表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ライフ 母

作者: マリ

        プロローグ

 三十三歳の時私は気がついたら精神病院の病室にいた。気がついたらなんて古くさい表現だけど本当にそんな感じだったのだ。看護師が母からの差し入れだと言って賞味期限が切れる前に食べませんかとヨーグルトを持ってきてくれた。それを食べてようやく我にかえった気がした。私は統合失調症と診断されたと母からきいた。十代から発症していたものの通院と服薬をやめていた。

 次に入院した時は、四十歳の時だった。その時はかすかな記憶があった。私と母は旭川市で一緒に住んでいた。札幌市から兄が来ていると母からきいてじゃあ大丈夫かと私は再び意識を失った。

 それを機に兄に札幌市に来ないかといわれた。私の母は、亡くなった父が建てた家と自分が建てた家を引き払って私と一緒に札幌市の四棟あるアパートに引っ越した。

 最初の何年かは何事もなかった。母は車の運転ができたので、旭川市にも何度も連れて行ってもらった。


 ある晩、母は頭が痛いとうったえた。私はかかりつけの病院、病院は札幌で探すと言って区役所に紹介された、にはられていたこんなときは救急車を呼んでくださいとかかれたポスターをおもいだした。救急車のサイレンが多いのわけがわかった、あのポスターだと私は思った。ほぼ同時に切れた血管はつなぎなおされると妙な妄想をした。私は眠剤を飲んで寝てしまった。母もそうした。

 次の朝、母は回覧板の文字が読めない、次に持っていく家がわからないとあせっていた。母は母にわかる近所の家に行ってきいてくると言った。その近所の佐藤さんは私達のアパートの部屋までやってきて、兄を電話で呼ぶように言った。いつもつながらにいのにその時はつながった。日曜日だったので救急病院の脳外科で診てもらうことになった。

 母の脳の血管は本当に切れていた。

 母は脳出血と診断された。

 一週間に一回、兄か義理の姉が見舞いに連れていってくれた。帰りぎわ母は渡り廊下からこちらに向かって手をふっていた。私達も手をふり返した。

 母は退院後、介護保険を使うことになり、菅原さんというケアマネージャーがついた。母は失語症とも診断されていた。いいたいことはわかっているのに言葉がうまくでてこなかったり、こよみや数や時計などのイメージなどがうまくつかめない脳出血の後遺症の一つだ。母はケアマネージャーと相談して言語聴覚師のいるデイサービスに週に何回か通うことになった。

       第一章

 ある日、母は自分の首にしこりがあることに気がついた。血圧などを診てもらってるかかりつけの病院に私に電話させてうったえたがつぎの予約日時決まっているからと診てもらえなかった。

 日曜日、母はテレビで映画みてるうちに「どうして、こんなことをしているの?」とパニックになった。かかりつけの病院に母は電話私にかけさせて話したもののやっぱり診てもらえなかった。

 平日、母は近所の耳鼻科に行った。

 すぐに大きな病院で診てもらってくださいといわれた。

 母はペット検査受けることになった。

 兄は私に作業所に行くんだろう。自分のことしっかりするようにというようなこと言った。そのころ私は作業所を見学することになっていた。

 検査の結果を聞く日、決まってて予約日時の日、兄と母と義姉と私で病院に行った。私は病室で待っていた。

 兄が戻ってきて、母は胃がんだと私に知らせた。ステージⅣでリンパに転移して散らばっていて手術まできないということだった。

 あとで聞いたところによるとこの日めいと義姉の奈緒ちゃんは泣いたという。

 そこの病院ては治療できなかった。

 母はセカンド・オピニオンの病院で治験の治療を受けることになった。

 母は昔乳がんで右胸とリンパをとっており、血圧測定や注射や点滴などすべて左側で行っていた。血管も細かった。胸にCVポートという管を設置することになった。

 母は入院した。

 セカンド・オピニオンのその病院は家から遠く、兄や義理の姉が何度か連れてってくれた。隣町の従姉のきよみちゃんにも連れて行ってもらった。いつもというわけにはいかないので、従姉のきよみちゃんが調べてくれた行き方で電車やバスでも行った。

 行った時母は、リハビリをしていることが多かった。職員につきそわれて、帰りに売店でお菓子などを買っていた。

         第二章

 ある時行く時に公園でトイレを借りた。

 張り紙があった。札幌心のセンターとあった。私はそれを手帳にメモした。帰って来てから電話してみたものの回線が混んでいるとかでつながらなかった。

 兄が家にやってきた。

 母を老人ホームに入れるという話しをしてきた。私はその時はうなずいたものの後で兄に電話をかけた。珍しくすぐつながった。

 なんで、すぐにそういう話しになるの?家に手すりもないじゃないか?とうったえた。

 母は訪問看護ステーションを利用する事になった。介護用ベッドや手すりもレンタル会社から借りることになった。それらの手続きは兄がしてくれた。義理の姉のの奈緒ちゃんは介護保険の級をかえるように兄にいっておいてくれた。母のケアマネージャーも菅原さんから保坂さんにかわった。保坂さんも女の人だ。

 兄は母の病状を私の主治医にも説明した。

 帰ってきた母は、私が泣きわめくことにびっくりした。

 私は今度は任意でかかりつけの開放病棟三度目の入院をした。


 私が入ったのは四人部屋だった。あるとき、共同住宅から入院してくる人がくるとうわさが流れた。

 その人はきたとき、入り口の入院している人の名前をメモしていたりした。

「日記とかつける人?」私がきくと「するどい」といわれた。

 自分から入院したものの私はすぐに退院したがった。公衆電話から、その時わたしは携帯電話をもっていなかった、きよみちゃんや母に何度も電話した。

「きよみちゃんの声ずっときいていたい」と私がいうと「そういうわけにはいかないよね」とさとされた。

 母には散歩するようにすすめられて、コーヒーを安く飲めるところを教えれて、飲みに行ったり、外出で、少しだけ家に帰ったりもした。

 回診のとき、共同住宅から入院してきた人に、手をにぎってもらうように頼んだ。その人は手をにぎりかえしてきた。

「どうしてあなたが泣くの?泣いてるの私だよ」

 その人はすぐに個室に移っていった。ホールにでるたびお互いあいさつした。私が退院するとき、その人は病室に顔出してくれた。連絡先こうかんしようかと私からいった。

 最初どちらからかけたのか覚えてなかった。よく通話するようになった。こうしてりかさんと私は友達になった。

 三週間で私は退院する事になった。その間母はタクシーで見舞いに来てくれたりした。奈緒ちゃんがきてくれた時はお義母さんも一緒にいるとは思わなかったととても驚いていた。隣町の従姉のきよみちゃんにも連れてきてもらったりもしてた。帰りは車椅子を押してもらって帰っていった。

 兄も何回か様子を見にきた。入院する時は一緒に来てくれたけど、退院するときはシフトが合わないとかで来られなかった。迎えに来てくれた母と一緒にタクシーで帰った。

         第三章

 私が携帯電話を買う時は兄がついていってくれた。

 身分証明書は、障害者手帳を使った。二級と記載されている。マイナンバーカードも申請してあったけど、写真の不備で間に合わなかった。

 ガラケーは在庫がなかった。

 私はかんたんスマホというものを買った。かけ放題のプランにした。

 その時すでに、電話相談機関に家の電話や母のガラケーで私はよく電話するようになっていた。

 母ががんだとか訪問看護ステーションやレンタル介護用品の手続きは兄がしてくれたとかしゃべった。

 母はどうして知らない人にお母さんのこというのと私の行為をいやがっていた。

 回線が混んでいるとかで普段なかなかつながらなかったけど、珍しくよくつながる日があった。

 私は電話切ってはかけ、切ってはかけをくりかえした。

 パニックになった私は、きよみちゃんに電話した。

「電話依存症になった」と私がいうときよみちゃんは

「自分でわかってるんだからなおせるよね」といった。「助けて」という私に「片付けとか、買い出しとか、具体的なことでないとわからない」ときよみちゃんはいった。

 いつもかけているところは、土日祝日夜はお金のかかるナビダイヤルだった。

 電話料金はうなぎ登りになった。


 りかさんに電話で相談した。真剣にきいてくれた。

 病院の看護師に相談するようにいわれた。

 病院には作業療法というものがあって作業療法師の小沢さんという女の人にも相談した。訪問看護の人に話してみようといわれた。

 これらの人すべてに相談してかかりつけの病院を受診した。

 主治医は漢字の書き取りはどうですか?と言った。

 してみたもののすぐに電話をし続けるという状態にもどった。

 薬局の相談ダイヤルにもよく電話した。二十四時間服薬指導ダイヤルというものがあった。薬剤師の松田さんが教えてくれた。偶然にも母の薬を配達してくれる人と同じ男の人だった。はじめて配達に来るとき私はそうかな?と思ったけど松田さんはとても驚いていた。

 聞きたいことはききつくした後もとんぷく薬の飲み方どうしたらいいですかと電話した。松田さんはていねいに前に飲んだ時間はいついつだったら次はだいたい何時ごろに飲めばいいか教えてくれた。とんぷく薬は不安になった時飲む薬ありますかと主治医にきいて処方されたものだ。あるんですねと私はいった。定期薬にもなっていた。

         第四章

 スマートフォンを使うようになって私は自分にもメールできることに気がついた。

 助けてとか不安だとかさみしいとかお母さんとか不安だとか送った。

 検さくでも同じことした。

 宛名のないメールで家族に先立たれた人の手紙や、ガールズチャンネルでお母さんへの愛を語るページ、スレというらしい、見たりした。

 そのうち、私は星の王子さまというアプリを見つけた。王子さまが手紙を届けてくれるという設定でいろんな人ととくめいでつながれるアプリだ。

 通話依存がなおるんじゃないかと思った。同時にとくめいであることに恐怖も感じた。

 最初おはようございますとつぶやいて、三人ほどから返信をもらった。その時はそれ以上しなかった。

 ある時、精神疾患もちの人つながりたいとつぶやいている女の人がいた。私はその人に返信した。その人も私のとは違うけど、精神疾患をもっていた。

 私のことを女の人ですかと確認してからラインでつながりませんかと送ってきた。はじめたばかりでまだ使い方がわかりませんごめんなさいと謝ると電話番号がわかれば検さくしますよときた。

 私は電話番号を教えた。

 ラインに招待という画面が現れて、多分追加というところをタップした。

 改めてあいさつしあった。

 この時はじめてラインの検さくというものをされた。

 アリスと不思議なお手紙やしまぐらしという似たようなアプリも私はインストールした。アリスと不思議なお手紙はアリスが手紙届けてくれるという設定で、しまぐらしはしまのこがびんに手紙をつめて流しあうとう設定だ。

 義理の姉の奈緒ちゃんにもラインこうかんしてもらった。一月に来てくれたときにふるふるというやり方でこうかんした。

 今日、母がやかんでうどんをゆでました。認知症になったのかと心配です。と送って、そんなことがあったのね心配だねと返信もらったりした。

 しまぐらし日記 (義理の姉とラインつながりした。うれしいな。きれいでやさしくて料理上手で、親大切にしてくれて兄はいい嫁さんもらったものだ。)

 奈緒ちゃんのお母様にも家に来てくれたとき電話番号教えてもらって、ショートメールで私のラインID送った。のちのち奈緒に入れてもらいましたとラインつながりできた。従姉のきよみちゃんにも家に来てくれてるときに頼んだ。わかる人にきくといわれたけど、のちのちラインつながりできた。私が電話番号をけんさくしてもよかったんだけどそこまで気がまわらなかった。

 通話中、家の固定電話に幼なじみのみわこちゃんから電話があったこともあった。私携帯会社に電話して通話中にも電話が来たことがわかる割り込み通話のオプションつけたのだ。ラインちょうだいよ、返信はなかなかできないかもしれないけど、きどくってつくから、ちゃんと読んでいるからということだった。みわこちゃんとは電話番号でラインつながりしていた。

 母は抗がん剤で髪の毛はあまり抜けなかったものの、足が冷えると言って痛がった。

 セカンド・オピニオンの病院でも私の見舞いに来てくれた時も車椅子を使っていた。

 ある時、宗教のおばさんが二人来ていて、母と話しているうちにそのうちの一人のまゆみさんと私は電子レンジで温められるカイロを近所のショッピングモールに買いに行くことになった。

 薬局にはなくて、店員さんにきいたら食品売り場にあったので、二つ買った。

 まゆみさんと安い方の喫茶店でお茶した。その時にはよく差し入れなどをもらうようになっていたので、おごるべきだったと反省して帰りにだんごをおごらせてもらった。

 一緒に家にきた時にまゆみさんにもラインID教えた。まゆみさんもわかる人にきくと言ってあとでラインつながりした。

          第五章

 母は近所のショッピングモールのフードコートに一人でうどんを食べに行ったことがあった。

 家に来てくれた奈緒ちゃんはうどんを食べに行けるほど元気なんだねとほっとしたけど、帰ってきた母はすぐにトイレにこもった。奈緒ちゃんに介抱されて奈緒ちゃんに病院に連れて行ってもらった。

 こんなこともあった。アプリにお母さんが起きて来ないと私はぐちっていた。

 その日の夕方在宅クリニックに私は電話した。

 母は電話での訪問看護の人の問いかけにこたえることができなかった。

 訪問看護ステーションから医師と看護師が来た。

 母は高熱を出していた。

 セカンド・オピニオンの病院の前に行っていた病院に救急車で行くことになった。兄も呼ばれた。

 母は失語症で言葉がうまく出て来なかったけど、いつも使っている肌の保湿剤忘れて行かなかった。

 お兄ちゃんに何度も電話したけど、すぐに切られてしまった。

「俺、ちゃんとやるから」

 母はじんうじん炎と診断された。

 毎日、見舞いに行った。

 お返しだと思った。

 母の寝ている横で一緒に横になったりもした。

 奈緒ちゃんと一緒になったこともあった。

 病院のコーヒーの飲めるところで奈緒ちゃんと話しをした。

「兄は泣くと人ははなれて行くからな、お母さんになんかあったのかと思って、電話にでるけど、奈緒だってめんどくさいんだぞと言ってる」

 奈緒ちゃんは

「そういうこというんだねえ」と言っただけだった。

  母は帯状ほうしんになったこともあった。夜だったけど、その時も訪問看護ステーションから医師と看護師が来た。

        第六章

 母の状態が安定している時もあった。

 母は高くて使いやすそうなつえをほしがっていたが、間に合わないので、近所の百円均一店に一緒に行ったときにつえを買った。

 母の訪問看護師たちは母の話しをよくきいてくれた。

 佐藤さんなんて女の人は、母がデイサービスで歌ったり、カセットテープにラジオ放送から録音したものをきいたりしてるのを知って一緒に歌ってくれたくらいだ。

 すぐに買うことになったけど、風呂の介護用のいすを用意してくれた人もこの人だ。母はデイサービスで風呂に入れてもらっていたけど、家で入るようになっていた。

 その人が子どもが小さいので夜勤のないところに転職するとなった時は、本当に残念だった。

 私のかかりつけの病院の訪問看護の人の中住さんに話すとすぐに新しい人がくるよといわれた。

 新しい人に母はうたわないの?ときいたが当然うたわないよといわれた。

 いい感じだと言って介護用ベッドに母と並んで座ってた私と母の写真をとってプリントアウトして持って来てくれたのは藤田さんだったか。

 母と兄と兄嫁の義理の姉の奈緒ちゃんと奈緒ちゃんのお母様とめいと私でご飯食べに行ったこともあった。母はまたみんなでお風呂に行きたいねと話してたが兄が今は無理だねと言って外食することになったのだ。

 和風レストランや居酒屋チェーンに行った。

 和風レストランでは母はあんまり食べられなかった。居酒屋チェーンの個室は二階にあった。母は歩くのになんぎしていた。兄が私に介助してといった。

 母は状態の良いときは私の精神科受診のとき、ついて来てくれた。

 かかりつけの病院の近くにサービスつき介護住宅があって一般の人が食事できるホールもあった。

 母は私とそこまで歩いた。

 母は日替わりランチを頼んで私はカレーとアイスコーヒーを頼んだ。

 病院に行くときと帰るときはタクシーを使った。

 冬だったけど、母が行くよと言って近所のショッピングモールに一緒に行った。母は赤いコートを来て一所懸命歩いてくれて、駐車場の停止中の車のところで転んだりしたけど、二階の飲食店がいっぱい集まってるところに行った。パスタ屋さんに行った。

 その頃病院でデイケアの人たちが喫茶店を運営してたので理香さんと母と三人でコーヒーを飲んだこともあった。母は私達の診察が終わるまで待っててくれた。それからそこから近いオープンしたばかりのカフェつきのお菓子屋さんに三人で行った。

 私達が待ってる間、母は会計でポイントカードをすすめられていたらしかったが、失語症の母は、名前や住所が書けなかったらしかった。

 母は町内会の敬老会に月一度行ってた。ノンアルコール飲料を飲んだり(らしい)おにぎりを持って帰ったりしていた。最初は歩いて行っていたが、すぐにタクシーを使わざるを得なくなった。場所はすぐそこなのにだ。

 近所の整骨院に行ったときは、帰りに歩くのになんぎしたようで、迎えに行って探しに行った奈緒ちゃんを本当に頼りにしていた。

 ケアマネージャーの保坂さんや訪問看護の人たちと相談して母は訪問マッサージ受けることになった。母は体験を受けて決めた。訪問マッサージの戸谷さんという目の悪い男の人で、物腰のやわらかい話しかたもていねいな人だった。ドライバーと一緒にきた。ドライバーの山口さんという女の人はは明るくて話しやすい人だった。もう一人の小阪さんも感じの良い女の人だった。

 母はお風呂に入れてもらってたデイケアはやめることにになって、週に二回とも家で訪問看護でお風呂に入ることになった。

 月に一回ケアマネージャーの保坂さんがカレンダーを用意した。

 しまぐらし日記

 (私は統合失調症で母は状態は安定していますが治らない胃がんです。自分が高齢ニートであることも怖いです。あなたは、何怖いですか?)

 お返事は得られなかったものの共感をいくつかいただいた。またびんを流した。

 (みんな怖いことがわかった。私だけじゃないんだ)

 母は月一回めんえき療法を受けるため兄の送迎でセカンド・オピニオンの病院に行っていた。兄が来るのが遅い時は、玄関の廊下にいすを置いて座って待っていたりうろうろしたりしていた。

 りかさんに電話して、「お兄ちゃん、お母さんが玄関でうろうろしながら待ってるよとラインしてやった」といった。兄のラインは知り合いかもと表示されてたけど使ったのはそれがはじめてだった。

 母のかかりつけのセカンド・オピニオンの方の病院でコロナが出た。クラスターで多くの患者が待たざるを得なくなった。

       第七章

 母のケアマネージャーの保坂さんは、私が精神科に入院を頼もうとする際、一緒に行ってくれようとしたほどいい人だった。

 その時は、兄が電話がして来て俺の方がいいだろといって一緒についていってくれた。正確には待ち合い室で待ち合わせをした。

 外来の看護師はお兄さんきているならと気をつかってくれて主治医を呼んでくれた。

 私の訪問看護私のかかりつけの病院の主治医に頼むときも保坂さんは一緒に行ってくれた。

 母のヘルパーを頼む際、私の区分も調べてくれて、訪問看護の人や作業所の人が集まって会議するときも相談所に来てくれた。

 母の元同僚が嫁と一緒に家にきたことがあった。

 母はその人たちに宗教のかんゆうにあって外まで逃げ出したという。私は外出中だった。

 その嫁の人がまたきたとき、私はその人と近所のショッピングモールのハンバーガー屋に行った。

 後から二人女の人がきて、その人たちと電話番号をこうかんした。

 のちのちその嫁の人とファミリーレストランに行くことになった。ハンバーガー屋に来てた人たちと合流した。

 飲み物を飲んでからどこかの会館に行った。一緒にいた女の人が私の名前を書いていた。誕生日も嫁の人にショートメールで送ってあった。

 なぜか入信の儀式をすることになった。

 帰るとき、その人は家から離れたところに車を止めた。

 その人とともラインするようになった。こっちからあいさつしたこともあった。

 その人とまたハンバーガー屋で会うことになった。

 保坂さんが来ているときだった。

 「宗教の人に会いに行く」と私はいった。

 保坂さんは「危険な香りしかしない」と私を止めた。

 それでも私が行く気でいると保坂さんは自分の車に行って「お兄ちゃんに連絡してきた」ともどってきた。

 兄から電話が来て断るようにいわれて断りの電話を入れた。「もう向かってるよ」といわれた。

 兄は私にその人の電話番号をきいつ非通知でかけたらしい。もう一回兄から電話が来て「その宗教、検さくしたらやばい」といわれた。

 もう妹と連絡とらないでくれといったらしい。私も連絡しないようにいわれた。

 あとで母がいろんな人に話しをしているのきいたところ、母は安心したらしい。

 いざとなったら兄は妹を守るということに安心したらしい。

          第八章

 旭川に行けた。

 五人兄妹の母の二番目の姉が亡くなった。腸閉塞で突然死だったらしい。一番上の姉は以前に亡くなっていた。葬儀には参列しなかったけれど、お彼岸に合わせて行った。

 おばの旦那さんの施設に行ったり、母の四番目の兄夫婦の家に行ったりした。三番目の母の姉の家に寄ってから行った。

 おじは、兄に仕事のこときいたり、デイケアに行くことを考えてることなど話した。

 帰りぎわ、従姉が兄にかっちゃんもたいへんだねと声をかけていた。

 その帰りに私は大失態をした。

 おまわりさんが二人車を止めろと合図して兄は「え、俺?」といぶかりつつ車を止めた。

 私が後部座席のシートベルトしていなかったのだ。

 なんでもあと少しでゴールド免許だったらしい。

 札幌のアパートに戻ってきてから、母はもう少し兄にいてほしかったようだが、俺落ち込んでいるからとすぐに帰った。

 私のせいですっかり兄を意気消沈させてしまった。 

          第九章

 病院が再開されると決まったころ、家に来た母の訪問看護師の藤田さんという女の人が、母の写真をパシャパシャととっていた。

 母は病院に行ったものの帰された。

 母の顔色は黄色くむくんでいた。

 セカンド・オピニオンの前の最初の病院に入院することになった。その病院には母の訪問看護師の門脇さんとケアマネージャーの保坂さんと行ってバックアップを頼んあった。

 母は少しだからねと言ってふり返りつつ出かけていった。

 入院の準備は義理の姉の奈緒ちゃんがしてくれた。

 胆管炎ということらしい。

 私はまた、不安になった。

 アリスと不思議なお手紙に手紙流して、肝臓の治療ができればがん治療が再開できると返信もらったりした。

 兄や奈緒ちゃんのラインにお母さん肝臓がんなのかなとラインしたりした。

 そしたら兄からはじめてラインが来た。

 お母さん肝臓がんというわけでなくて、いろんなところにがんができてる。肝臓のそばにもできていと胆汁酸を止めてる、それを流すための治療だと説明してくれた。奈緒ちゃんがくちぞえしてくれたのかもしれない。どれくらいの治療期間になって退院時期もだいたい説明してくれた。

 奈緒ちゃんのお母様から家の電話に電話があり、兄からのラインのおかげで説明することができた。

「まりちゃんに電話してよかった」といわれた。

 それか母からも電話来て私の不安は少しやわらいだ。

しまぐらし日記

(母が胆管の治療を終えて退院しました。がん治療はこれからです)

 母はステントという管を身体に入れることになった。

 玄関から「いたいよう、いたいよう」とへんな声が聞こえてきたのは私がカウンセリングセンターに電話して

「怖い」と言ってる時だった。カウンセリングセンターの三つある番号は心のセンターの人が教えてくれた。

 電話切って見にいってみると母はシューズボックスのかわりにしてあるたなにへんなかっこうでしがみついていた。トイレに行こうとして転んだらしい。

「お母さん」

 私は悲鳴を上げた。

 在宅クリニックに電話した。藤田さんがきてくれることになった。母に楽な姿勢をとらせるようにいわれた。

 母は排便した。

 トイレットペーパーでふきとった。

 母はまた排便した。

「お母さん」私はまた悲鳴をあげてトイレットペーパーでふきとった。

 しばらくしと、藤田さんがやってきて、二人で母を居間まで運んだ。

 在宅クリニックから訪問診療の医師もきて、医師が兄に連絡して兄もやってきた。母は入院することになった。土曜日だったので当日すぐに入院することになった。

 私は電話相談機関に電話ばかりした。

 ある夜、りかさんと通話中に私にラインがきて、私はぎゃあと叫んだ。

 アプリでラインつながりした女の人のだんなさんからだった。「こんばん、連絡が遅くなってすみません。嫁は二月二十三日に亡くなりました」という内容だった。私は泣きながらへんだよへんだよ知らない人なのにこんなに泣くなんてとりかさんに言った。

 りかさんは「だってやりとりしたんでしょう」と言った。

 精神障害を持ってるきつさなどをラインで話されたことがあった。

 だんなさんが理解してくれたらよかったですねとも送ったこともあった。だんなさんはどんなおもいで、わたしにラインをくれたんだろう?

 私が電話ばかりしてる間にその人は亡くなっていた。

 のちに自殺だったことも知った。

 星の王子さまで履歴みつけだして、さよならずっと忘れないよと星に告げた。 


 当然、母ともよく電話した。

 母から電話がきたとき、母は半ば怒っていた。

「お母さん、お母さんといつも言ってるくせに何さ」

 母は失語症で自分では電話がかけられず、職員に頼んで電話をかけるのでたいへんなのだ。

 従姉のきよみちゃんがとなりまちからやってきたときに頼まれたものを持って、病院に行った。

 従姉のきよみちゃんは自分の母が私の母に世話になったと恩義を感じてのことみたいなことを言ってとなりまちからというには割としょっちゅう家にきてくれていた。以前、きたときは、でもね、幸せなんだよ、食べれてスマホで遊んでと言い残してもいた。

 病院はコロナ対策でバリケードがあって、外泊、面会禁止だったが、ナースステーションのシェードごしに母と顔をあわせることができて、きよみちゃんと一緒に喜んだ。

 きよみちゃんは母が汚した玄関のカーテンと玄関をきれいにもしてくれた。

 母に伝言を頼まれて兄にラインした。「お母さん、お母さんのことお兄ちゃん一人で決めてほしくないんだって、それから退院したら目や歯も治したいんだって」私はまた泣いていた。お母さん退院できないかもしれないと泣いていた。珍しくきよみちゃんが電話くれた。きよみちゃんにもラインしてあった。

「泣いてたの?あのラインでお母さん退院するんだって思ってたよ。お母さん退院するんだから家の中きれいにしたら?」といわれたような気がする。

 時間はかかったけど、今度も母は帰ってきてくれた。

          第十章

 母は退院してきたもののよろよろだった。

 しまぐらし日記(胃がんである母が胆管炎の治療を終えて退院しましたが、よろよろです。点滴や血液検査の後は真っ黒でお腹に水もたまってるみたいでふらふらです。喜ばしいけれど悲しい)

 母の訪問看護の藤田さんによると、病院側は感染を疑ってCVポートを使えなかったのではないかという。

 眼科には保坂さんが心配して最初に行くとき、母を連れて行った。

 二度目からは私がタクシーで連れていった。

 母は右目の黒目にヘルペスができていた。目薬と眼軟こうで治療することになった。眼軟こうはまぶたにめんぼうでぬるのである。それらを私がすることになった。

 歯の方も保坂さんが訪問歯科を頼んでくれた。

 訪問歯科の男の人はケアマネ一つでだいぶ違う、大当たりだと保坂さんのことを評した。


 薬局の松田さんはリラックマのファンだった。

 かっぷくのいい男の人だ。

薬の配達と一緒に私と母を家まで送ってくれたことも一度や二度ではなかった。

 薬局に電話して、松田さんがでたとき、とんぷく薬の飲み方をていねいに教えてくれたのも、母の薬の配達のとき、私のとんぷく薬の相談にのってくれたのも一度や二度ではなかった。

 私が作業所に行ってると知ると、松田さんは僕も勉強のためにボランティアで行ったことがあるんですよと教えてくれた。

 母に缶入りの栄養剤が処方されたときは、僕仕事帰りに賞味期限切れのそれ飲んで太ってしまったんですよと笑っていた。

 リラックマのコレクションの写真も見せてもらった。

 睡眠剤の相談にものってもらって、昼間に飲んでも効かないよと眠い感じがするだけでと教えてくれた。

 いつも、不安だった私は早く寝たくて、松田さんに相談して、八時になったらはりきって飲んでいいよといわれて、午後八時に睡眠剤を飲むようになった。


 母はセカンド・オピニオンの病院で抗がん剤の治療受けられていたものの、体調に合わせて行かなくては、ならないのでなかなか行けなかった。

 ようやく行けたときには、もう治療できないといわれたらしい。

 兄と医師がこれだけもったんだからと話してたのを母はおおいに不満だったらしい。

 母の訪問看護の藤田さんによると、母の治療はもっと前にやめてもよかったらしい。

 しまぐらし日記(母の訪問看護師によると、母のがん治療もっと前にやめてもよかったんだって。母の意思を尊重して兄も送迎手伝ってくれてたんだって)


 母の闘病は終わり、療養がはじまった。


 母は三ヶ月に一回肝臓にいれたくだをとりかえる必要があった。門脇さんという看護師と保坂さんとバックアップを頼んであった病院にまた行くことになった。

 PCR検査のためにだえきが必要で誰かが持っていけばいいのかと思っていたら本人の受診が必要だった。

 母は何日か入院したが今度も家に帰ってきてくれた。

       第十一章

 一月に入り、母の様子が変だった。

 呼吸が荒くなって肩や胸で呼吸していた。

 私は在宅クリニックに電話しようか迷ったが、おさまったのでそのままにした。

 奈緒ちゃんがこしらえてくれた正月の料理を母は食べれた。兄が「年こせてよかったね」と言って、「来年はないかもね」と言ったのでやさしい奈緒ちゃんは「来年も作りますよ」と言った。兄は病気平癒とかかれたお守りを母の寝ている介護用ベッドにとりつけた。


 正月あけ奈緒ちゃんとめいと奈緒ちゃんのお母様のれいこさんが来てくれた。

「お母さん、やっぱりへんだね」と私は言った。

 他の人は気がつかなかった。

 また、在宅クリニックに電話した。

 母の主治医の女の人の岡村先生と母の訪問看護師の藤田さんと兄や母ねケアマネージャーの保坂さんが集まって母の今後を話しあうことになった。

 こういう会議みたいなことは一度目じゃなかった。

 一人目の医師は戸井先生で他の職場に移った。二人目の伊藤先生は産休に入り、育休に入った。藤田さんから玉のような子を産んだときいている。 

 母は入院した方がいいという見立てだった。

 母の入院が決まるまで、母の訪問看護師が午前中と午後くることになった。土日祝日も午前中くることになった。

 きよみちゃんにお母さん入院することになったとラインした。病院が預かってくれるんだね。安心だとかえってきた。

「お母さん、入院したら会えないんだよ」と私は言った。母は失語症だからか、悩んでいるからか、うまく返事ができなかった。

 入院の準備は奈緒ちゃんがしてくれていたが奈緒ちゃんがやってきて

「お義母さん、入院しないことになったんだよ」と言った。

 しまぐらし日記(お母さんが入院しないことになった、今日はお母さんと過ごす最後の日ではなかった。)(何の病気かわからないけど、お母さんと過ごす最後の日じゃなくて良かったね)と女の人から返信があった。


       第十二章 

 在宅クリニックから引き続き訪問看護師が引き続き、午前中と午後来ることになった。土日祝日の午前中も来ることになった。午後七時にはヘルパーが安否確認することになった。ヘルパーが使っていた連絡ノートは介護記録用になった。

「まりさんが困ってする事も頼めるようにしておいたから」と保坂さんは言った。

 それらのことが決定する前までもたびたび保坂さんは家にきてくれていた。

 母に

「お兄ちゃんに甘えていいんだよ」「今まで頑張ってきたんだから」「私、のりこさんみたいに強い人に会ったのはじめて」「のりこさんに会えてよかった」「家にいなよ」など言ってくれていた。

 奈緒ちゃんは毎日料理を持ってきた。兄は毎日泊まり込みに家にきた。

 奈緒ちゃんが毎日、家にきてくれてたので、私は近所のショッピングモールのカット専門店に行かせてもらった。

 ショッピングモールないのきっさ店がテイクアウトOKののぼりを出していたのでコーヒーを二つ買って帰った。

しまぐらし日記(近所のショッピングモールのきっさ店でコーヒーをテイクアウトして家に来てくれてる義姉と飲みました。母も味見しました。すっぱかったそうです)共感ありがとうございます。おいしかったです。うれしかったですと返信してたら、よいねえのスタンプかえってきた。

 母の訪問看護では訪問看護師が母の洗髪をしたり足湯をしたり、着替えを手伝ったりそれもできないときは、手湯をしたり、母の体調にあわせてしてくれた。

 奈緒ちゃんは母の身の回りを整えてくれた。訪問看護師の藤田さんは「私がふといったことに対して二つも三つもしてくれて申し訳ないわ」と言った。

 しまぐらし日記(お母さんが薬飲んだあと、私はお母さんのベッドの横に行った。お母さん小さくなったねと私は言った。手も足も顔も。目は前から小さいねと私は笑った。お母さんも笑った。それからお母さんはまた寝た)

鏡開きの日には一緒に雑煮を食べて、次の日は残ったつゆでうどんを食べた。

 母は缶入りの栄養剤を処方されていて、歩けるときは私にあけてといいにきて少しずつ飲んでいたけど、あるとき飲みかけのそれはくさっていたらしく、口の中がとてもへんになったそうだ。

 母は栄養剤が飲めなくなった。

 ごはんはおかゆになった。

 おかゆにはびん詰めののりのつくだ煮やにんにくみそかつお漬けなどをのせた。

 ヘルパーにフルーツ入りのゼリーを買って来てもらって食卓の上に置いておいた。母はそれをスプーンも使わず食べようとした。

 乳酸菌飲料をベッドの横に置いておいた。母はふと起きてそれを飲んでいた。

 焼きのりだけを食べてる日もあった。「あんたも食べなさい」といわれて一緒に食べた。

 在宅クリニックから岡村先生が来て、奈緒ちゃんには医療的説明を私には「お母さんのからだはいま食べ物これでいいといってるんだよ」と言っていった。

 母は風呂に入れなくなったので訪問入浴を利用する事になった。

 それまでも訪問歯科や訪問理容を利用したことがあった。訪問理容の人がきたときは二回目にきたときはなぜか嫌がって、結局髪は切ってもらったものの、後でいろんな人に「悪いことした」と言っていた。

しまぐらし日記(病気の母のために風呂がきます。男の人一人と女の人二人できます。費用は千四百円ほどで時間は一時間もしません)

 兄も見たがっていたので、組み立てられた風呂をスマートフォンで、写真にとってラインで送った。

 ひのきの香りも入れてもらっていたが、母には訪問入浴サービスが気にいってもらえなかったようだ。

 母の訪問看護師の山田さんに「風呂どうでしたか?」ときかれたときは、きかれあきていたのか「そればっかり」と言っていた。山田さんはなかばあせるながら「気持ちよかったという言葉がきたくて」と言っていた。

 ヘルパーに作ってもらったもやしの酢のものを私が食べ過ぎてしまったことがあった。母は食べたがっていた。

 ヘルパーの中島さんに頼んでみたが中島さんはもやしのナムルを作っていった。

 母は油がだめになっていた。

 それをきいた奈緒ちゃんはもやしの酢のものを作ってきてくれた。母は一口食べれた。

 水め飲めなくなっていたので、山崎さんという母の訪問看護師がこうくうケア用のスポンジで母に水を吸わせた。母は浄水器の水しか飲まないので、私はそれを山崎さんに伝えた。

 お母さんがとうとう食べられなくなったと幼なじみのみわこちゃんにラインした。お兄さんはいるの?と返されて、いるよ、毎日泊まりこみに来ているよと送った。それなら安心と返ってきた。


 アリスと不思議なお手紙に助けてお母さんがしにそうだよと手紙をあずけた。プロフィールで魔法使いを名乗る女の人から返信がきた。私からお母さんに力を。

 とうとう母の看取りのときがやってきた。ともあずけた。前述な人からいいねが来た。

 この間、お母さんに力をくれた人ですね。と手紙送った。あなたがいれば大丈夫と返ってきた。母は飲めません、食べられません。と返した。それでもあなたがいれば大丈夫と返ってきた。アリスでやりとりしてたせっちゃんからも返信あった。お母さん、そんなに悪いの?お兄さんたちが葬儀のそうだんしてると返信した。

 奈緒ちゃんに「お母さん、死んじゃうの」ときいた。奈緒ちゃんは静かに落ちついた声で「旅立ちのときが近づいているんだね」と言った。

 従姉のきよみちゃんが来てくれてて雪かきしてくれてるときだった。奈緒ちゃんにこうもきいた。「お母さんがいなくなっても私に会いに来てくれる?」奈緒ちゃんは私の腕をぽんぽんとたたいて「来るよ、そんなこと心配してたの、家族でしょう」と言った。

 母は藤田さんに排泄を手伝ってもらっているときもあった。母の訪問看護の人の田村さんが以前言った、食べる、眠る、出す、歩くのすべてができなかった。

       第十三章

 従姉のきよみちゃんは母に声をかけて帰って行った。

 ある日の母の訪問看護師は永瀬さんだった。私が床ずれ防止用のマットレスの上で母の横で寝ようとしたこと知って永瀬さんは「いいじゃん、やりたいことやっていいんだよ」と言った。

 その日、私はベッドの上のお母さんの横にねころがった。

 夜、お兄ちゃんがお母さんに「今までありがとね」と言っていた。

 お母さんのベッドの横でお母さんがよく聞いてたカーペンターズの歌を私のスマホで流したりした。

 めいもお兄ちゃんに連れられてやってきた。「お母さん、わかるかい?」と兄が声をかけていた。   

 私は奈緒ちゃんにもらったチョコレート全部食べた。お母さんの横に行って「私泣くけど大丈夫だよ」と私はいった。

 この日々は力になると私は直感で思った。いつか私の力になってくれる。


 薬局な松田さんが薬の配達に来ると思っていたが山崎さんがとりに行っていた。私は本気で松田さんに会いたかった。藤田さんが教えてくれた。在宅クリニックを立ちあげるとき、全面的にバックアップしますと言ったのは松田さんだそうだ。

「お母さん、松田さん来ないんだって」と私は言い直した。「明日も訪問看護の人来るよ」と私が言ったとき、母はびくっと反応した。

 こらえ切れずに薬局に電話した。松田さんが出た。とんぷく薬が効かないんですとうったえた。松田さんは「いまは効きずらいかもしれないよ」と言って、「がんばれとしかいえないけど」とつけくわえた。

「お母さん。おやすみ、また明日」

と言って私は自分の部屋に引っ込んだ。

 りかさんに電話したかったが、先にメールが来た。

 (まりちゃんにとって辛い日々になりそうですね。)(いつまで続くかわかりません)と返した。

 自分の寝床でまゆみさんにこんばんはのスタンプラインした。犬がひょこっと出てくるスタンプ返ってきた。それから通話した。電話してないとたえられなかった。

 母と旅行した思い出を話したり、まゆみさんの亡くなったお父さまのこときいたりした。

 そして、私は寝ついた。


 兄が母の呼吸が止まったと私に知らせにきたのは、日がかわる前だった。

「お兄ちゃん、私、お母さんにおやすみってあいさつしたよね」と兄の方をふりかえると、兄は母の遺体の口と目をとじてあげたあとで、満足そうにほほえんでいるところだった。それでも私の問いにはうんとうなずいてくれた。

 在宅クリニックに電話した。

 永瀬さんが出た。家族での別れをしてからもう一度電話してくださいということで、奈緒ちゃんとめいがやってきた。二人が帰ってからもう一度在宅クリニックに電話した。

 当直の医師と永瀬さんがきた。私は覚えてなかったが母が帯状疱疹になったときにきた医師らしい。

 死亡診断書にはこうかかれた。

 胃癌、二年六ヶ月。

 訪問看護と在宅クリニックを頼んでいる前も入れるともっと長かったけど二年六ヶ月の闘病、療養も含め母は七十七歳まで生ききった。

 父の命日と同じ日に亡くなった。


 医師と看護師の永瀬さんが帰ると、永瀬さんはお薬麻薬だからねと言って回収していった、今度は葬儀屋さんがきた。兄が話して遺体はエンバーミングという保存をしてもらうことになった。

 二人の男の人にかつがれて母の遺体は闇に運ばれていった。

 りかさんにメールしたりアリスのせっちゃんに手紙出したりした。旭川市のみわこちゃんにもラインした。りかさんからは翌日お悔や申し上げますとメールきてせっちゃんからは頑張るんだよ、返信はしなくていいからと返事をもらった。

 翌日、保坂さんに電話するっ保坂さんは在宅クリニックの人にきいて母が亡くなったことを知ったあとだった。

 私がわあわあ泣いていると、奈緒ちゃんが「今は泣こう」と言った。

 奈緒ちゃんは母の生前から「お義母さんがいいなら私しますよ」と言って部屋の片付けをかってでてしてくれてもいた。捨てられるものなかには母が使ったつえもあった。

 母が亡くなったのは火曜日の晩だった。その前の土曜日には自力でトイレに行っていた。永瀬さんの持ってくた携帯トイレを母は一回しか使わなかった。

 旭川市の母の姉に電話をかけてと頼んできて、話そうとしていたこともあった。気力をふりしぼっているようだが、声が出ず、家に来ていた保坂さんに今日はやめようといわれてあきらめていた。

 

 葬儀は1日葬という形で友引開けの金曜日に行うことになった。


 何曜日だったか、藤田さんかやってきた。電話くれてから。奈緒ちゃんもいた。兄は風呂に入りに行っていた。

 母が亡くなった時は父と同じ日付けのほぼ同時刻だった。

「お母さんの方が長かった」というと

「お母さん、ねばったんだね」と藤田さんは言った。

 そして、私たちは三人で話しはじめた。

 兄がまず痛みをとってくれと言ったこと

 父が亡くなったのは直腸がんで、その時は痛みがひどかったこと。

 それをきいて藤田さんは合点がいったこと。

 奈緒ちゃんによると兄が寝床で背中で泣いていたこと。

 最後の日に私は、私泣くけど大丈夫だよ、と言えたこと。

 エンバーミングという遺体な保存を頼んだから母の遺体はいま、家にないこと。

 奈緒ちゃんがずっとサポートしてくれてたこと。

 作業所は休んでいること。

 母の訪問看護なのに私個人の相談にもよくのってもらったこと。

 介護用のベッドの上に寝ていた母の横で私もよく横になっていたこと。

 みんなが集まったときに母が家の方がいいかきかれて、そりゃあ、と言ったことが決め手になったこと。

 話し終わって藤田さんに手紙を渡した。

 封筒には在宅クリニック、訪問看護ステーション様とかいて便せんにはこう書いた。

 母は晩年、手厚い介護を受けられたと思います。皆さま、お世話になりました。ありがとうございました。

 藤田さんは私をハグした。この時私達は同志だった。集金があるので藤田さんはまたねと言って帰っていった。

 奈緒ちゃんがいいなあ私もハグしてほしかったなとつぶやいた。

        第十四章

 葬儀は友引明けの金曜日に1日葬で行うことになっていた。

 葬儀屋さんから電話があり母の好きな食べ物や歌をきかれた。家に来ていた奈緒ちゃんに電話かわった。奈緒ちゃんはとっさに「もやし」とかこたえていた。

 奈緒ちゃんは「私もやしとか言っちゃったよ」と言ってそれをきいた兄は大笑いした。

 母が一生の最後に食べたものは奈緒ちゃんの料理してくれたもやしの酢のものだった。

 私は「たこ焼きとかポテトチップスとかコーラとかピザとかいろいろあるのにとっさに思いつかないもんだね」と言った。

 私が近所のショッピングモールに行ったときはよくフードコートでたこ焼きをテイクアウトした。ポテトチップスも母と一緒によく食べた。コーラも好きでよく飲んでいた。


 私は一人でいる時落ち着かずしまぐらしに手紙流したり、アリスに手紙あずけたりした。

 アリスで魔法使いをプロフィールで名乗っていた女の人にも手紙だした。母が他界しました。こう返ってきた。

(その姿を実際に見たわけではありませんが、最後の一息まで生ききったお母様を尊敬します。そこから逃げなかったあなたも立派だと思います)


 めいと兄と奈緒ちゃんと私で晩に兄が買ってきた寿司を食べた。飲み物を買ってくると言われて私はいちごミルク頼んだ。兄はいちごオレ買ってきてくれた。

 後日奈緒ちゃんがペットボトル入りのいちごミルクを兄が缶入りのいちごミルク買ってくれた。


 まゆみさんとも会った。家にきてくれたまゆみさんに玄関で「あの晩亡くなった」というとまゆみさんは「あぁっ」と言った。まゆみさんはカットフルーツと手紙をくれて「手紙にもかいてあるけど、不安なときはいつでも連絡して」と言っていった。


 葬儀の前日も私は気が落ち着かなかった。

 あちこちにラインした。

 (明日、葬儀場にお母さんに会いに行くんだ。エンバーミングという遺体の保存もしてもらったからきっときれいな顔してると思うんだ)

 幼なじみのみわこちゃんから電話がきた。

 ラインの電話でなく普通の電話できた。

 みわこちゃんにはこんなラインをしたこともあった。

(いのちの電話に電話してるときに、深くはきくな、女友達から電話きて、これは聞いて、病院で知り合たた十一歳年上のやさしい人だよ。割り込み通話のオプションにしてもらって本当によかった)

「頑張ったねえ」とみわこちゃんは言って「お兄さんとお義姉さんが頑張った」と私が言うと「あんたも頑張ったよ」っみわこちゃんは言った。

「一回家に帰ってきてるんだ?」とみわこちゃんは私が通夜の時にもどってきとると思ったらしく、私は母の葬儀は1日葬儀で行われると説明した。

     第十五章

 葬儀の日の朝、奈緒ちゃんから電話あった。

「大丈夫、何かわからないことない?」

 ストッキングがそわそわすると言ってわかるわといわれた。

 くつやかばんは奈緒ちゃんから前日に用意してくれた。コートは奈緒ちゃんのお母さんのれいこさんがずっと以前にくれたのがあってそれは持って帰った。喪服もずっと以前に母が元気なこら、れいこさんがくれたものがあった。

 数珠は母が生前買ってくれた、これもずっと以前、ローズクォーツのものがあった。

 葬儀は家族葬で小さなホールで行われた。

 きよみちゃんが母に「待っててくれたんだね」とお母さんに声をかけていた。

 私はきよみちゃんに「成長してるよ、電話かけて来なかったし」というようなこといわれて言葉につまった。「別のところに電話していたの?」といわれた。

 母が亡くなったた何度言ってもいいたりなかった。

 奈緒ちゃんなお母さまのれいこさんが「たいへんだったねえ」と私に声をかけた。

 ひつぎの中のお母さんはきれいな顔をしていた。

 化粧してあるのかくちびるはうっすらピンク色だった。

 遺影は元気なころの写真が使われた。  

 母は元気でどこにでも行けた頃に終活の勧誘にあって会食にも行っていた。葬儀屋は兄がそこに頼んだ。

 ひつぎの中に何を入れるか兄は前の晩から考えていたけどみんななかなか決まらなかった。

 入れ歯をひつぎの中に入れることは決まっていた。

 母が旭川市にいたときにちょっとした集まりで書いた書などが入れられた。

 奈緒ちゃんにあずけた封筒に入れた私の手紙も入れられた。

「お母さん、今まで一緒にいとくれてありがとう。大好きだったよ。本当にありがとう。」

 ホールから火葬場まではバスで行った。

 出棺のときは美空ひばりさんの河の流れのようにかわ流れていた。


 火葬場は混んでいた。

 控え室で弁当を食べた。

 コーヒーが飲めるところがあるときいて奈緒ちゃんと買って来て控え室で飲んだ。

 職員の人が「お母さま、体が小さいので早く終わると思います」と言ってたとおり早く終わった。

 だけど収骨室が混んでいるということだった。


 しばらく待った。

 母の治療を手伝ったCVポートが焼け残っていた。

 収骨質で兄と義姉と私ではしわたしの儀式をやった。はしで骨を拾ってはしでわたした。

 それからみんなで骨わ拾って骨つぼに入れた。骨ってうっすらピンクなんだなと思った。

 またバスでホールにもどった。骨と仮の位牌と共に。

 私は母ののどぼとけの入った小さな骨つぼを持った。

 法要が行われた。

 父と母の命日が同じ日だったからか、お経の中で一蓮托生という言葉が何度も使われた。

 兄が支払いをすませて、家にもどったあと、葬儀屋さんが来て仏だんの前に祭だんをこしらえていった。

 花や果物が供えられ、ポテトチップスと間違えられたのか、なぜかスイートポテトもたくさん供えられた。

 その晩れいこさんにラインした。お疲れ様です。とラインした。お疲れ様ですと返ってきてこう続いた。

 苦しみ悲しみは簡単には癒えませんが残された者が前を向くことと思います。

      第十六章

 納骨の日にちはなかなか決まらなかった。

 母の葬儀は一日葬で行われた。初七日の法要も一日葬に含まれていたらしい。

 私のかかりつけの病院の訪問看護の泉さんが「今日、行ってもいいの」と電話してきた。

 家に来た泉さんに母の見守り介助のために作業所を休んでいたことや、母の訪問看護な人かケアマネージャーだったかが母に作業所に行った方がいいと聞いたとき母がうなずいたので行ったこともあったことや、作業所に電話して三月から出ますといったことなど話した。

 作業所に行ったときには職員の女の人の坂上さんに「少しずつ元気になろうね」といわれた。

 民政委員もしている佐藤さんという女の人は、この人は母の脳出血を見つけてくれた人だ、敬老会の男の人と一緒にやってきた。香典には敬老会の名前が書いてあって、私は香典返しを渡しそびれた。奈緒ちゃんにラインで連絡して、ありがとう、調べておくねと返ってきた。

 近所の佐々木さんが来たときには渡せた。「母がいなくてもまた来てください」と私は言った。

 三月の受診のときにはとなりまちの従姉のきよみちゃんに一緒に行ってもらった。

 きよみちゃんに「お母さん、いないよう」というときよみちゃんは「ここにいるしょ」と私の胸をパーカーの上から指した。

 訪問看護ステーションに母が他界したこと医師に伝えてくださいと言ってあったのに伝わってなかった。

 後で二週続けて違う人に私たちすぐメモはったよといわれたが伝わってないものは伝わってない。

 診察室で主治医に「お母さん、そんなに悪いの?」ときかれた。母が他界しましたと手帳に書いて持っていったので、それを主治医に見せた。

 外来の女の人の伊藤看護師に「お母さん、しんじゃったよ」と私はいった。

「今はとんぷく薬の服用量増えてもしかたないかもしれないよ」と主治医はいったがとんぷく薬のうちな一つを出し忘れたので、後で私は病院に行きなおした。

主治医は「ほしかったの?とんぷく薬」と言っていた。

 旭川市のおばによく電話した。

「お母さんに話しかけてごらん。いるような気がするから」といわれた。

 りかさんともよく通話した。

 りかさんとは会う約束をしていて、兄や義理の姉の奈緒ちゃんに「会う約束復活させればいいしょ」といわれていたけど、私はりかさんに「すぐそんな気になれないんだ」と言った。

 りかさんは静かに落ちついた声で話す人だが、はっきりとした力強い声で

「私はお母さんに手を合わせることができるの?」と言った。

 私はあわてて「できるよ」と言った。

 りかさんは母が生前、りかさんが私の家に来たときに「また来てね」といわれたということ私に話した。


 保坂さんがやって来た。

 奈緒ちゃんが用意してくれてたお菓子を渡した。

 保坂さんはヘルパーを頼む際、会議みたいなのに出たのを思い出して、「私も勉強になった」と言った。

「お母さんのケアマネージャーだからといって、すぐに切ったりしないから」と言った。「何かあったら相談してほしいな」とも。私のとんぷく薬の服用量増えてないか心配しながらも「お母さんの血をうけついでいるんだから大丈夫だよ」と言った。

 保坂さんにも手紙を渡した。

 私の訪問看護を頼む際、一緒に行ってくれたことや、母を眼科に連れて行ってくれたことなど書いて、お世話になりっぱなしでした。ありがとうございました。と書いた。

 保坂さんはメールくれた。

 保坂さんは母が少しでも楽になるならと私に電話番号を教えてくれていて、私は保坂さんにもよく電話をかけていた。

「まりさん、お手紙どうもありがとうございました。胸が熱くなりました。まりさんの一人の生活が自分なりのペースでできるようねがってます」


 レンタル介護用品の業者もやってきた。三人できて、介護用ベッドや手すりやエアマットなど回収して行った。

 藤田さんがフットワークが軽いとほめていた男の人の進藤さんは、私に「大丈夫?」と言って「大丈夫じゃないよね。気をしっかり持って」と言い直した。

 私は「今までありがとうございました、お世話になりました」といった。それから支払いをすませた。

 介護用ベッドがおかれた場所には、窓ぎわに置いてあったソファーが置かれ、兄や私のかかりつけの病院の訪問看護の人やヘルパーや奈緒ちゃんが「広くなったね」と言った。

 りかさんに電話した。

「お母さん、いないよう」

「いないねえ」

「お母さん、サッカーの試合テレビで見るのが好きだった。私、みもしないのにテレビつけてんだ」

 りかさんと会う約束をしなおした。

 以前何度か、来てくれたことがあった。また来てくれた。香典を持って来てくれたので香典返し渡した。奈緒ちゃんによると中身はコーヒーらしい。

 お参りして、それから近所のショッピングモールに行っていつもの喫茶店でカフェモカ飲んだ。テナントを見たり本屋に行ったり、フードコートでミックスジュース飲んだ。

 

 四月の定期受診には病院に一人でタクシーで行った。

 薬局の松田さんは、「ちょっと待って」と言って車にのせてくれた。母の薬や栄養ドリンクの回収があった。

「松田さんは母の足が悪いからのせてくれたんだと思ってた」と私がいうと

「俺、知りあいであれば乗せるよ」と松田さんは、言った。

 母の薬の配達と私の受診が重なったとき、何度かのせてもらった。

 松田さんは、私に「自分の中にある潜在的な回復力を信じていけばいいんじゃないかな」と言った。

 家について痛み止めの座薬や栄養ドリンクの回収をすませた松田さんに母の薬の最後の支払いをした。

         第十七章

 三途の川の渡し賃、ひつぎに入れ忘れた。お母さん、ちゃんと渡れるかなあ?

 従姉のきよみちゃんや義姉の奈緒ちゃんにラインしたりアリスに手紙あずけたりした。

 きよみちゃんも奈緒ちゃんも、お母さんちゃんと渡れると思うよと返信くれた。

 アリスでは男の人から返信あった。あなたのやさしさを駄賃に無料で渡れますよ。礼を返すといえいえそういうのは残されたがわの気持ちだと思うのでと返ってきた。

 藤田さんが最後の集金にきたのは三月の終わりごろだった。「私達、花、菊にしないの。さびしいから」と言っていた。

 うっかり奈緒ちゃんに藤田さんが来る日時を知らせ忘れていた。ラインで事後報告した。お疲れ様でしたとかえってきた。

 

 母の納骨は四十九日に合わせて、四月十二日に行われることになった。

 前日の晩、私はなぜか気がふさいだ。

 また、いろんなところに電話した。

 つながった電話相談の女の人にはしっかり見送るようにいわれた。見守っててくれる人がいるんだから弱気になることないと言った人もいた。きよみちゃんにはなんも心配することないといわれて旭川市のおばにはあたたかくしておいでといわれた。


 兄の運転でレンタカーで兄と奈緒ちゃんとめいとで行った。車に乗る前に兄に気をつけてね覚えてる?と苦笑いされた。

 旭川市のお寺についた時にはほとんどの人が到着していた。貝谷さんやおじやおばたちとあいさつした。

施設にいたおじは亡くなっていた。

 お寺で、法要が行われたのち墓に移動した。

 母の遺骨は父と父方の祖母の遺骨のあるところにおさめられた。

 納骨が終わってから、仏前に供えておいた、記念硬貨、お寺のさいせん箱とお地蔵さんのある小屋に入れてきた。昔、両親にもらったものだ。

 帰りに、昔住んでいた家をみたり、なじみだったこじんまりとしたお菓子屋さん、おやきとクレープの店に寄ったりした。

 店主のおじさんは元気そうだった。奈緒ちゃんがおごってくれた。いくつか食べて母が好きだったコーヒーゼリークレープは家に持って帰った。

 きよみちゃんに電話して「なんも心配いらなかったしょ?」といわれた。しまぐらしにまたびんを流した。

 (四十九日にあわせて母の納骨を終えました。あいさつで兄は訪問看護の人もほめてくれたほど、母は本当に頑張って、半年といわれたところ二年ももうけたねと母と話してたんですよ。だけど私は知っている、母が生きたがっといたこと、母と話してたでなく母に話していたであること。切ない)

 アプリでやりとりしたせっちゃんは、病気でずっと苦しむよりは楽になってほしいというおもいもあったと言った。せっちゃんもご両親を亡くされていた。

 作ってあった仮の位牌は夫婦の位牌で、兄たちの家に置かれることになった。今までの大きな仏だんはお

たきあげに出して新しく小さな仏だんを買うらしい。

 しまぐらしにはまたびんを流した。

 (母の命日は父と同じ日で、私がアプリで規約違反と知りつつ最初にラインつながりした女の人の命日でもあります。みえない何かに忘れてはいけないと言われているような気がします)


 りかさんといつものショッピングモールにお茶しに行ったなはいつごろだったか。タクシー乗り場で共同住宅に帰るりかさんを見送って帰る前にパンを買った。

 歩きながら、もう、私が買ったおみやげをもらってくれる母はいないんだあっ思って、道すがら泣いた。

       エピローグ

 高齢者しょうがい者向け共同住宅に入居が決まったと保坂さんに電話した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ