10.クレイン先生
真夏の日差し降り注ぐ八月を迎えた。
今日は家庭教師のスーザン・クレイン先生がやって来られる日だ。
奥様は朝からルンルン楽しそうに支度をしている。反対に伯爵様とカイルは渋い顔だ。
「ルシア、何か辛い事があったら俺に話せよ?」
「ルシア君、もし指導が厳し過ぎる様なら他の教師をあたるから、無理せずに言うのだよ。」
二人の心配に余計に不安になる。
〈私、クレイン先生の指導についていけるかしら……〉
弱気になりそうな頭をブンブンと振って気合いを入れ直す。
〈大丈夫!これを乗り越えられなくては、この先強く生きていけないわ!〉
*****
しばらくすると、クレイン先生が到着したとメイドが知らせにきた。
皆と一緒に応接間に向かう。
〈どんな先生かしら。ドキドキするわ。〉
伯爵様が部屋に入ると、クレイン先生と見られる気品漂う初老のご婦人が優雅にカーテシーをした。
そのカーテシーの美しさに息を呑む。
所作が洗練されていてどこにも隙がないのだ。その優美さに見惚れてしまった。
伯爵様の挨拶を筆頭に一人づつ挨拶をしていったのだが、なんとカイルは貴公子の様な見事な挨拶をしたのだ!
普段の砕けた雰囲気はなりを潜め、気品漂う堂々とした姿だった。
〈たしかカイルのお父様は元貴族だと言ってたっけ。〉
これが血筋と言うものなのかと、ちょっと自信を無くしてしまった。
すると、日本の祖母の喝が頭に蘇ってくる。
『もっと背筋を伸ばしなさい!所作は優雅に!』
私の祖母は“日舞”の師範だった。
祖母の影響で私も幼い頃から日舞を習っていたのだ。
厳しい人だったが、同じくらい温かい人だった。
〈私だって、あの祖母の血をひいているのだわ。〉
私は胸を張ると、日本式の礼をした。
「はじめまして、ルシアと申します。どうぞよろしくお願いします。」
祖母の教え通り優雅に挨拶をすると、クレイン先生は目を見開いて驚いていた。
それからクレイン先生と皆で話し合いをした。
伯爵様は私が記憶喪失な事や、所作から異国の令嬢なのではないかといった事を説明してくれた。
奥様は、私の能力を引き出してほしいと要望している。
それらをクレイン先生は一つ一つ丁寧に聞いていた。
ふと、クレイン先生と目が合った。人見知りしてしまい目を逸らしてしまう。するとクレイン先生の目が光った様な気がした。
〈ああ、この内気な所を祖母に何度も注意されていたのに……〉
俯いていると、カイルがそっと手を握ってくれた。見上げると「大丈夫だ」と目で励ましてくれる。
〈ダメダメ!まだ始まったばかりなんだから!〉
私は背筋を伸ばして気合いを入れ直した。
───数日後。
「ルシアさん、背筋を曲げない!」
クレイン先生の指導が始まった。
文学や数学、歴史など、先生の授業は多岐に渡る。
それらを頭に叩き込むだけでも必死なのに、授業中少しでも背筋が曲がったり字が乱れたりすると容赦なく喝が飛ぶのだ。
おかげで先生の授業が終わる頃にはくたくたになってしまう。
奥様からお茶に誘われたが憂鬱になってしまう。お茶の時間も先生にマナーチェックされるからだ。
片時も気が抜けず、美味しいはずのお菓子も味がしない。
一週間はなんとかもったのだが、10日を過ぎたあたりから先生の授業を受ける事自体が苦痛に感じてしまう様になった。
更に本格的なマナーの授業が始まると、あまりの厳しさに泣いてしまった。
それでもなんとか必死にくらいついていたのだが、どんどん厳しさが増す指導に、ついに心が折れてしまう。
すると先生は今までで一番大きな喝を落とされた。
「そもそも、あなたの考えは甘いのです!やる気がないなら辞退なさい!」
そう厳しく仰って部屋を出て行かれた。
……先生の喝が心にグサリと刺さる。私の“言い訳”を見抜かれていたからだ。
私は伯爵様や奥様に恥を欠かせまいとなんとか必死に頑張っていた。しかし心のどこかで、“私は貴族じゃないのに”とか、“奥様が勝手に押し付けた先生なのに”と、ずっと言い訳をしていた。
私は家庭教師の話を承諾した時、強く生き抜く為の力を得るために頑張ると決めたはずなのに……
なのにいつのまにか、“人にやらされている”とすり替えて逃げていた。そんな私の慢心を先生はなにもかもお見通しだったのだ。
私は涙を拭くと、身支度を整えて先生の部屋へと向かった。
先生は私を見るなり片眉を上げる。
「先生、これまで中途半端な気持ちで授業を受けて申し訳ありませんでした。これからは心を入れ替えてしっかり学ぶので、どうかまたご指導をお願いします。」
私は深々と頭を下げた。
すると先生は満足そうに頷き、真剣に話してくださる。
「ルシアさん、世の中とはあなたが思う以上に厳しいのです。困難だからと諦める様ではどこに行っても通用しません。もっと自分自身を信用しなさい。」
先生の言葉が胸に染みる。
〈祖母みたいな人だわ……〉
厳しい態度の裏に温かさがある。
この時クレイン先生は、ただの“家庭教師”から“師匠”になった。
次の日から、心を入れ替えて先生の授業に食らいついた。
何度も失敗してしまい泣いてしまったが、それは辛いからではなく悔し涙だった。
〈必ず体得してみせる!〉
真剣に先生の教えを体に叩き込んでいった。
*****
それから数日後、カイルが息抜きに街へ出ようと誘ってくれた。
馬車が屋敷を出た途端、カイルは「はあーっ。」と大きな溜息をつく。
「やっとルシアを甘やかしてやれる」
そう言って、これまでの裏話を聞いた。
カイルも伯爵様もどんどん落ち込んでいく私を心配して、もっと優しく指導するようクレイン先生に言おうとしてくれていたそうだ。
しかし奥様に止められて静観するより他なかったらしい。
更に、私がどうしてもダメになるまでは余計な甘やかしも禁止されたのだという。
「お前が泣いているのに何も出来ないなんて、俺も苦しかった。」
カイルの温かい言葉に嬉し泣きしてしまった。
〈ああ、私は一人ではなかったんだわ。〉
カイルは優しく頭を撫でてくれる。その日、私はカイルによって目一杯甘やかされたのだった。