿で仁王立ち。
襖の音にビビったみたらしの爪が、百架の頭皮に突き刺さって。プチパニック。
(くっそおおお。オレに安住の地は無いンか!)
髪に手を突っ込むと少しだけ出血したようで、指先にべたっとした感触。
この古い家は。手を洗うのも頭の様子を見るための鏡も、1階に降りるしかない。
百架はそろーりと階段を降りて、居間を横切る。
居間の広いガラス戸の向こうには、練習場で駆け回るメンバーが見えて。
何故か居間では、ご近所のじいちゃんばあちゃんが4,5人お茶を飲んでいた。
「あらあ。百枝さんトコの。暫く見ンうちに大きなったねえ」
「何ンや2階に居ったんか。
ココで一緒に子供らが頑張っとおの見おや。こっちまで元気出るでえ」
「なに誘おてんの。ワタシらの方が鬼島さん家にお邪魔しとるんに。
それに、このコもまだ子供やんなあ?
こんな時間に部屋居るて、アレやんな。にーとってヤツなんな?」
返事をする間もなく、おしゃべりの渦に巻き込まれる。
げんなりしている百架に、今度は台所の方から祖父の声。
「早よお手伝え。餅が固あなってまうやろ」
逃げるように台所へ向かうと、ほんのり甘い蒸しもち米の香りが充満している。
ちょうど祖父が、電動餅つき機から湯気立つ塊をのし板へ降ろしていた。
「ほれ。手え洗って。千切って丸めろや」
「こんなに誰が喰うん?」
「あの子らや。練習ン後腹減っとおからな。
いっつもご近所さんと餅喰ってから解散するんや」
「全然関係無い奴らやで?何ンでそんなコトまでするんや」
「寝ぼけとんのか。めちゃめちゃ関係あるやろ。
ウチの練習場使うてくれとるんやで。ここでハンド続けてくれとるんやで。
フツー応援したあなるやろ」
「ならんワ。そんなん」
「まあエエから、とにかく熱いうちに丸めえ。おまえにも喰わしたるし」
百架は、相変わらずムシャクシャした気持ちだけれど。
食べ盛りにとって、ホカホカの香りと出来立てヤワヤワな餅の誘惑には勝てない。
むすっとした顔のまま祖父の横に並んで、餅を丸めて並べる。
「小さめにな。喉詰まらせんようにな」
「味付けどないするん?」
「ご近所さんが色々持ち寄ってくれとお。冷蔵庫に有るヤツ出してくれ」
指示されて冷蔵庫を開けると。ずらりと大小色んなタッパーが並んでいる。
どうやら練習後の餅パーティーは、ご近所さん達のお楽しみでもあるらしい。
(練習騒音のクレームどころか。サポーターやな)
呆れてしまうけれど。
粒コーンが入ったカレーソースなんてのも有って、百架のお腹も鳴り出した。
冷蔵庫からタッパーを出して、大きなトレイに並べていると。
「あ、ソレはちゃう。
後でニコちゃんが取りに来るんで、しまっとけ」
「え?似古さんが?」
「百樹の飯や。療養食の配達弁当使とおらしいけど。アレ飽きるからな。
昔ばあさんと一緒に考えたメシの作り方を、ニコちゃんに教えとるんや。
今まで料理したコト無い言うて。卵もよお割らんかったのに。
時間作って、真面目に習いに来とる」
祖父の説明を聞いて、百架の心臓がまたドキドキし出す。
この台所に、さっきのほっそりした後ろ姿が立ち。包丁を使ったり、鍋をまぜたり。
そんなシーンが頭に浮かぶと、何故か身体が熱くなる。
「おらさっさとせんか。冷蔵庫開けっ放しすんなや」
このタッパーを取りに、もう一度似古さんが来る。
料理を習いに、これからだって似古さんと会える。
そう思うと。
これまでずっと何かにつけて、イライラむしゃくしゃしてた百架のキモチが。
急にすっきりして。ふわふわと軽く浮上した。
「なンやあ。餅喰うンだけは、登場すンのかあ」
「オレが丸めた餅やで。喰う権利はあるやろが」
「ちゃいますーコレは部活のご褒美ですー。食べるンやったら、同好会入れや」
「おまえらこそ、ずうっとハンドばっかで飽きへんのか。
カノジョ作りたいとか、バイトで何ンか買おとか思わんのか」
「ソレはソレ。コレはコレ。スキなもんはスキなんや」
練習が終わって、メンバーは庭のあちこちに座って餅をもぐもぐ。
トッピングが10種類もあるし。部活後の腹ペコ食べ盛りが13人居たら。
一升近くあった餅もどんどん消費される。
明太子マヨネーズ山盛りな餅を頬張りながら、犬塚が笑う。
「そらなあ。スキなコトに才能があったら良エやろけど。
別に才能が無うても、スキになるもんやしな」
「そおやそおや。
理由付のスキなんて、逆にな。理由が終わったらどおなんねん。て思うワ。
単純に面白ろいー!楽しー!言うんが最強やろ」
「せやけど。
そんなん単なる自己満足やろ。何ンの得も在らへんやん」
盛り上がった雰囲気に合わせるつもりだったけれど。
あんまりにも犬塚達がノーテンキに笑うので。つい百架は嫌味モードになる。
でも雉場はもう怒らない。
「さっき、じーちゃんから聞いたけど。
父親が神奈川でコーチしとるんが、気に入らんのか。
せやけどソレは父親の事情やろ。
おまえンことと、ごちゃまぜにすんなや。
おまえがハンドしたいかどうかだけやろ。
誰かてなあ。どうにか出来るンは自分の生き方だけで。他人の生き方まで責任持てん。
親に言われたからハンドやって。親が遠く行って貰うたからスネて、ハンドやらんて。
そんな自分の生き方を、他人任せにする方が大損や。時間の無駄で、何ンも残らんワ」
「雉場きついー」
さすがに犬塚も猿橋も苦笑い。
そして百架の頭には、ゴミ袋に入れて捨てて来たHBシューズやウェアが思い浮かぶ。
もう何も手元に残ってない。
それは誰のせいでも無くて、自分でゴミ袋に入れて捨てて来た。
「それはまあ、そおなんやけど」
自然と百架の口からぽつんと声が落ちる。
(今のオレがしたいコトって何んやろ?それが中心になって生活が回る程スキなモンて?
そんなん、もう1回見つけるコト出来るんやろか)
同好会メンバーは餅を食べ散らかしただけでは無くて。
皿洗いや後片付けもきっちり手伝ってくれたし。
同じ方向に帰るばあちゃんに付き添ったりして。また来るんでな!と賑やかに解散した。
「餅旨かったか?」
「そらあまあ。出来立てやし」
「ようけでワイワイ言うて喰うんやからな。何倍も美味しなるワ。
ご近所さんも優しいし。あの子らあも楽しいて良えコばっかりや。よお解ったやろが。
何ンも、おまえを焦らすモンは無いんやし。良し悪し言うヒトは居らん。
暫くは、こンのんびりした場所でゆっくり考え。
色んな事情が重なったンでしゃあ無いけど。
おまえも結構振り回されとお側やからな。
でもまあ大丈夫や。
何ンも無い言うんは。これから何ンでも始められる言うコトやしな」
「なんやソレ」
「残った餅はラップで包んでくれ。それも渡すンで」
「渡す?」
祖父との会話にちょっと温かさが灯った、と思ったトコロに。
玄関の重い引き戸が開く音が響いて。百架は総毛立って弾けた。
その音には似古の声も混じっていたから。
「こんばんはー。遅おなってすみませーん」
「おう、待っとったでニコちゃん。こっち台所や」
とととと軽い足音が近づいて来て、似古が顔を出した。
足元には、みたらしとずんだがすり寄っている。
「あれ?百樹は?」
「ちょおっとシンドそおなんで。家で寝てます。
明日朝イチで病院やから、今晩だけ我慢せなあかんけど。心配掛けてすみません」
「そんなら丁度ええワ。
これから料理したら、ここで一緒に喰うて帰り。
家帰ってヒトリで飯するんも面倒いやろ」
「わ。ええですか?ありがとうございます。百架くんにもな、お邪魔してゴメンな」
ふわりと微笑む似古は、ざっくり編の薄いニットを着ていて。
それがまた首回りが広く開いたデザインなので、滑らかな肌と鎖骨が丸見え。
仕事着の時は縛ってあった髪も流していて、細い首筋を際立たせている。
百架は吸い込まれるように見つめたまま、目を逸らせない。
「あ、これ。気になるんや?」
似古は楽しそうに笑って、前髪を留めているピンを指差すと。祖父も笑う。
「ニコちゃんマークの髪留めや。ぴったりやな」
「今日仕事行ったお客さん家に、小学生の女の子が居って。くれたんです。
ね。ええでしょ」
「眼鏡…」
「ああ。アレは伊達やねん。
オレちゃらく見られてまうんで。仕事中は眼鏡してデキルヒト風にしとるんや。
せやから眼鏡無しでも運転とか問題無いで」
そお言われても。と百架は思ってしまう。
眼鏡が無いと、切れ長の色っぽい瞳と直接視線が絡まってしまって。困る。
「あの、オレ。洗濯物片付けてくるワ」
「おう。みたらしとずんだのトイレ掃除もしといてくれ」
いつもなら文句を言うトコロだけれど。
今はただこの場を離れたくて、百架はドタドタと台所から抜け出した。
祖父と似古が並んで台所に立って、料理を始めたので。
洗濯物をたたみながら、百架の耳はダンボになる。
「ばあさんの家系は高血圧でな。ばあさんも、それが原因で腎臓悪うしたんや。
腎臓病そのもンは遺伝せえへんらしいけど。
百樹の病気は、高血圧の体質を受け継いだせいかも知れんなあ。
それにどうせ。悪さしとった頃はきっと生活も荒んどったやろし。
あいつが今通院しながら、電気工事の仕事するとか。想像もしとらんかったワ」
「そおですかあ?
初めて会うた時から、モモちゃんは嘘の無いエエ人でしたよお。
オレん方がよっぽどヒドイ生活しとって。
モモちゃんが一緒に居ってくれるンで、こんな普通の生活出来るよおになったし。
ほんまに今、毎日が平和やし。みなさんに感謝してます」
「そおや。感謝言うたらな。
ニコちゃんの顔見るンが楽しみになっとるて。よお言われとおで。
ご近所さんも、そこン家の嫁さんも。今日は居るかな、言うてウチ覗きに来るしな。
駅前通りの店にも、ニコちゃん目当てのお客が居る言うし。モテモテやな」
「こんな色に髪染めとおのが珍しいだけやと思いますよお」
そんな軽い世間話に耳を澄ませながら。百架は、胸の奥がムズムズする。
(そおか、やっぱニコさんは誰から見てもキレイなんやな。
そない思てるんはオレだけちゃうんや。
それに百樹さんのカレシやから、オレとは親戚みたいなもんやし。
もっと仲良おなれるやろか。オレから話し掛けてもエエやろか)
母親の百枝が仕事から帰ったところで、4人で和やかな夕食。
似古はホントに気配り上手で。祖父も母親もすっかりご機嫌。
「ロクに喋らんでデカイ図体が邪魔くさい百樹や百架より、よおっぽど。
ニコちゃんの方がエエ子や。ニコちゃんが息子か孫やったら楽しいやろなあ」
「もお息子みたいなモンやんか。百樹のお相手なんやから。
私ンことお姉さんて呼んでもエエんやで~」
そんな夕食の後、祖父と母親がタブレットに見入ってるので。百架も覗いてみると。
それは懐かしいHBの試合で、父親が日本代表のユニフォームを着ている。
祖父宅に山と積まれてあったビデオテープをニコが加工してくれたもの。
「一番気に入っとおて言うてたテープをデジタル化してみたんや。
こんな感じでどおやろか?」
「いやいやいや!いつもTVで観とったヤツと別モンや。鮮明やなあ!」
祖父はまるで観客席で応援してるような興奮した声をあげるし。
百架だって目を見開いてしまうくらい、画像が明るくクリアで。動きも鋭い。
「すげえ…」
思わず百架の口からポロリと言葉が漏れて。それを聞いた似古は微笑む。
「よかった。気に入って貰えたやろか。
館内撮影のせいか全体的に暗めでなあ。
ちょおコントラスト強めにしたんで、違和感出るか思うたけど。
見にくない?どやろ?」
「全然そんなコトないです。めっちゃエエ。父ちゃんにも見せ…」
自然と出て来た言葉に、百架自身も驚いて。慌てて口をつぐむ。
その様子に祖父も母親もニヤニヤ。
「反抗期の息子は面倒臭いワあ。素直にお父さんを応援すればエエだけやのに。
なんでそお拗らせるンやろなあ」
「ふふ。思おたコト何んでも言い合えるンて、良え家族ですね」
母親の言葉で余計に、反抗心を拗らせてしまうところだったのに。
隣で似古が楽しそうな笑顔を向けてくれるので。
百架の胸の内は、イライラよりドキドキの方が大きくなってしまって。
火照る顔を隠して急いで2階へ駆け上がり、壁際に丸めたままの布団に飛び込んだ。
遅い出勤なのか、翌朝は母親もゆっくりしていて。百架の弁当を作っている。
「はい。昨日じいちゃんとニコちゃんが一緒に作ったおかずが入っとるで。
あんたにはちょお薄味かも知れんけど」
「別に。構わへん。オレそーゆーン好きやし」
「ふうん。
これからニコちゃん、ちょいちょいココん家来るやろし。お礼言うとき」
「うん」
「まあああ!この反抗期息子は。ニコちゃんだけには素直やな。
そんなら今度、動画のモデルしたったら?練習場使うトコ撮りたいんやて」
「庭の?同好会の奴らあの?」
「百樹の知り合いで、この近くで音楽活動しとる人居るんやてな。
配信動画を編集する仕事が貰えそおなんで、試しに色んな動画撮りたいんやて。
昨日一緒に観とったHB試合がテンポ良くてエエな、て言うとったし。
学校の子撮るとヤヤコシイ問題になるかも知れんけど。あんたならエエやろ」
母親の言葉に、後悔と言う重い重い二文字が百架に圧し掛かる。
「シューズ…」
「まあ、そんなコトやろ思うたワ。
勢いだけで行動して。後先考えへんもんな、あんたは。
じいちゃんに訊いてみ。ゴミ収集日はまだ先かも知れへんで」
ふふん、と鼻で笑う母親を横目に。百架は車庫にダッシュする。
そう言えば。
ボロチャリを置いている車庫の端っこに、引越の時の段ボールが1つそのまま残っていた。
もしかしてと願いながら。段ボールにうっすら積もった埃も気にせず引っ張り出して開けると。
ビニール袋にしっかりと包まれたHB用具一式が収められている。
その使い込まれた傷や汚れが何故か。古い映像がデジタル化したように、鮮やかに見えた。
翌週いつもの通りHB同好会が、祖父の練習場に到着すると。
ひとりストレッチする姿があった。百架だ。
「何ンや、そのカッコ。審判でもしてくれるんか?」
学校からココまでのランニングで、額に汗を滲ませた雉場がちょっと嫌味な言い方。
「試合もせんのに審判要らんやろ。シュート練習に付き合うたるワ」
「無理すんなや。あんだけ錆び着いとったら1本も止められへんワ。
ハンドはスピードや、反射や。あの感覚はそお簡単に取り戻せへん」
「いちお、この1週間身体動かしたからな。どこまで思い出せとおか。
まあ、やってみよおで」
にまっと口角を上げる百架の表情は、かなり挑発的だった。
練習場に来るまでに、軽いランニングは済ませているので。
すぐにコーンを並べてステップターン。段々スピードを上げて行く。
その中にしれっと混ざって走る百架に、始めこそ不可解な視線を向けていたメンバーも。
すぐにマジな目になった。
軸が強いしバネ感抜群。スマホのアラームに合わせて一斉スタートしているのに。
同じ1歩のリズムなのに。もう真後ろで追いつかれそうな圧を感じる。
水を飲んで。
パス練習のグループ分けをしながら、犬塚が百架に話し掛ける。
「マジなん?エエ感じに反応出来とるやん」
「割とマジ。ちょおっとでもエエトコ見せたい純情や」
「えー!なになになに?おまえカノジョ居るんか?嘘やろ無理やろ」
耳聡い雉場のツッコミにも。もう百架は逃げない。
「せやねん。判っとる。
絶対無理なんは判っとる。けど、何ンもやらんままやと気が済まへん。
こればっかりは、ほんまのホンキ出してみんと。
中途半端にしたら。きっと一生引きずってまう気ぃするんや」
その言葉の強さに、雉場と犬塚と猿橋は顔を見合わして。にかっと笑った。
似古が編集してくれた、父親現役の試合を百架は何度も見直した。
そして自分がゴールを背負っているイメトレを繰り返して。
手に腕に脚にボールが触れる感覚が戻って来るまで、畑の練習場で細かいステップ。
いつも踵を上げて何処にでも飛び出せる体勢は、始めはふくらはぎが攣りそうだった。
でも、父親の影響で子供の頃からやっていたHB。
すぐに身体は思い出してくれた。そうなると楽しむ感覚も思い出して来て。
父親の単身赴任とか母親の転職とか。
ごちゃまぜに囚われて来たコトがぶちぶちと千切れて、思い切り跳び上がれる。
ちょうど身長も伸び出して、このままなら180は超えそうだし。
思い切り腕を出してゴールの隅から隅まで届かせるキモチで、想う。
届け届け届け。きっと届く。
そうすると似古の笑顔まで、百架の頭に浮かんで来て。ヤル気が溢れた。
パス練習が終わると。
とうとう百架がゴール前に構え、シュート練習が始まった。
中等部メンバ-は仕方無いにしても。
高等部メンバーのシュートにも高確率で反応するので。ジワジワと全員ホンキになる。
「鬼島って。ずっとキーパーなん?」
「ガキん頃ここで遊んどった時は、そおやったけど。
地元クラブでは年上の正キーパー居るから、コートやて言うとったな」
「へえええ。そんでやろか。めっちゃコースを誘導されてまう」
「どおいう意味?」
猿橋と犬塚にとっては、百架のプレーは初めて視るモノなので。正直驚いている。
雉場から話を聞いていたものの。HBはもう辞めたと言うし。態度は横柄だし。
一緒にプレーする仲間としては無理やろ、と諦めていたのに。
それが今目の当たりにして『結構イケるんちゃう?』と頷き合ってしまう。
「雉場は本能派やからな。ピンと来おへんかも知らんけど」
自称理論派の猿橋が説明する。
「オレ仮キーパーするンで、実感しとるんや。
ゴールを守る言う動きと。わざと狙わせて止める言うンは別やねん。
鬼島はプレイヤーに狙わせるンが上手い。
まるで自分がコートに居るみたいに、シュートコースを見とるんやろな」
「えー?ソレってどおなん?キーパーなんやから、守らんとアカンやろ」
「キーパーのセーブ率だけ見たらな。
フツー3割超えるとチームは負けん。4割超えたらほぼ勝てるんや。
この1割の差がな、先に前出てボール弾ける強気で生まれるて言われとお。
守るだけやと、この1割が埋まらんのや」
「なあ。先輩に言うて、フリーコースのシュート練にしよおや。
鬼島あいつ、わざとタイミングずらして。シュート入れさせとるやろ。
逆言うたらタイミングを読めとる言うことや。
もしホンマに、攻めの守りが出来るキーパーやったら。めっちゃ頼もしいGKやで」
「あかん!判らん!おまえら日本語で話せや!何言うとるんか全然っ判らんワ!」
「まるごと日本語やボケ。雉場の頭が悪いだけやろ」
何をごちゃごちゃ言うとるんかと、雉場はムキになっているけれど。
猿橋と犬塚はかなり興奮して鼻息荒い。
高等部生だけではプレイヤーの数が足りなくて。
これまでは、地元クラブや近隣学校の部活に混ぜて貰った練習試合しか経験が無い。
このまま百架が同好会に入ってくれたら、ギリギリ7名のチームが出来る。
そうしたら今年初めての地区ブロック大会参戦だって有り得る。
練習の先に、大きな目標が見えて来た。
Tシャツの裾を引っ張って汗を拭く。
でももうそのTシャツもべとべとに湿っているけれど。
(くっそ。体力不足やバテて来た)
少し見栄を張りたいキブンもあって。百架は1時間近くゴール前に立ち続けている。
脚が重くなって来て、反応が遅くなってる自覚もある。
でも自分から疲れたとか休憩しよとか言いたくない。
フリーコースのシュート練に切り替えてから、多分3本に1本は止めているはずだから。
ここで引き下がったら負け、みたいな意地もある。
「うわあ。すうごいなあ。生シュートはめっちゃ迫力やあ」
そんな明るい声と共に。百架の視界に、私服姿の似古が入って来た。
ぴったり目のカットソーは身体のラインをなぞっているもんだから。
百架の視線と動きが釘付けになってしまい。高めのシュートが顔面直撃。
鼻血をだらだら流しながら、百架はしゃがみ込んでしまった。
タオルでくるんだ保冷剤を、似古が鼻の根元に当てて冷やしてくれる。
「ごめんなあ。練習中やのに、オレが声掛けたんで。気ぃ散ったよなあ」
申し訳無さそうに伏せられた長いまつ毛が、目の前にあって。
小さく動く唇が頬に触れそうで。両腕を出せば細い腰を抱けそうで。
百架はただただ硬直。ちょっとでも動くと、この空間が壊れてしまう。
「そろそろ血ぃ止まったやろ。その辺寝転んどけ。
ニコちゃん、もおエエから。こっちで餅準備すんの手伝うてや」
「そやな。寝転んどく方が身体楽やんな。
気い付かんでごめんな。何ンか枕代わりになりそーなン持って来るワ」
じいちゃんに声を掛けられて、似古が立ち上がったので。
反射的に、百架はその手首を掴んで引き留めてしまう。
「似古さん、あの」
「うん?」
「あーゆー風に練習しとおトコて、その。言うてたお仕事に使えそおですか?」
「え?画像編集のコト?
えええ?ソレ気にしてくれたん?気ぃ遣わせてゴメンなあ。
でもめっちゃ助かる。竜太郎さん、世界陸上の特番用テーマ曲任されとって。
せやからこおスピーディーな画像が必要らしいンやけど。
オレ、スポーツとか全然経験無いし。イメージ湧かんで行き詰まっとって」
ふわりとやわらかな笑顔を、似古は百架に向ける。
「うん。百架くんのおかげで、ちょおっと思いついたワ。
緩急付けて、そやなストップモーション加工してみよかな。ありがとおな」
「あのっ」
台所の方に向かおうとする似古の手首を、百架はまだ離せない。
「毎日練習しとるンで!いつでも来てくださいっ」
「うん。ありがとおなあ。
台所手伝うて来るワ。百架くんも食べるやろ。痛み落ち着いたら来ぃな」
「はいっすぐ行くんでっ」
仕方なく未練たっぷりだけど、そおっと手を緩めて。似古の細い手首を解放する。
そしてひとり部屋に残って、百架は掌をぎゅうっと握りしめた。
似古の骨ばった感触をじわっと思い出しながら。ふうううっと深いタメ息。
(これ、初恋やんな。オレ似古さんにマジ惚れてもたってコトやんな。
百樹さんのカレシやのに。好きンなってもどないも出来へんのに。
せやから余計に。
こおなったら諦めつくまで。思い切り、全力で。似古さんのコト好きになろ。
そんで何ンかひとつでも、似古さんに尽くすコトが出来たら。それが失恋記念や)
拗らせてスネてツマラナかった生活に。
新しい変化が芽吹いて来て。百架は最高の気分になる。
同じ時、廊下の片隅で。似古は少し暗い顔でタメ息を付いていた。
「鬼島、今度の日曜日駅前集合な。練習試合すんで」
「はあ?試合?中高混同なんてアリなんか?」
「アルか。あほ。
H市の総合体育館でな、月2でHBスクールあるねん。
今までオレら3人と2年と4人で参加しとったんやけど。
鬼島が入部したら高校でギリ7人揃うやろ。練習試合頼んだらOK出たんや。
今度の日曜大きな模試があって欠席者が多いんで。人数不足やから丁度エエて」
「模試て。3年生2人は?」
「ウチの先輩は超優秀やねん。
志望校の推薦確実やから、練習試合付き合うてくれるて」
「へえええ。アホは雉場だけなんか」
「うっさいワ!あの日は眠かったんや。
それに古文赤点でもエエんや。
オレ卒業したら、おまえンとこのじいちゃんからコメ作り教わるんやし」
最近は早めに登校して、グランドの隅でパス練習もするようになったので。
いつもお腹が空いている。だから休み時間ごとに何かを食べる。
今も教室の後ろの方で、百架と雉場はコンビニパンをもぐもぐ。
そんな状態で、昼休み後の授業で小テストが出たりすると。
教室は静か。窓際はぽかぽか。お腹はいっぱい。練習疲れも溜まっていて。
このあいだ雉場は熟睡してテスト用紙によだれを垂らし。指導室に呼び出された。
「へ?じいちゃん、とっくに米作り辞めとるで。
ばあちゃんの病気が重おなった時、看病しながらは無理やからて」
「せやから貸農園にしとるやろ。じいちゃんトコのもち米人気なんやで。
練習ン後出してくれる餅は、それで作ったヤツやし。知らんかったん?」
大きくて黒目がちな雉場の目が、意外そうに自分を見るので。
百架は言葉に詰まってしまう。
雉場が知っていて、孫の自分が何も知らないなんて。それに。
コドモみたいな雉場から、将来とか仕事の言葉が出て来るとは思わなかったから。
自分は何も知ろうとしなかった。
父親にも母親にも文句を言うばかりで。
かと言って、具体的な望みも理由もあるワケでも無いのに。
いつまでもコドモみたいに。「自分」を中心にしたくて駄々をこねていただけだ。
もっとちゃんと色んなコトを知ろう。知りたい。
そうしたらきっと今を変えられる。
百架の頭には、優しく笑う似古が思い浮かぶ。
綺麗で穏やかで気配りが細やかで。でもそれ以上のコトは何も知らない。
「まずは。ソコからやんな」
ぼそっと小さく呟きながら、食べ終わったパンの袋をぎゅっと縛った。
雉場はオレンジジュースで頬張ったパンを流し込んで、自分の席に戻る。
「駅前に7時やで。絶対遅れンなや」
「7時?早っや」
時間を聞いて、思わず顔をしかめながら。百架はふと思う。
(今度、百樹さんに聞いてみよかな。
電気工事の資格って何が有るんやろ。そーゆーの勉強する専門とかに進学したら。
将来、似古さんと一緒に働いたり出来るんやろか)
お揃いの作業着で並んで歩く百樹と似古の後ろ姿を思い出して。
そこに自分も並んでいる図を想像すると、百架の胸はドキドキ高鳴る。
どんなに満腹でも、次の授業は目が冴えて。居眠りしない気までしてしまう。