足りない『標本』
夜。カーテンの隙間から見る窓の景色は黒くて、月の光すら届かないほどに空は曇っている。
残り一日。明日までには解決して死を回避しないといけない。
実感すら覚えないものにこうも人は怯えてしまうのか。
「……行かないと」
自分が泊まっている部屋を出て静かに扉を閉める。
隣のリュークさんはたぶん、寝てるだろうからあんまり音を立てるのは失礼だ。
かと言ってゆっくり歩くのは不審。
いつも通りに歩く速度は同じにして『部屋』へ向かう。
廊下には明かりの灯ったランタンが唯一の明るさで気をつけないと大きな物音を立ててしまう。
ランタンを頼りに食堂の隣にある『部屋』まで歩いていく。
「一人でいいの〜?」
僕の頭の右隣で呟くチェシャ猫。
ニヤニヤと笑みを崩さないその表情に多少の苛つきを覚えるが、なんとか堪える。
これはあくまでも、僕だけの問題だ。
カリプはこの屋敷の使用人、リュークさんは新聞記者で僕はただ記憶を失った客人。
もしも、回避することができなければ、きっと────。
ドアノブへ右手を伸ばす。
……が、右手の指先から震えていて怯えていてまともに掴めない。
正直、怖くて仕方がない。でも、行かないといけない。
僕が解決しないとカリプやリュークさんが巻き込まれてしまう。
「絶対にそれは嫌だ」
「ふーん」
チェシャ猫は扉の向こう側へ消えていった。
今度こそしっかりドアノブを握って右へ捻る。
──案の定、あっさり開いた扉。
開けた途端に襲われるかと思っていたが油断はできない。
周囲を扉から顔を出して確認する。
左には本棚で明らかに空いている場所とその下には本が一冊、カーテンはともかくソファーの配置も変わらない。
問題は、その右側にある『標本』。
あれが切断された女性の部位を集めたものなら、『頭部』はまだないはずだ。
でも、それが『標本』ではなく違うものなら……。
「何をしてんのさ、アリス嬢」
「え!? りゅ、リュークさん!? どうして、ここに?」
「目が覚めて寝れなくてよ。水でも飲みに行こうか迷って部屋を出たら、アリス嬢がいた。それで、何してんの?」
「い、いや、その、探し物を」
「こんか夜に?」
「は、はい。どうしても明日までには探さないといけないので────」
────ガシッ
刹那、右手を扉越しに掴まれる。
力強く強固で、それでいて何より冷たい。
「リュ────」
言葉を発するよりも早く部屋の中へと引き摺り込まれる。
咄嗟の判断も出来ず、僅かな油断を突かれた。
それでも懸命に伸ばした左手が届くはずもなかった。
深い暗闇へと引き摺られていき、椅子に座らされて手や足を後ろへ縛られて口に布を咥えさせられる。
「おい! 大丈夫か!? クソッ!」
部屋の外からリュークさんの怒鳴り声が響く。
手足を縛られ、口も塞がれて悲鳴の一つも上げる隙を与えてくれない。
一体、これから何をされる?
あの感触や体温は人間ではなかった。
周りが暗すぎる。紐なのか、ロープなのか、それによっては切るか解くかしないと抜け出せない。
必死に身体を揺さぶっても、片方の手や足が抜け出せるほどの隙間もないほどに圧迫されていて解けない。
それどころか次第に身体の血流が悪化している。
「んっ、んんっ、んぬっ!」
動いてくれ! リュークさんのいる扉まで戻るんだ!
左右に揺さぶって、やっと数ミリ椅子が少し左に動く。
多少の段差があるかもしれないけど、頭を怪我しようがやむを得ない。この部屋から出ないと。
『ど こ に イ く の ?』
椅子を動かすことに夢中で、すっかり忘れていた。
僕を縛り付けた張本人が部屋の中にいたことを。
どこだ、どこにいる……!?
移動したせいか、首が左を向けない。
右側にはコンクリートの壁、正面は暖炉とソファーが三つ見えて開いているカーテン側のソファーだけ黒い。
不自然な黒さで右の一部だけ変に汚したかのように。
────違う、それは影だ。
ゆっくりと視線をずらして向かい側のソファーへ。
「ん!?」
──居なかった。開いているカーテンからの光はほぼ皆無。
それなのにはっきりとわかった影の主である本体がそこにはおらず、いつの間にか影すらも消えている。
その本人はどこへ?
『ま、っ テ テ い マ イ く か ら♪』
片言のように言葉がはっきりしていない喋り方。
どこにいるのか見えない薄暗い闇に溶けている。
背中を撫でるこの冷たい悪寒、心音を上げていく心臓、早く逃げろと叫ぶ本能。
首元を見られている気配を感じる。
────もしかして、最初から僕の死角に立っていた?
確信が徐々に恐怖へと変わっていく。
僕が椅子を動かす行動は無駄だったのか?
「んん! ん〜〜〜っ!!」
リュークさん! リュークさん! 早く助けて!
椅子に縛り付けた張本人は、今確実に僕の『頭』を狙ってる!
なんとか壁際まで戻ろうと椅子を揺らしても微動だに動いてくれない。
それどころか左に進んでいて一ミリも右へと進んでいない。
早く、早く、この場から少しでも逃げるんだ。
「ん〜〜〜〜っ!!」
動いてくれ、頼むから、動い───ぁ、っ……。
強引に揺らしたからか、頭から先に椅子ごとコンクリートの壁に倒れる。
その際、頭を打撃したみたいでまともに思考ができない。
片目を開けて周りの状況を確認する。
頭を打った衝撃で視界が薄らとボヤけていて、立っているのは誰だろう。
服装はよくわからない。手元も見れない。
なら、顔は────ない。
否、顔がないんじゃなくて『頭部』がないんだ。
それに足元の床に何か光っているものは────斧。
床に刺さっている場所、そこは先程までちょうど頭の位置と考えると偶然にも斧の一振りを避けられた。
でも、状況は変わらない。
相手も二度目は必ず落としに来る。
『ど ウ し テ』
今のうちに逃げろ、僕。リュークさんが扉を開けてすぐ気づいてもらえる位置まで!
『────私は、あなたに、なりたかった、のに』
何を言ってるんだ? なりたかった?
考えるな、とにかく身体を揺さぶってでも扉の近くまで動かないと。
────ドンッ!!
「アリス嬢! ……っ!? 首が、ないッ!?」
やった! リュークさんが扉を開けてくれた。
どこを見ているのかはわからないけど、まだ壁のほうを見ていると思う。
飛び跳ねるように必死に動いてリュークさんにここだと知らせる。
「そこだな! 待ってろ! うおおお────ッ!!」
リュークさんが『頭部』のない『標本』へと体当たり。
見事、体勢を崩すことに成功すると僕の元まで一直線。
すぐさまに手や足、口の布を外して自由にしてくれた。
関節部分が痛くて薄い青紫に変色していて、あと少し遅ければ完全に身動き取れなかった。
「立てるか?」
「ちょっとばかり、まだ痛みますが大丈夫です」
問題は足首だ。頭から倒れた際の衝撃と縛られていたときの圧迫の両方があって上手く立てるかが不安。
リュークさんだけでも逃げられるなら、僕が囮に。
「聞きたいことは山ほどあるが、アイツが先だ」
よれよれと立ち上がる『標本』。
僕を庇うように前へ出るリュークさん。
床に刺さった斧を抜き取り両手でしっかりと持ち、がっしり掴んだ手には力が入っていて今度こそ本当に狙ってくる。
このまま助走をつけて接近されたら不味い。
「俺が食い止める。何があっても振り返るな、自分の命を最優先するんだ。いいな?」
「で、でも、それじゃ、リュークさんが!?」
「小さい女の子一人守れないで娘に顔向けできねーよ。合図したら、扉を真っ直ぐに進め」
ダメだ、それじゃ。リュークさんが死んじゃう。
何か、何か策はないのか。この状況をひっくり返す方法が何かきっと、思い付いた言葉でもいい。
リュークさんを助けるんだ!
「フィリア! やめて! こんなことをしても何も変わらない! 黒い手袋にまだ隠してるんでしょ!?」
ピタッと『標本』の動きが止まる。
前回と同じことが通用するかどうかは不安だけど、なんとか足止めはできた。
リュークさんの袖を引いて急いで扉を目指す。
「急いでください! フィリアが動く前に!」
「わ、わかった!」
ズキズキと足首の痛みに耐えながら走る。
先にリュークさんが部屋の外へと出て、遅れる僕はチラッと後ろを見る。
『標本』は動いていない。このまま逃げれ────
「うわぁ!?」
足元に置いていた本に躓く。
なんでこんな時になってこうなるんだ。
早く、扉から出ないといけないのに。
こうなれば自棄だ。
本を両手で掴んで床を転がり、リュークさんに抱えられて部屋の外へと脱出。
リュークさんは足で勢いよく扉を閉める。
「大丈夫か、アリス嬢」
「はい、大丈夫です。リュークさんは大丈夫ですか?」
「俺は平気だよ。よく頑張ったな、偉いぞ。強い子だ」
そう言って僕の頭をポンポンと撫でる。
リュークさんの膝の上でなんとか口で呼吸をして、肺に酸素を送って脳へと運ぶ。
未だ激しく鳴り響く心音、両手で掴んでこの本、『頭部』がない『標本』。
そして、最後のあの言葉が頭から離れない。
『私は、あなたに、なりたかった、のに』
「俺の部屋に行こう。聞かなきゃいけないことがあるからな」
「……はい」
リュークさんに抱えられて部屋へと戻った。