3-8. 高みを目指す
山を登るにつれて日中でも気温は下がり、夜はさらに冷え込む。そしてコンテナハウスはもちろんのこと、テントを広げられるスペースすら見つけにくくなっていく。
なんとか傾斜の緩い場所を見つけて、マジックバッグから取り出したテントの中に二人は転がり込んだ。
強い風が吹いている。明日はもしかしたら雨が降るかもしれない。そうしたらこの場所から動くことは難しくなるだろう。
「山頂まではあと二週間くらいか。んー、そっから降りるのにまた一ヶ月。思ったよりも時間がかかるけど、急いでもしょうがないか」
「雪山とかエクストリーム系の動画を見るのは好きでしたけど、自分が装備なしに登山するとは思いませんでした」
「食料はいっぱいあるし、水も出せるし、回復もできる。十分恵まれた登山じゃね?」
「確かに」
「んでもって、やっぱラーメンは正義だ」
「正義です」
毛布や寝袋に包まれて温まり、眠気に誘われてうとうととしながら会話を交わす。
回復魔法で体力は戻せても、一日中冷たい風にあたり続け、足を踏み外さないように気を張りながらの移動は疲れる。
いつもより近い場所にあるハルの存在に安堵していると、ふとハルがピクリと虚空を見上げた。そしてすぐに会話を始める。
フィーダとメラが腐海に入る日ではないのに、何かあったのかとイーズは不安に眉を顰めた。だがすぐにハルの明るい声に体の力を抜く。
「あ、うん、大丈夫。天候悪くて早めにテントに入ったから。そう。あと二週間で頂上ってとこ。
え? あ、え! マジ! うわー、うん。うん。そっか。まぁ、そうだよね。分かってる。期待はしないでおくけど。うん。
そっか。分かった。ありがと。めっちゃ嬉しい。帰り気を付けて。うん。バイバイ」
ぼてっと頭をもう一度地面に横たえ、ハルが息をつく。数秒強く目をつむり、そして再度開けた。
魔力が戻るまで休んだ方がいいとイーズが止める間もなく、ハルは口を開いた。
「イーズ、帰れるかもしれない」
「え?」
「もしかしたら、この山のてっぺんなら、火龍が降りられるかもしれない。そうしたら、火龍に乗せてもらって、南に、腐海の外に、フィーダたちの所に、帰れるかもって」
「本当に?」
「まだ、バドヴェレスが山頂に降りられるか確かめないといけないけど、可能性は十分にあるって」
「そっか。そう、ですよね。そっか……そっかぁ」
「嬉しい?」
「うん」
滲み始めた涙を隠すように、イーズは毛布に顔をうずめる。
そっと伸ばされたハルの手が、ゆっくりとイーズの髪をすく。
イーズが告白をしてから、ハルはイーズに触れるのを控えるようになった。意識してくれているんだと思いつつも、それを寂しいと感じていた。
こんな時に、ずるい。優しいハルの手つきに、イーズの眼からどんどん涙があふれだす。
「ハルとね、旅するのは楽しいの」
「うん、俺も楽しんでる」
「でも、みんなに……フィーダとメラに会いたいなって思う」
「そうだな。あの二人に見せたいものがいっぱいあった」
「メラの料理にフィーダが笑って、メラが顔を赤くして、それを二人でからかうの」
「楽しいやつだ」
「楽しいよね」
ふふっと二人で小さく笑う。
好きな人と二人でいる状況なのに、もっと他を求めてしまうなんて、自分はまだ幼いのだろうか。
貴方だけいればいいなんて、どこかの大人の女性みたいなセリフはイーズには早いのかもしれない。
「二人に会いたいな」
「会いたいね」
イーズの瞳から流れ落ちる涙を、ハルの指先がそっと拭った。
イーズもモゾモゾと毛布の中から手を伸ばして、ハルの髪に触れる。
横向きになって寝ていて額にかかった前髪を避けると、ハルがわずかに目を伏せた。
眉間が少し寄っているのに気づき、イーズは小さく笑う。そしてツンツンと指先でハルのおでこの真ん中を突く。
「ハルも、我慢しないでいいのに」
その言葉に、ハルは目を閉じて深く息を吐いた。
目頭から一粒の雫が溢れて、そのまま横に流れていく。
「ははっ、俺も、ちょっと気が抜けた」
「うん」
胸の奥が熱い。
イーズがもう一度前髪に触れると、ハルの手が伸びてイーズの指に絡まる。
温もりが二人の間を巡る。
大きく息を吐いたあと、何も言わずに目を瞑ったハルに、イーズは手をクイっと引っ張って名前を呼んだ。
「ハル? 寝てます? 寝ると死にますよ?」
「いや、死なないし。てか、無事に帰れそうで良かったって、思って」
「まだ期待しすぎてもいけないですし、気も抜けないですけど」
「うん、そうだね」
「分かってます?」
「分かってる、分かってるって。いてっ、いててて」
絡めた指を思いっきりゴリゴリと揉むように動かされて、ハルは悲鳴をあげる。
思わず引こうとするハルの手は、これまた強いイーズの指の力に引き止められた。
「指力、強い」
「元バスケ部ですから」
「関係ある?」
「ありますよ。大きなボールをコントロールするのに指の力は重要です」
「へぇ」
むぎゅむぎゅと手を握ったまま会話を続ける。
緊張感のない、いつもの二人だ。
イーズは口の中で小さく笑い、指の力を緩める。
「お願いがあるんですけど」
「うん? この時間からスナック菓子はダメだぞ? ニキビが出るぞ」
「違います。あの、今日だけでいいから、手を握っていてくれます? えっと、手が無理なら小指だけでも」
そう言ってイーズはハルの右手の小指だけを掴む。
ハルが思わず手を浮かせると、イーズの手がプランと小指に巻き付いて垂れ下がった。
それを見てハルがプフッと息を漏らす。
「赤ん坊かよ」
「ばぶ?」
「やめて。なんか、めっちゃ背徳感が出る」
「変態ですね」
「ちゃうし。ほら、手でいいから。小指じゃなくってちゃんと繋ごう」
そう言ってハルはイーズの手をしっかりと握り直す。
先ほどのように正面から向き合ってではなく、横に並んで寝転んで互いの指を絡めあった。
するりとハルの指がイーズの手の甲を撫でる。
くすぐったさにイーズが笑うとハルも小さく笑った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
山を去り、腐海を出たとしても、この温もりをイーズは忘れないと思った。
そして欲を言うならば、ハルもそうであってほしいと願った。
一週間後、山頂が見える場所まで二人は到達していた。
その先に赤い影が見えて、立ち止まる。
「バドヴェレスだ」
「下見でしょうか」
体のバランスを崩さないように、手を山肌に触れて空を見上げる。
しばらく山頂上空を旋回していた火龍は、ゆっくりと高度を落として一度止まる。
『ふむ。少しばかり足りんな』
頭の中で響いた声に、ハルとイーズは顔を見合わせて小さく笑う。
息を詰め、緊張しながら見上げていたのに、なんとも気の抜けた声だった。
「やっぱり、下りられなさそう?」
声を大きくしてハルは火龍に呼びかける。
火龍は山頂から一度離れ、二人がいる場所の上空に移動してきた。
『あともう少しと言うところだな。だが商人の子が手配しておる箱ができればよいだろう』
「商人の子?」
誰の事かと首をかしげると、火龍から思わぬ名前が返ってきた。
『オレニスとフィーダは呼んでおった』
「オレニス!? オレニスが来てるの!?」
『そうじゃ。我が降りられなかった場合に、嬰児が乗れるように箱を作っておったぞ。先ほど会った時は、我の足回りの太さなどを測っておった』
「うーわー、まじか。ってか、オレニスが腐海の外に来てるってことは、だいぶ町が大きくなったってことか」
「ファンダリアはどんな小さな町にも店を開きますからね。腐海が開発されるなら絶対にいそうです。でもわざわざオレニスさんが来るとは思いませんでしたね」
頷きながら二人は再度火龍を見上げる。
あの太い脚で、二人が乗る箱か籠かを掴んで移動するという計画なのだろう。
なかなかにファンタジーな光景になりそうだ。
「やべ、ワクワクしてきた」
「楽しみですね」
『我が人を運ぶなどこの龍生で初めてだ。光栄に思うがよい』
「光栄の極みだね。もう、バドヴェレス、最高!」
「最高の龍ですよ! どんな勇者よりもかっこいいです!」
『そうだろう。そうだろう。それをフィーダにも言ってやるが良い』
「あ、また喧嘩したんだ?」
『しとらん』
食い気味にバドヴェレスの声が返ってきて、思わずハルは噴き出す。
イーズも岩肌から手を離さないように気を付けながら、肩を震わせた。
「何があったんです?」
『何もない』
「何もない感じじゃないけど」
『……フィーダが』
「うん」
『水の護りを受けておった』
「まもり? 何か魔法みたいなの?」
『否。水の奴が気に入ったものに渡す、守護の証を受け取っておった。我が! すでに! 護りを与えておるというのに!』
空高くで口を大きく開けて吠える火龍に、ハルとイーズは顔を見合わせる。
そして二人の視線は自然と、ハルの胸元のアミュレットに向けられた。
「水龍に、何かもらったんですね」
「ってか、嫉妬じゃん。フィーダを取り合って嫉妬してんじゃん」
「フィーダ、モッテモテ」
喧嘩ではなかったらしいが、内容が龍にしては低レベルで笑えてしまう。
いや、龍たちがハイレベルかと言えば、今までの言動を思い返して否定する。ハイレベルであったことなど一瞬たりとも無かった。
『そういえば、イーズの護りは失われておったの。今度また護りをやろう。
良いな。水の奴からは受けるでないぞ?』
「えっと、はい、楽しみにしてます」
イーズの返事に火龍は何度も頷く。独占欲が強すぎて、顔が引きつる。
もしかしたら龍同士の対抗心というやつかもしれない。
『では、我は一度戻る。次は箱をもってこよう』
「了解。俺たちはあと一週間でさっきの場所にたどり着けると思うから」
『あい分かった。一週間後にあの場所に迎えに来よう』
「ありがとうございます! 本当に! ありがとう!」
遠ざかっていく火龍に、手を振れない代わりに大きな声で礼を叫ぶ。こみ上げそうになる涙を、何度か深呼吸して追い払った。
「少し先で休もうか」
「はい」
気を抜くのはまだ早い。
山頂に近づくにつれて難所が多くなる。慎重にお互いの足取りを確認しながら移動を続ける。
岩と岩が重なり合ってできた隙間に二人は体をねじ込み、小さく息を吐いた。
「あー、疲れた。早くフカフカのベッドで寝たい。風呂入りたい」
「ミートゥー」
「あと一週間の我慢だな」
「ですね。気が抜けちゃいそうなので、ビシッとしないと」
「気持ちは分かる」
手元にカップを取り出し、小さくぶつけ合う。
気が早いが、腐海脱出のお祝いだ。
「旅行を思い出す」
「ん?」
湯気を立てるカップに口を付けたところで、ハルの呟きが耳に届き、イーズは首をかしげる。
ハルは両手でカップを持ち、正面に広がる景色を見ながら目を細めた。
「旅行に行って、こんな厳しい登山じゃないけど、有名なお寺とかって山の上にあるから、ちょっと登ったりして。そういう場所とか観光地を回って、楽しんで、それで温泉も入ったりして。
楽しいんだけど、家に帰った後に狭い風呂でリラックスして、旅行疲れした体をベッドに投げ出して、やっぱ家が一番って叫んでさ。そういうの、思い出すなって」
「ハルが、最初に言ってたやつですね。そうやって、安心する場所を作りたいって」
「うん。この世界に、そういう場所を作るんだって思ってた」
ハルの言葉が過去形で、イーズはその横顔に視線を向ける。
ゆっくりカップのお茶を飲んで、ハルは手元を見つめた後にイーズと目を合わせた。
「きっと、分かるよ。イーズも」
いつも以上に、柔らかく紡がれたハルの声。
イーズはじっとハルの眼を見つめた後、さっきハルがしていたように遠くを見つめる。
「家が温かいって感じたことがなかったんです。でも、今なら、分かりそうな気がするんです」
「うん」
「早く、会いたいなぁ」
「そうだな」
二人そろって、温かなカップに口を付けて微かな笑みをこぼした。





