アリス
何を考えていたのか。
何を思っていたのか。
何を感じていたのか────不明。というよりも、わからない。
僕は今、なんで屋敷の目の前で立っているのか。
その場で深く息を吸っては吐いてみる。
軽く頬を抓ってみたり、軽く足踏みをして動いてみる。
けれど景色は変わらない。むしろ、不気味さが余計に増したくらい。
「なんでこんな服装なんだろ?」
青のスカートに白いエプロンドレス、お腹をキツくしめるコルセット、青白の縞模様のオーバーニーソックス。
髪は染めたつもりもないのに綺麗な銀髪で腰元まで伸びている。
「声も、こんな感じだったっけ?」
左右、背後を見ても木々と草が広がっていて奥は真っ暗闇。
空は今にでも雨が強く降り注ぎそうなほど黒く澱んでいる。
屋敷は三階建てでさらにその上に窓が一つ、真正面から見て一番上の真ん中にある。
室内からの明かりもなく、カーテンで閉め切っていて全く見えない。
誰かが住んでいるのかはわからないけどこのままでは風邪を引いてしまう。
雨が降る前に屋敷の人間にでも声をかけてみよう。
「すみません! 中に入れてください」
扉を数回叩いて、少し間を置いてからまた叩く。
自分がこの場所で立っていたのが道の途中で迷子になったのかもわからない。
ただ────この屋敷に入らないといけない、どこからか湧き出て来る使命感に迫られている。
「返答はない、か」
当然、というべき反応。
横を通り過ぎていく冷たい無情の風。
ここからもし、町に向かったとしても一時間以上はかかると見込んでさらに時間が経って野垂れ死ぬか。
あるいは悪ければそのまま放置されて獣などのエサに。
どちらにしろ迷っている暇はない。
一か八か、ドアノブへ手を伸ばす。
「────開いてる?」
右手の指先が触れた一瞬、扉が内側へと開いた。
まるで招き入れているかの如く力を入れずともゆっくり開いていく。
このまま外に居てもいずれにしろ雨が降る。
事情は説明するにしろ、今はお邪魔させてもらおう。
少し開いた入り口から覗き込むように室内を見渡す。
外から見た景色と同じく明かりがなければ全く足元すらわからない暗さだけど全く周りが見えないほどではない。
微かに鼻腔を擽る花の香りと焼きたての洋菓子の匂いが同時にお腹の虫を刺激する。
考えることに夢中になっていたが故にお腹の虫は本能的にこの甘い匂いの元を求めている。
これでは失礼極まりないもいいところだ。
「お邪魔しまーす……」
ゆっくりと屋敷内へと入っていく。
扉を閉めてまず見えてきたのは中央の左右に分かれた階段の右下に飾られた写真立て。
黒服の男性がブロンドの金髪少女を膝に乗せている写真で少し色褪せているのがわかる。
少女の服装は襟の深いブラウスにボリィスと呼ばれる胴衣、赤いスカートと白いエプロン。
それにこの写真をよく見ると『顔』がよくわからない。
モヤがかかったように白く首元から上の部分が全く見えないため、どんな表情をしているのか不明。
勝手に家へ入り込んでしまった人間のするべき行動ではないのは承知している。
けど、明らかに不自然すぎる。足音よりも扉を開けた音に誰も駆け寄って来る気配もない。
ここは本当にただの屋敷なのかな?
「このお屋敷に何用で?」
突如、耳元に言葉を囁かれ反射的に尻もちを着く。
見上げる形で声の方向を探すけれど辺りは暗さを増していて何も見えない。
「ここですよ、ここ。私の姿を確認できますか?」
カチッと火花が舞う。
微かな火薬の匂いと同時に暗闇の中で明かりが灯ると小さな指先で掴まれたランタンが顔を出す。
「う、うん。確認できてる」
「それは良かったです。では、再度お聞きします。このお屋敷に何用で?」
「雨が降りそうで、下山? なのかな。町に出ようにも何時間かかるかわからない。できることなら、泊めて欲しい。叶うのなら、だけど」
「お一人でですか? ……ふふっ、面白いことを言うのですね。このお屋敷にどうやってたどり着いたかはわかりませんが、町に出ようものなら狼や熊に襲われるのがオチかと。私もこのお屋敷の外へは出たことないので」
ランタンの灯りに照らされて指先の本体が現れる。
襟の深い白いブラウス、赤いスカートと茶色のコルセット、白いエプロンに黒のニーソックス。
透き通るようにキラキラと別次元の明るさを放つブロンドの金髪。
頭からすっぽりと被っている黒のパーカー付きマントを羽織っている少女。
極め付けはその少女の『顔』が見えない。
さっきの写真の少女と同じく『顔』が全く見えないのだ、仮面というマスクをしている────まるで、灰でも被っているかのように全く。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや、なんでもない。それよりも、こちらから問うのは間違いなんだけど返答を聞いてもいいかな?」
「構いません。ですが、面白い方ですね。このお屋敷へ泊まろうとするなんて」
「どういう意味?」
「言葉通りでございます。このお屋敷に泊まりに来たお客様は三日後に必ず消えるのです」
三日後に消える。これまた不自然な話だけど、どうしてなのかは気になるけど一先ずは安心。
それに面白いと言ったこの少女もなかなか肝が据わっているように見える。
「ところで、お名前をお聞きしても?」
「名前は……わからない。気づいたらこの屋敷の目の前に立ってた、こんな服装でこんな身体だったのかも覚えてない」
「言わば記憶障害や記憶喪失という類なのですね。それは困りましたね……よろしければ、私が僭越ながら名前を付けてもよろしいですか? いつまでもお客様とお呼びするのは失礼だと思いますので」
「うん。お願い」
「かしこまりました。では……アリス、というのはどうでしょうか? 不思議の国とまではいかない小さなお屋敷ですが、森に迷い込んだ憐れな主人公の名前から取ってみました」
「呼びやすい名前だね。じゃあ、僕の名前はアリス。記憶がないただのアリス。暫く泊まらせてもらってもいいかな? 自己紹介がてら君の名前を聞いてもいい?」
「カリプと申します。以後お見知りおきを、アリス様」
そう言ってカリプは左足を斜め後ろの内側に引き右足の膝を軽く曲げ、背筋を伸ばしたままお辞儀。
僕も慌てて同じ仕草で返す。
無言で互いに向かい合うと「顔」の見えないカリプが笑っているように見えた。