失われたのはどちらか
ここまでの状況を整理しておこう。
『フィリア』の部屋に標本があるとチェシャ猫から聞いて、僕は部屋に向かった。
そこで見たのが恐らく『標本』。しかも、人間の。
さっきの情報だと人間の部位を集めている。
両腕、両足、胴体と揃って残るのは頭部のみ。
でも、僕が初めて入ったとき見たのは頭部はあった。
じゃあ、あれは標本ではない?
それとも、幻の類か?
否、まだ確固たる情報がない。結論を急ぐな僕。
あの時、部屋に触れたものは?
本と白い手紙を三つ、標本の上に被さっていま白の風呂敷。
動かしたものは? 本と白の風呂敷だけ。
本棚に本を戻そうとしたけど、背丈の都合もあって強引に押し込むことも出来なかった。
白の風呂敷に至っては自分でも気付かず足で踏んでいたのもあって、触っていないに近い。
もう一度、お茶会へ行くか?
……いや、あと二回しか行けないんだ。慎重に。
「標本か。なるほど、だから人間の部位を集めていたのか。それから……」
横目で見るリュークさんは楽しそうに手帳と睨めっこをしている。
ぶつぶつと一人だけで話をしては自己解決。
記憶を失う前の僕もあんな感じだったのか?
あくまでも想像だけど、さすがにあそこまで一人で楽しそうにしてることはない……はず。
「うーん……」
「お? どうした?」
「楽しそうですね」
「よく言われるんだよ、それ。一人でぶつぶつと喋って人が自然と離れていく。この間、娘にも怒られたくらいでさ」
「娘?」
「アリス嬢より背は高くてな、目はキリッとして真面目で『お父さん!』って。小さい頃はパパだったのに今じゃ完全にお父さんに固定されちまったよ。今年十六歳になるんだが、俺に似ないでしっかり者の自慢の娘だ。写真見るか?」
「はい、ぜひ」
コートのポケットから一枚の写真を取り出す。
片手で手渡されたのを両手で受け取る。
写真の左側には顔に黒い汚れが付いたリュークさん、その右側には小さな両手が汚れた黒髪の女の子。
「名前はクリス。俺の一人娘で幼少期の写真なんだが、昔はよく泥遊びをして二人共服を汚して帰ったものさ。アリス嬢の名前を聞いて娘と似てるから呼びやすいと思った」
「それでさっき、何度も名前を」
「あぁ。今の写真を一枚でも撮らせてくれって言っても嫌がられてな、せっかく買ったカメラが棚に飾る始末だよ」
幼少期の頃か。
二人共、笑っていてとても楽しそうだ。
さながら父親と娘の家族写真と言ったところか。
「……いいなぁ」
あれ、今、僕は『いいなぁ』と言った?
いや、正確にはこの家族写真に何か影響を受けて無意識に呟いたと考えるべきなのか。
不意に口ずさんでしまった言葉にリュークさんは変わらぬ表情で笑っていた。
「なんか訳ありって感じだな」
「え、えぇ。写真、お返しします」
相手のほうに写真が見えるように両手で返す。
……わからない。何故そう言ってしまったのか。
「ちょっと飲み物取ってきますね」
その場から逃げるように部屋を出る。
扉を閉めて急ぎ足で階段を降りてあと数段というところで、座り込んでしまう。
「せっかく、情報が入って進展してるのになんでこんなにも────」
────会いたい。
無性に湧きあがってくるこの感情は寂しくて寂しくてしょうがないとでも?
だったら、一体誰に会いたいんだ?
頭の中で浮かぶ『父親』という文字の重さ。
わからない、わからないはずなのに。
「なんで、なんで涙が出てくるの……?」
悲しい、悔しいという気持ちはなく涙が頬を伝う。
両手の掌に大粒の涙が一つ、また一つと落ちる。
どうして、どうしてこんなにも止まらない。
ただ足を抱えて蹲ることで顔を隠して涙が枯れるのを待つことにした。
♢
数分がたった頃、漸く階段下の床へと足を踏み出す。
飲み物を取ってくると言ってリュークさんの部屋から出たのだから、カリプに頼まないと。
「なーに、アリスの目が赤いよ〜?」
「チェシャ猫、いきなり現れないでよ。心臓に悪いから」
宙に浮かびながら身体をくるりと回転させる。
相変わらず突然現れては消える、煙のような──猫? 人間? ──存在だからあまり考えない。
「まあまあ、機嫌損ねないでよ〜」
「別に損ねてなんかない。飲み物を取りにカリプのいる食堂を尋ねるだけだよ」
「ふーん、飲み物か〜。我輩も何か飲みたいんだけどさ、リンゴとオレンジならどっち選ぶ?」
「リンゴ、かな。甘くて頭の中がスッキリとまではいかないけどちょうどいい。それが?」
「気になっただけだよ〜。我輩はブドウジュースが欲しいなあ」
「カリプにどう説明するのさ?」
「テキトーに答えたら? ────やっぱり、あの子とは違うんだ」
チェシャ猫がまた何かを呟いた気がした。
でも、リュークさんをこれ以上待たせるわけにはいかない。
早くカリプから飲み物を受け取りに行かないと。
♢
「ねぇ、チェシャはどの飲み物が好きなの?」
「我輩は勿論、ブドウが好きだな〜。じゃあ、リンゴとオレンジならどっちを選ぶの?」
「私はオレンジ!」
「まーた……はお子様だね〜。でも、そんなところも愛らしいんだけどさ〜」
「もうっ! また子供扱いしてる! だって、甘酸っぱくて飲みやすいし頭の中がふわふわ〜って」
「そんなこと言ってるようじゃ、まだお子様だよ〜」
────たわいもない会話に弾む二人。
これは、誰かの記憶。
二人はゆっくりと近づく終わりの音色に気づかない。