三度目の結婚ですが、ようやく幸せな家族を手に入れました。
「嫁して三年、子なきは去れ」
夫だった男は、彼の子どもを宿したという女性を片腕にぶら下げながら、下卑た顔で私にそう告げた。金色の髪をなびかせた女は真っ赤な口紅が引かれた唇を歪ませて、楽しそうに笑っている。
「えー、奥さんかわいそー。まあ、でも若くもないし、美人でもない。その上、子どもも産めないんじゃ意味ないもんね? 大丈夫、あたしが代わりにこのひとのことを幸せにしてあげるから」
子どもも産めないくせに自分の貴重な時間を浪費させたと難癖をつけられて、持参金の返却を渋られたのには驚いたけれど、なんとかお金を取り戻し私は実家に出戻った。もちろん、出来損ないの私の居場所など既にない。
「まったく、嫁き遅れがようやく片付いたと思ったら、また手間をかけさせおって」
「大変申し訳ありません。身の振りどころが決まりましたら、すぐに出ていきますので」
「当然だ、すぐにでも再婚してもらう」
「……え?」
「まさか修道院にでも行くつもりだったのか? せっかくの持参金をどぶに捨てさせるとでも?」
「……でも……あの、……いいえ」
「まったく。何のためにお前を育ててきたと思っている。せめて一族の役に立て」
どうやら私にもそれなりの需要はあるらしい。石女の後妻ならば後顧の憂いなく、体裁とともに給与の出ない使用人を確保できるということなのだろう。
実家に帰った私は、あっという間にまた別の男の元に嫁ぐことになった。
***
私が嫁いだのは、格上の侯爵家。きっと碌な扱いではないと覚悟していたものの、継子となったクララは私に友好的で拍子抜けしてしまった。とはいえ、この家庭に問題がなかったわけではない。
「まあ、クララ。今日は先生からの宿題もピアノの練習ももう終わらせてしまったのですね。すごいです」
「だって今日は、久しぶりに三人で夕食を食べられるもの。ご飯を食べ終わったら、みんなでチェスをして遊ぶのよ。ナンシーは審判ね! あと、わたしが負けそうになったらちゃんと手助けをしてね」
「私もあまり強くはないのですが。一緒に頑張りましょう!」
「おやおや、実質二対一ということかな。困ったな」
そこへ苦笑しながらでもなお涼やかな声が聞こえてくる。クララが小さな子どものように駆け出した。
「だって叔父さまはお強いもの!」
「まあ、ボニフェースさま。お早いご到着ですね」
「君たちに会いたくて、頑張って仕事を終わらせてきたんだよ」
「叔父さま、大好き!」
「こらこら、重いだろう。このお転婆さんめ」
ボニフェースさまに抱き着いたクララは、幸せそうに微笑んでいる。このふたりの姿だけ見ていれば、理想の親子とでもいうべき美しい光景だ。実際は叔父と姪という関係なのだが。クララの父親は、ボニフェースさまの兄なのである。
もともとこの侯爵家は、クララの母親が女当主だった。そこにクララの父親が入り婿としてやってきたわけなのだが、彼は結婚当初から浮気を繰り返していたらしい。向こうの言い分としては、「子種は提供した。好きでもない女と生活するなんてまっぴらだ」ということなのだそうだ。夫としても、父親としてもとんでもない男である。
それでも、クララの母親が生きていた頃は問題なかった。役に立たない夫が家に寄り付かないことを歓迎していた節さえあったらしい。侯爵家の名前では借金できないように管理した上で、ある程度自由にさせていたそうだ。
あるいは彼女は、どうせ離婚したところで別の結婚相手を紹介されるに過ぎないだけだと理解していたのかもしれない。女が自由になれるのは、未亡人になってから。けれどクララの母親は早逝してしまい、父親が男やもめになってしまった。ままならない世の中である。
しっかり者の女当主がいなくなり、残されたのは分別がつく年齢とはいえまだ成人前の一人娘だけ。ろくでなしの父親に侯爵家を食い潰されてはたまらないと、クララの大叔母が用意した新しい母代わりというのが石女のわたしだったわけだ。
「夕食までにはまだ時間があります。せっかくですから、クララのピアノを聞いてくださいませんか? 一生懸命練習していたんですよ」
「ぜひ一曲お聞かせ願おう」
「一曲と言わず、二曲でも三曲でも。せっかくですから、叔父さま。曲に合わせてナンシーと踊ってくださってもいいのよ?」
「ははは、急にダンスを申し込んだらナンシーも困ってしまうだろう?」
「ええ、そうですとも。クララったら」
こんな素敵なひとにダンスを申し込まれたらどんなに幸せなことだろう。ボニフェースさまとのダンスが実現しなかったことに胸を撫でおろし、そして少しだけ残念に思う。
私と、夫の弟と、義理の娘。不思議な組み合わせかもしれないが、三人での生活はそれなりにうまく回っていた。
***
ある日のこと。クララは、珍しく悩んでいるようだった。そういえばもうすぐ父の日だ。クララは父親代わりのボニフェースさまにお礼をしたいのだろう。
父の日の贈り物に苦労する気持ちは私にもわかる。子どもの少ないお小遣いでやりくりする難しさもあるが、大人の男性に何を渡せばよいものか。まあ、一般的なご家庭では子どもが頑張って用意した贈り物なら、それだけで喜ばれるはずだ。そう思っていたのだが。
「参考までに、今まで何をお渡ししていたのか聞いてみてもよいですか?」
「……贈り物、したことないの」
「ちょっと意外ですね」
「昔ね、お母さまに言われたの。叔父さまはお父さまとは違うから、父の日に贈り物をあげて叔父さまに負担をかけては駄目よって」
「なるほど。そういう考え方もありますね」
「それにお父さまの実家ではいっそお父さまとお母さまを離婚させて、叔父さまと挿げ替えようという話も出ていたそうなの」
「政治的には理解できます」
「でも、お母さまはお父さまがいない暮らしに満足していたわ。何より、叔父さまに好きなひとがいることをわたしたちは知っていたから」
「……そう、だったのですね」
「今年は贈り物をしてもいいかもしれないって思ったのだけれど、いざとなると難しくて……」
ボニフェースさまは、伯爵家の三男だ。継ぐ家こそないけれど、文官として王宮に勤めている美丈夫である。結婚相手には困らなそうなボニフェースさまなのだ、好きなひとどころか恋人や婚約者がいてもおかしくはない。
それなのに、ボニフェースさまが私の知らないどこかの女性と結婚するかもしれないと知ってとっさに嫌だと思ってしまった。顔も見たことのない書類上の夫よりも、日々欠かさず顔を出してくれるボニフェースさまの方が、私にとってはずっと家族に近かったのだ。
けれどボニフェースさまにしてみれば、姪であるクララのことが心配だったのだろう。継子いじめをする継母の話は枚挙にいとまがない。
三人で仲良く暮らしていたと思っていたのは、私だけだったのか。そもそも叔父と姪という血の繋がりがある中で、私だけが余所者なのだ。初めからわかりきっていたはずなのに、急に現実を突きつけられて胸が痛い。書類上の夫は、どこで何をしているのだろう。
「クララのお母さまがおっしゃっていたこともわかります。ボニフェースさまに奥さまやお子さんがいらっしゃった場合、夫や父親を盗られたような気持ちになる可能性もあるでしょうね」
「やっぱりそういうものなのね」
「とはいえ、時と場合によりますから。私は伝えてみてもいいのではないかと思います。年をとると、ああすればよかったと後悔することの方が多いです。どうせなら、一緒にお祝いをしてみましょう?」
「わかった、ありがとう」
はにかんだクララの笑みがまぶしくてたまらない。クララが幸せになってくれるのは嬉しいことなのに、急にひとりぼっちになったような気がした。ああ、寂しい。結局どこにいても、私は余りものになってしまう。実家でも、かつての嫁ぎ先でも要らないものだった。この家で、あと何年、私は必要とされるだろう。
ぼんやりとしていたからかもしれない。クララとの会話で失敗してしまったのは。
「ナンシー、母の日の贈り物って、今さら準備しては遅いかしら?」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「それじゃあ」
「お花とお菓子を準備しましょうか。週末は天気もよさそうですし、お墓参りにちょうどよさそうですね」
クララの母親の命日は別の日だ。私が義母としてここに越してきた日にクララと共に墓前に挨拶に行ったが、久しぶりに顔を出すのもいいだろう。娘が無事に大きくなっている姿を見ることは、早くして亡くなってしまった彼女にとって何よりの供養になるはずだ。
「……え?」
「どうしました?」
「ナンシーは、わたしからの母の日の贈り物はほしくないの?」
「そんなこと」
「だって、普通は自分だってもらえると思うでしょう? それなのに自分は関係ないみたいな顔をして。迷惑なの? わたしから、母の日の贈り物をもらいたくないってこと? なによ、ナンシーの馬鹿」
どんっとクララに突き飛ばされた。この家に来て初めて見たクララの涙。いつも聞き分けが良くて穏やかに笑ってくれていたから、すっかり甘えてしまっていた。彼女は無邪気にボニフェースさまに甘えているように見えて、感謝の気持ちを伝えることにだってとても気を遣っていたというのに。
形ばかりの継母である私には縁のない母の日。だから当たり障りのない返事をしたつもりだった。クララが望んでいた言葉は、こんなものではないと少し考えればわかったはずなのに。
私は自分が恥をかきたくない一心で、クララを思い切り傷つけたのだ。痛いのは突き飛ばされた身体ではなく、距離をとられた心のほうだった。
***
それからどれくらいの時間が経ったのか。座り込んでいた私に声をかけてきたのは、ボニフェースさまだった。
「やあ、今日はおみやげを持ってきたよ……って、どうしたんだい?」
「ボニフェースさま、私、クララにひどいことを」
「クララと何があったのか、話を聞かせてもらえないか」
そこで私は正直にクララとのやりとりを話すことにした。先ほどボニフェースさまに好きなひとがいるという話を聞いたばかりで、ボニフェースさまの顔を直視するのは辛い。けれど、クララのことを相談できるのはボニフェースさまをおいて他にいないだろう。
「傷つけるつもりはなかったのです。一体、どうしたらいいのか」
「考えすぎずに、今僕に話してくれたことを素直に話してきたらどうかな。彼女は賢い子だ。きっとわかってくれるはずだよ」
「そう、でしょうか。母になる覚悟もできていなかった人間が許してもらえるでしょうか」
「血の繋がった両親でさえ、失敗することはたくさんあるよ。父性がまったく芽生えない僕の兄のような人間だっている。偉そうなことを言っている僕だって、昔はどうして自分が兄の尻拭いをしなければならないのかと考えたこともあった」
「ボニフェースさまがですか?」
「今は当たり前のような顔をして君たちに会いにきているけれどね。ナンシー、突然大きな娘ができて、何の間違いも諍いもなく暮らしていくなんて無理な話だ。間違ったっていいじゃないか。失敗して、反省して、謝って、少しずつ本当の親子になっていけばいい」
私とクララと、そしてボニフェースさまと一緒に家族になれたらいいのに。こんなときにまで夢を見てしまう自分が情けなくて、頬を叩いて気合を入れる。
「大丈夫。クララが怒ったのは、君のことが好きだからだよ。嫌いなら、何も期待なんてしない。傷つくのは、それだけ相手のことを想っている証拠だ」
「ありがとうございます。いってきます」
少し驚いた顔をされたけれど、気持ちの切り替えができたことが伝わったのか、ボニフェースさまはにこりと微笑んでくれた。
***
自室の寝台でふて寝をしていたクララの元に行き、私もお行儀悪く寝転んでみた。
「ごめんなさい、クララ。私、無神経なことを言ってしまいました」
「ナンシー、本当に自分がお祝いされる可能性を考えなかったの?」
うろんな顔をするクララに、私は眉を下げた情けない顔で答える。
「ええ。まったく」
「嘘、信じられない」
「本当ですよ。私はね、ちょっと臆病なんです」
「わたしの部屋に大きな虫が出たら、使用人を呼ぶ前に倒してくれるのに?」
「これでも大人ですからね、何かの役割を果たすことは得意ですよ。お仕事をするのは、大人の当然の役割ですから。弱虫なのは、心の問題でしょうか。今までの人生の中で、悲しかったり、寂しかったりしたことが多いと、もうそんな思いはしたくないと思ってしまうんです。そしてもうこれ以上傷つかなくていいように、全部諦めてしまうんですよ」
「だから、母の日は自分に関係がないと思ったの?」
「ええ、最初から期待しなければ、がっかりすることも、寂しく思うこともないでしょう?」
「でもなんだかそれって、すごく悲しいわ」
「無条件で祝われるはずのお誕生日ですら忘れられることが多かったですから。母の日という行事で、クララに私を母として扱ってほしいなんて厚かましいこと、言えなかったんです」
どんなお祝いごとも、自分に関係ないものとして切り離すようにしてきた。そうすればいちいち心をざわつかせずに済む。
けれどだからと言って私の痛みが、クララの心を傷つけていい理由にはならない。自分からお願いすることが怖くて、けれど今こそはっきりと口にするべきだとわかっていて、私の手は小さく震えた。
「母の日の贈り物、まだ間に合いますか?」
「もちろんよ。お花もあげるし、ピアノだってたくさん弾いてあげるわ。叔父さまと一緒にナンシーは、たくさんワルツを踊るのよ」
「どうして、そこでボニフェースさまが出てくるのです」
恥ずかしい。まさか無意識の好意が駄々漏れだったのだろうか。
「だって、叔父さまのs」
「仲直りはできたかい?」
「叔父さま!」
「ボニフェースさま」
けれど、その疑問を確認することはできなかった。クララとボニフェースさまが楽しそうにじゃれ合っている。胸の中にあった寂しさはいつの間にか、どこかへ消えていた。
***
満を持して臨んだ父の日当日。屋敷ではちょっとした騒ぎが起きていた。それというのも、招待した覚えのない派手な男女が一組屋敷に押しかけてきたからだ。浮気相手を連れてくるなんて、夫は良い度胸をしている。
絵姿でしか見たことのない私の夫は、ボニフェースさまによく似ていると思っていた。けれどこうやって両者を目の当たりにすると、ふたりは全然違うことに気が付く。
「兄上、今さら何の用だろう」
「つれないなあ、弟よ」
「こうやって屋敷に乗り込んできたということは、例の書類が手元に届いたということだな」
「まったく勝手な真似を。クララの父親はこの俺だ」
「あなたが欲しいのは、わたしの父親という立場ではなく、侯爵代理という地位だって知っているのよ。お生憎さま、侯爵代理の立場はナンシーが嫁いできてからとっくに彼女に移っているわ」
「そんなことが」
「できるのよ、侯爵代理になれるのは私の保護者。それはあなただけの特権ではないわ」
それは確かに聞いていた。今まではクララの母親が離婚を望んでいなかったことで放置されていたが、後妻がやってきてからも今まで通りの振る舞いはいただけない。浮気だけでも十分な醜聞だというのにクララの父親は、とんでもないことまでやらかしていたのだ。
「そして、結婚以来ナンシーを放置し、その隣の女と放蕩にふけっていた。その上、ナンシーの実家に散々に金銭を要求。断られるやいなや、応対をしていたナンシーの父親に殴りかかったそうではないか。警邏を呼ばれて慌てて逃げたとも聞いている。これらを踏まえて、兄上とナンシーの離婚と、僕とナンシーの結婚が行われたんだ」
「偽物の家族が一体何を言っている! 第一、俺は承諾していない!」
「犯罪者の兄上に拒否権はないよ。既に兄上は、我が家から除籍されているしね」
「わたしの両親は、ここにいる叔父さまとナンシー、そしてお墓で眠っていらっしゃるお母さま。あなたは、いらない」
「ねえ、ちょっとどういうこと。結婚したら、お金に不自由しない生活をさせてくれるって言ってたじゃない。それは全部ぱあってこと?」
不機嫌そうな若い女の声。その甘ったるく甲高い声には聞き覚えがあった。彼女は私の一番目の夫の腕に絡みついていた浮気相手で間違いない。
「あら、今度もまた私の夫と結婚することになさったのですか? 酔狂な方ですこと」
「何を言っているの?」
「以前お会いした際には、私の一番目の夫の子を宿しているという話でしたが、違ったのでしょうか? まさか出産後すぐに子どもを捨てたとでも?」
まったく世間は広いようで狭すぎる。
「他の男との子どもがいたなんて聞いていないぞ」
「あの女が適当なこと言ってるだけだってばあ。それにあたしのことを愛しているんだから、別にそれが事実でも関係なくない?」
「そんな阿婆擦れ女はお断りだって言ってんだよ」
「はあ、何よ。あんたなんか、侯爵代理の肩書がなけりゃただの屑男のくせに」
「おい、俺たちをどこに連れて行くつもりだ。離せ」
見苦しい言い合いを繰り広げる二番目の夫と、二回も私から夫を寝取った浮気相手が屈強な使用人に引きずられていく。彼らは借金の返済のために、炭鉱にて働かされることになるらしい。今までのツケが回ってきたのだと思ってもらうしかないだろう。
***
「ボニフェースさまのおっしゃった通り、本当に押しかけてきましたね」
「ナンシーの家族を殴ったことで、手配書が出回ったからね。実家にも義実家にも頼れないとなると、娘であるクララの元に来るしかない。すまない、怖い思いをさせたね」
「いいえ、それはもう大丈夫なのです。ただ、この件でボニフェースさまにご迷惑をおかけしてしまったことが心苦しくて……」
クララの母が小さい娘に叔父を縛り付けないように口酸っぱく教えていたというのに、結局私がボニフェースさまの人生を狭めてしまった。私にとっては幸せな結末でも、ボニフェースさまには不本意以外の何物でもないだろう。けれど、私の横でクララがお腹を抱えて笑い出した。
「クララ?」
「やだ、もう、ナンシーったら自信がなさすぎるんだから。あのね、ナンシーが叔父さまの好きなひとなの。だから、ナンシーが嫁いできてから叔父さまはこの家に通ってきているのよ。叔父さまももうちょっとナンシーにわかるようにしなくちゃ」
「……そんな、まさか」
まさかの衝撃に頭が混乱してしまう。何を言われているのかよく理解できない。
「クララ、僕が告白する前に、一足飛びでいろんなことをぶっちゃけてしまうのはやめてくれ」
「いけない! ええとこういう時って、どうすれば。そうだ、『あとは、若いふたりでごゆっくり』であっているわよね?」
「クララ!」
お飾りの妻として愛されない結婚ばかりしてきた。ボニフェースさまとの結婚も、クララと各家の面子を守るための書類上の結婚だと思っていたし、必要があればすぐに離婚する覚悟もしていた。けれど、二度あることは三度あるということわざに怯える必要はないらしい。
「君に選択肢を与えないで結婚を迫ったことを申し訳なく思う。でも僕はもう君を逃したくなかったんだ。昔、手をこまねいているうちに君はあの屑に嫁がされてしまったから。僕の顔に見覚えはないかな。王立図書館の本の虫さん」
実家に居場所のなかった私は、ただひたすら図書館で本を読んでいた。そんな私に気さくに声をかけてくれていた文官は、ボニフェースさまだったのか。いつお会いしても大量の書類と資料でお顔が見えなかったことで、お顔を見ても気が付かなかった。
「私も、ずっとボニフェースさまのことをお慕いしておりました」
「ナンシー!」
「ちょっと、ボニフェースさま! クララが見ています!」
「そうか、ならこれでどうだい。おいで、クララ」
ボニフェースさまは私とクララをまとめてぎゅっと抱きしめてきた。ひなたの匂いのする娘と、爽やかな花の香りがする旦那さま。優しさに包まれて、私は幸福を静かに噛みしめた。
三度目の結婚で、ようやく幸せな家族を手に入れることができたのだ。
***
ちなみに元夫の話も風の噂で聞くことになった。
例の彼女と結婚したそうだが、すぐに離婚する羽目になったらしい。何でも、生まれてきた子どもは夫にまるで似ていなかったのだという。赤子の顔はすぐに変わるとは言うが、明らかに隣国の人々の特徴を持ち合わせた赤子を見ては、悠長なことは言っていられなかったようだ。
これはどういうことかと散々に責め立てたところ、翌日屋敷から煙のように消え失せてしまったのだという。その上、金目のものはすっかりなくなってしまっていたのだとか。元夫の家では、置いて行かれた赤子をどうすべきかで揉めに揉めているそうだ。
となると彼女は子どもを産み捨ててすぐに、クララの父親を引っ掛けたことになる。恐るべき体力と根性だ。まあ、もはや我が家には関係のない話だろう。
「ナンシーお母さま!」
「まあ、クララ。お顔に美味しそうなものがついていますよ」
「見てみて、お庭のいちじくでタルトを作ったの。料理長と一緒に一生懸命頑張ったのだから!」
「まあ、それは楽しみですね」
「甘さ控えめだから、ボニフェースお父さまも大丈夫よ!」
「ありがとう。それじゃあ、お茶の時間になるまでクララのピアノを聞かせてもらおうか」
「わかったわ。わたしはピアノを弾くから、ふたりはちゃんと踊ってね。新婚さんなんだからもう恥ずかしくないでしょう? それにいつダンスがお医者さまによって禁止になるかもわからないわけだし」
「もう、そんなにひとを年寄り扱いするものではありませんよ。しばらくは、たくさん踊れます」
「うーん、そういう意味じゃあないのだけれどなあ」
夫となったボニフェースさまに手を差し伸べられ、そっと自分の手を乗せる。穏やかな午後の昼下がり、屋敷の中では軽やかで楽しげなワルツが絶え間なく聞こえていた。
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