音の外れた時計
────カチ カチ カチ カチッ……
時計の外れた音が部屋に鳴り響く。
左に窓と赤いカーテン、真ん中に白いダブルベッドを挟んで右にはタンス、その上には小さな置き時計と黒電話があってやや暗い。
反対に足元に敷かれている花模様の絨毯からは色鮮やかな雰囲気が漂っている。
カリプに案内されるがままに進んできてしまった。
暫くはここに泊まるのだから覚えておかないと。
「初めて、で合ってるのかな?」
意外、というべきなのかな。
この部屋の雰囲気が不思議と心を落ち着かせる。
先ほどまで意識を張り詰めていたからこそ今、なんとなくそう思えた。
ふと、中央にあるベッドが気になった。
真っ白なベッドのシーツにゆっくりと近づいて指の先から軽く触れてみる。
ふわふわとした柔らかさと花の優しい香りに思わず、顔を埋めてしまう。
まるで日光浴をしているかのような暖かさとしっとりとした肌触りに全身から力が抜けていく。
「あったかい……ふわぁ〜、なんだか眠いなぁ」
部屋までの道のりを覚えるのは後でもいいかな、いいよね?
こんな気持ちいいベッドなら毎日ぐっすり寝れそう。
靴を脱いでそのままベッドの上へ横向きに寝そべる。
押し寄せてくる眠りの波に意識が段々と呑まれていく。
服を着たままだけどそんなんこと気にせず、眠気に勝てそうにな、い─────。
♢
────カチ カチ カチ カチッ……。
時計の外れた音が聞こえてくる。
重たい瞼をなんとか開けて意識を目覚めさせる。
そういえば確か、眠気に任せてベッドの上で眠ってしまったんだっけ?
まだ起きたくないけど、そろそろお腹の虫も目を覚ます頃。
カリプにまたわがままを聞いてもらうことになりそう。
抵抗する意識とは裏腹になんとか上半身を起こす。
腕を伸ばして身体を軽くほぐし、ベッドの下に置いた靴を履く。
「外はもう夜かな?」
窓の赤いカーテンを持ち上げて外を覗いてみる。
黒一色、と言っていいほどに暗く何も見えない恐怖が背中を撫でる。
ぞわぞわと足元から巡ってくる謎の寒さ。
未知の何かに落ち着いていられる不思議な気分。
カーテンを下ろして再びベッドに腰掛ける。
「寝てる場合じゃない。何か思い出させるきっかけがあればいいんだけど」
何者だったのか、どんな人間で性格で何故この屋敷の前に立っていたのか。
僕は一体、誰なのか。
『アリス』じゃない僕を知る必要がある。
───ジリリリーン ジリリリーン!
突然、鳴り響いてきたのは黒電話。
年式は古いものだと思うけど、誰からかかってきたのか。
恐る恐る受話器を耳に当ててみる。
『お目覚めになられましたか? アリス様』
「カリプ? ごめん、勝手に寝ちゃって」
『とても安心したような顔で眠っていらっしゃったので起こしては悪いかと。……ところでアリス様、そろそろ夕餉の支度が整いますがいかがなさいますか?』
「うん。今行くね」
『かしこまりました。食堂は一階左側の奥の部屋でございます。何かありましたらすぐにお声掛けくださいませ。それでは失礼いたします』
カリプが電話を切った後に受話器を元に戻す。
どうやら夕食の時間まで眠ってしまったみたい。
何時間寝ていたのか隣の置き時計を確認すると、丁度午後七時を針で指していた。
お腹の虫が騒ぎ出す前に食堂へ向かおう。
僕が泊まらせてもらっている部屋は玄関から中央の階段を右に上がって四つある部屋の三番目。
部屋を出てすぐの廊下にはそんなに一階との高さはないのだけど手摺が冷たく滑るためヒヤッと感じる。
外の暗さとは違って扉の前や階段下にランタンが吊るされていたりとさっきよりはだいぶ見やすくなっていた。
「中央から見て、左だからこっち?」
寝る前には気づかなかったけどここも花柄の絨毯が敷かれていて、こっちは紫色の花が主に描かれている。
道中の廊下にも他の場所同様にランタンが吊るされていて右側が窓で赤いカーテン、その後ろは部屋と変わらない景色。
「ここで合ってるかな?」
一番奥の部屋。そこが食堂と聞いたのだけど、人の家ということもありぎこちない。
カリプを待たせてしまうのは申し訳ない、早く入ろう。右手でドアノブを捻って扉を内側へ開く。
「お待ちしておりました、アリス様。夕餉の支度が整いました。本日は鴨肉のソテーとコーンスープ、デザートに焼きリンゴのカラメルソースでございます」
「……すごい」
中央に置かれた長テーブルの上に広がる色鮮やかな料理が並んでいてどれも美味しそう。
食堂の中は明るく天井にはシャンデリア、左側には暖炉があり室内がとても暖かい。
でも、なんで椅子が二人分?
対面する形で配置されているけど、カリプが座る様子もない。
「お料理が冷めてしまいますよ?」
「カリプは食べないの?」
「私は使用人でございます。アリス様はお客様、使用人風情が一緒になどご主人様のお怒りを受けてしまいます」
それは困る。僕の余計な一言でカリプが主人に怒られてしまうのは申し訳ない。
とりあえず今は食事をいただくとしよう。
暖炉とは反対側に移動するとカリプが率先して椅子を引いてくれた。
使用人故に手慣れているのは当たり前か。
どこかわからない違和感を感じているのはきっと気のせいだ。
首元にカリプが紙エプロンを巻いてくれて、気分はどこか好調している。
「どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます」
♢
夕食を食べ終えて、カリプが温かい紅茶を淹れてくれた。
とても美味しかった。食べ慣れていないものだったのか、少しぎこちなくて戸惑ってしまった。
記憶を思い出せればそんなことはなかったはず。
でも、今は満腹の余韻に浸かっていよう。
「いかがでしたか? お味のほどは。お客様の好みによって味付けは変えていて、今回は少々薄味にしてみたのですが」
「とても美味しかったよ。初めて食べた気がする」
「痛み入ります」
未だ見えないカリプの表情。
仮面をしているのか、それともそう見えているのか。
それを聞ける勇気もなく、無心にティーカップの紅茶を飲み干す。
「そろそろ寝ようかな」
「おやすみになられますか? では、部屋までご案内します。廊下も暗くなっている頃ですので」
食堂を出てカリプの後を付いていくように歩く。
確かに廊下は食事をする時よりもさらに暗く、足元もわかりにくい。
途中、ランタンに火を点け直しているあたり風が吹いているのか?
階段を上って泊まっている部屋までなんとかたどり着けた。
足元の不安定さゆえに階段から踏み外してしまうところだった。
「ありがとう、カリプ」
「いえ、使用人としての務めですので」
「明日、聞いてもいいかな?」
「明日?」
「うん。カリプが言ってた話」
「……かしこまりました。では、明日お話し致します。おやすみなさいませ、アリス様」
軽くお辞儀するカリプを背に僕は部屋に戻った。